「道の学問・心の学問」第七十一回(令和3年9月21日)
石田梅岩に学ぶ⑫
「聖徳太子舎人親王よりも、汝が器量はまされりと思はれ候や。」
(『都鄙問答』巻之四)
『都鄙問答』の最後に「或人天地開闢の説を譏(そしる)の段」がある。日本書記神代巻の冒頭に、「天地未だ剖(わ)かれず、陰陽分かれず、混沌たること鶏子の如く、くくもりて芽を含めり。その清み陽なる者は、たなびきて天となり、重く濁れる者は、地となる。神聖その中に生れます。時に天地の中に、一つの物生れり。状、葦牙の如く、すなわち神となる。国常立尊と号す。」とあるのは「奇怪な説」だと述べる者と梅岩との問答である。
梅岩は言う、「貴方の言う様に、世の中でこの説を疑う者は多い。しかし、それは自らの本性や理(ことわり)に暗い者には伺い知る事が出来ないことだからである。それなのに、これを奇怪な説だと言うのは、(『天皇記』・『国記』を編纂された)聖徳太子や(『日本書記』を編纂された)舎人親王より、あなたの器量が優っていると思っているのですか。」と。昔の人が唱えた説を現代的な知性に当て嵌めて「荒唐無稽」だと一笑する、傲慢な輩は世に充ちているが、梅岩は決してそうではなかった。貴方は聖徳太子や舎人親王と比べて、自分が優っていると思っているのかと、その学問姿勢に対して、厳しく過ちを指摘する。
「いえ、私ら如きが及ぶ様な方ではありませんが、説は奇怪に思われます。」と答える者に、梅岩は「太子や親王は聖徳があり世の中を賢く渡って居られた方故、これらの事を書き伝え我が国の記録と為されたのは、何故であろうかと心を付けて考えねばならない。」と諭した後、神代巻の言葉の持つ夫々の深い意味について、周易等も引用しながら解説を加えて行く。そして、全て「象(かたち)を仮(かり)て義を顕す」ものであり、比喩を通して自然の原理が示されているのだ、と語る。
「天地未だ闢(ひら)けざるの説」等は、天地には自然の次第(秩序)がある事を知らしめる為に記されている。自分の性(本性)を知って万事の説を見るならば、自分の手の平を見る様に、その真意が理解され、明らかで疑いが無いものとなる。自らに引き付けて考えるなら、人間は母親の胎内に宿った時は一滴の水だが、その中には様々な兆しが含まれている。その中で清く陽なる者は虚にして心となる。それは天が開けるのと同じである。重く濁れる者が形となるのは、地が闢けるのと同じである。頭の形が高くなるのは葦牙の様である。この様に見れば天地開闢の理は我が一身にも備わっているのだ。
字面に拘って一つ一つの言葉に泥んでいては、書物を読んでも不審ばかり出てきて、心を解き明かす楽しみにはならない。滞って苦しむのは、自分の知が開かない為だと知るべきである。
この様に神話に託された宇宙の真理について、自らの本性の自覚と照し合せて、体得して行くのが梅岩の学問だった。
人間は小宇宙である以上、宇宙の全ての原理が人間にも備わっている。先人が記し古典として読み継がれて来た書物に虚心坦懐に学ぶ事が、自らの心を解き明かす「楽しみ」となる事を梅岩は教えている。
石田梅岩に学ぶ⑫
「聖徳太子舎人親王よりも、汝が器量はまされりと思はれ候や。」
(『都鄙問答』巻之四)
『都鄙問答』の最後に「或人天地開闢の説を譏(そしる)の段」がある。日本書記神代巻の冒頭に、「天地未だ剖(わ)かれず、陰陽分かれず、混沌たること鶏子の如く、くくもりて芽を含めり。その清み陽なる者は、たなびきて天となり、重く濁れる者は、地となる。神聖その中に生れます。時に天地の中に、一つの物生れり。状、葦牙の如く、すなわち神となる。国常立尊と号す。」とあるのは「奇怪な説」だと述べる者と梅岩との問答である。
梅岩は言う、「貴方の言う様に、世の中でこの説を疑う者は多い。しかし、それは自らの本性や理(ことわり)に暗い者には伺い知る事が出来ないことだからである。それなのに、これを奇怪な説だと言うのは、(『天皇記』・『国記』を編纂された)聖徳太子や(『日本書記』を編纂された)舎人親王より、あなたの器量が優っていると思っているのですか。」と。昔の人が唱えた説を現代的な知性に当て嵌めて「荒唐無稽」だと一笑する、傲慢な輩は世に充ちているが、梅岩は決してそうではなかった。貴方は聖徳太子や舎人親王と比べて、自分が優っていると思っているのかと、その学問姿勢に対して、厳しく過ちを指摘する。
「いえ、私ら如きが及ぶ様な方ではありませんが、説は奇怪に思われます。」と答える者に、梅岩は「太子や親王は聖徳があり世の中を賢く渡って居られた方故、これらの事を書き伝え我が国の記録と為されたのは、何故であろうかと心を付けて考えねばならない。」と諭した後、神代巻の言葉の持つ夫々の深い意味について、周易等も引用しながら解説を加えて行く。そして、全て「象(かたち)を仮(かり)て義を顕す」ものであり、比喩を通して自然の原理が示されているのだ、と語る。
「天地未だ闢(ひら)けざるの説」等は、天地には自然の次第(秩序)がある事を知らしめる為に記されている。自分の性(本性)を知って万事の説を見るならば、自分の手の平を見る様に、その真意が理解され、明らかで疑いが無いものとなる。自らに引き付けて考えるなら、人間は母親の胎内に宿った時は一滴の水だが、その中には様々な兆しが含まれている。その中で清く陽なる者は虚にして心となる。それは天が開けるのと同じである。重く濁れる者が形となるのは、地が闢けるのと同じである。頭の形が高くなるのは葦牙の様である。この様に見れば天地開闢の理は我が一身にも備わっているのだ。
字面に拘って一つ一つの言葉に泥んでいては、書物を読んでも不審ばかり出てきて、心を解き明かす楽しみにはならない。滞って苦しむのは、自分の知が開かない為だと知るべきである。
この様に神話に託された宇宙の真理について、自らの本性の自覚と照し合せて、体得して行くのが梅岩の学問だった。
人間は小宇宙である以上、宇宙の全ての原理が人間にも備わっている。先人が記し古典として読み継がれて来た書物に虚心坦懐に学ぶ事が、自らの心を解き明かす「楽しみ」となる事を梅岩は教えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます