「道の学問・心の学問」第七十三回(令和3年10月5日)
手島堵庵に学ぶ①
「我は人の師となるべき者にはあらず、石田先生の教授の取次なり。」
(『手島堵庵先生事蹟』)
石田梅岩歿後、石門心学はその門弟達によって受け継がれ、畿内のみならず江戸まで広がり全国的な興隆を見るに至った。全ての組織がそうだが、偉大な創始者の後を受けて「守成」を為すのは至難の業である。しかし、石門心学に於ては、手島堵庵という人材を得た。
堵庵は、享保三年(1718)に京都華頂山下の商家に生まれた。13歳で父を、18歳で母も亡くし、祖母に育てられた。母を亡くした享保二十年、18歳の時に石田梅岩の門に入った。梅岩が51歳の時である。堵庵の人となりについて『事蹟』には「敏にして問ふことを好み、節倹にして仁愛厚く、寛大にして恭謙にましませり。」と記してある。温厚寛仁で学問を好む天成の君子人だった。入門して2年後の20歳で本性を悟り、開悟している。27歳の時に師梅岩が亡くなる。先輩達の後を受けて、43歳で初めて出講し、44歳で家業を長男に譲って隠居し、その後の人生を道の為に捧げた。51歳で梅岩の二十五回忌を祭主として営んだ。56歳で梅岩の三十三回忌を営んだ際には、門下生千数百人が全国から参集している。天明六年(1786)69歳で生涯を終えた。
堵庵は、梅岩の教えを自ら実践し、そのまま人々に伝えた。堵庵は講義の初めに「私は教えを為す様な人間ではありませんが、先輩方が既に亡くなられたので止むを得ずに学びながら講釈を行っています。固より文学に詳しい訳ではありませんが、只、梅岩先生の説に人に固有の本性を知らしめる事があり、是を知る時は行いに至り易い道なので、その事を皆さんに披露するためにお話をします。」と述べてから書物を講義されたと、言う。
それ故、門人の礼を為して入門する者が居ても、敢て弟子とせずに、友の礼を以て交わった。冊子を作り「石田先生門人譜」と名付けて、固有の性を知る者があれば、名前を記し、その度ごとに石田先生のお墓の在る鳥辺野の方に向かってその事を告げた。
又断り書きを出し、教えを乞うて訪ねて来る士から贈り物は一切受け取らなかった。
「私は人の師となるような者ではありません、石田先生の訓えの取り次ぎをしているにすぎないのです。儒学を業としている訳でもありませんし、隠居の身で衣食に不自由はありません。門人の中には貧しくて束脩の儀(入門時の贈り物)が出来ない人も居ますので、それらは一切受けない事にしているのです。もし強いて謝礼をしたいと思われるのならば、随分孝悌を身に行って同志の人を導いて下さい。その事が何よりの謝礼です。私には徳行が未だ身に付いておらず、人を承服させる事が難しいので、あなたが、私の言う事を聞いて孝悌を実践し、道に進まれるならば、それは私の生涯の喜びです。それにまさるものは無いのです。」と述べて、贈り物は固く断わった。
石門心学は心の学問であり、その学問はそれを実行する人物の人格によって伝播する。その意味で、師を慕い、自らを無にして道の為に尽くした手島堵庵を得た事で、心学は益々その真価を発揮するに至ったのである。
手島堵庵に学ぶ①
「我は人の師となるべき者にはあらず、石田先生の教授の取次なり。」
(『手島堵庵先生事蹟』)
石田梅岩歿後、石門心学はその門弟達によって受け継がれ、畿内のみならず江戸まで広がり全国的な興隆を見るに至った。全ての組織がそうだが、偉大な創始者の後を受けて「守成」を為すのは至難の業である。しかし、石門心学に於ては、手島堵庵という人材を得た。
堵庵は、享保三年(1718)に京都華頂山下の商家に生まれた。13歳で父を、18歳で母も亡くし、祖母に育てられた。母を亡くした享保二十年、18歳の時に石田梅岩の門に入った。梅岩が51歳の時である。堵庵の人となりについて『事蹟』には「敏にして問ふことを好み、節倹にして仁愛厚く、寛大にして恭謙にましませり。」と記してある。温厚寛仁で学問を好む天成の君子人だった。入門して2年後の20歳で本性を悟り、開悟している。27歳の時に師梅岩が亡くなる。先輩達の後を受けて、43歳で初めて出講し、44歳で家業を長男に譲って隠居し、その後の人生を道の為に捧げた。51歳で梅岩の二十五回忌を祭主として営んだ。56歳で梅岩の三十三回忌を営んだ際には、門下生千数百人が全国から参集している。天明六年(1786)69歳で生涯を終えた。
堵庵は、梅岩の教えを自ら実践し、そのまま人々に伝えた。堵庵は講義の初めに「私は教えを為す様な人間ではありませんが、先輩方が既に亡くなられたので止むを得ずに学びながら講釈を行っています。固より文学に詳しい訳ではありませんが、只、梅岩先生の説に人に固有の本性を知らしめる事があり、是を知る時は行いに至り易い道なので、その事を皆さんに披露するためにお話をします。」と述べてから書物を講義されたと、言う。
それ故、門人の礼を為して入門する者が居ても、敢て弟子とせずに、友の礼を以て交わった。冊子を作り「石田先生門人譜」と名付けて、固有の性を知る者があれば、名前を記し、その度ごとに石田先生のお墓の在る鳥辺野の方に向かってその事を告げた。
又断り書きを出し、教えを乞うて訪ねて来る士から贈り物は一切受け取らなかった。
「私は人の師となるような者ではありません、石田先生の訓えの取り次ぎをしているにすぎないのです。儒学を業としている訳でもありませんし、隠居の身で衣食に不自由はありません。門人の中には貧しくて束脩の儀(入門時の贈り物)が出来ない人も居ますので、それらは一切受けない事にしているのです。もし強いて謝礼をしたいと思われるのならば、随分孝悌を身に行って同志の人を導いて下さい。その事が何よりの謝礼です。私には徳行が未だ身に付いておらず、人を承服させる事が難しいので、あなたが、私の言う事を聞いて孝悌を実践し、道に進まれるならば、それは私の生涯の喜びです。それにまさるものは無いのです。」と述べて、贈り物は固く断わった。
石門心学は心の学問であり、その学問はそれを実行する人物の人格によって伝播する。その意味で、師を慕い、自らを無にして道の為に尽くした手島堵庵を得た事で、心学は益々その真価を発揮するに至ったのである。
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