陸軍特攻隊「靖国隊」隊長
出丸 一男(でまる かずき)S16卒
「目的を果たせず二度生還、一か月後出撃し比島上空に散華」
出丸一男は済々黌から陸軍士官学校(第56期)に進んだ。昭和17年7月に卒業したが、その後の詳しい経歴は把握出来ていない。18年に熊谷飛行学校で学んでいる事、19年9月から10月にかけては朝鮮のソウル近郊の金浦飛行場の部隊に居て、9月15日に京城中学の講堂で講演し、その際黒板に両手を使って器用に南方戦線の地図を描き、かつ「かなりのインテリだ」と中学生に思わせる講演を行った。講演を聞いた中学生二人が出丸中尉の属する九三部隊(?)の開所記念日の10月1日に部隊を訪ねて行くと、短い時間だが会ってくれて記念写真も撮ってくれたという。
19年10月20日、米軍は比島のレイテ島東海岸に上陸を開始、わが軍は総力での反撃を開始し、海軍は神風特別攻撃隊が出撃、陸軍も本土に点在する各教導飛行師団に特攻隊の編成を命じ、12隊151名が選ばれた。教導飛行師団では成績優秀者が教官として残されてをり、中尉である彼らに隊長としての白羽の矢が当たった。第51教育飛行師団に居た出丸中尉は、同師団で編成された第3隊「靖国隊」隊長に任命された。講演をする位だから教官をしていたのであろう。隊の編成は、11月8日に朝鮮の全羅北道にある群山飛行場にいた第二錬成飛行隊の中で行われ、操縦者14名が選ばれた。
9日。14名は京城から東京の立川飛行場に飛び、隼戦闘機の一式三型機を受領した。13日に出発して鹿児島の知覧経由で比島カローラ飛行場に到着。21日、靖国隊はネグロス島のシライ飛行場に前進した。既に、同飛行場は米軍のP38等による激しい空襲を受けつつあった。
11月24日、敵空母二隻と輸送船団十数隻がミンダナオ島の北東海上を航行中との報告を受け、午後6時特攻機三機が出撃した。夜間飛行の
経験から出丸隊長他二人が選ばれた。だが、敵艦隊を発見出来ずに帰還した。26日再び出丸機を含む四機が出撃した。この時の靖国隊・出丸隊長の英姿は「陸軍特別攻撃隊」の「日本ニュース」で大々的に報道され、映像は全国の映画館でも放映された。(今でもこの映像はユーチューブで観る事が出来る。)
しかし、この二回目の出撃では米軍P38戦闘機の迎撃を受けて、マスバテ島の不時着飛行場に着陸する事となった。12月初め出丸中尉は一式戦闘機一機のタイヤを交換し、燃料を集め、不時着時に負傷した谷川少尉を載せてマニラ方面に向かった。出丸中尉がマニラに到着したのは12月10日前後と言われている。出丸中尉もマラリアに感染して焦燥しきっていた為、兵站病院に収容された。
12月29日、出丸中尉が属する第4航空軍は山下奉文大将司令官の第14方面軍の指揮下に入る事となった。出丸中尉にとって不運だったのは、大本営が11月27日付けで靖国隊出丸中尉他三名の特攻戦死を既に発表していた。そこで、12月26日、第4航空軍は出丸中尉に三度目の特攻出撃を命じた。マラリアの高熱は下がっていたものの、未だ体力が回復していない中での出撃となり、比島ミンドロ島付近で散華した。
特攻出撃前、出丸中尉が故郷の弟妹に宛てた手紙には次の言葉が記されていた。
「すなおとは、他人のいうままに動くの意にあらずして、正しと信ずることを、最後まで守ることなり。これが最も日本に必要な人間なり。」
又、手紙の最後に、菊池武時が博多の鎮西探題を攻める時に、袖ケ浦で直垂(鎧の装束)に書き残した辞世の句
ふるさとに今宵ばかりの命(いのち)とも知らでや人のわれを待つらん
を引用して、「今にして、この歌の心がよくわかる。これは兄の弱き心なり」と。
出丸 一男(でまる かずき)S16卒
「目的を果たせず二度生還、一か月後出撃し比島上空に散華」
出丸一男は済々黌から陸軍士官学校(第56期)に進んだ。昭和17年7月に卒業したが、その後の詳しい経歴は把握出来ていない。18年に熊谷飛行学校で学んでいる事、19年9月から10月にかけては朝鮮のソウル近郊の金浦飛行場の部隊に居て、9月15日に京城中学の講堂で講演し、その際黒板に両手を使って器用に南方戦線の地図を描き、かつ「かなりのインテリだ」と中学生に思わせる講演を行った。講演を聞いた中学生二人が出丸中尉の属する九三部隊(?)の開所記念日の10月1日に部隊を訪ねて行くと、短い時間だが会ってくれて記念写真も撮ってくれたという。
19年10月20日、米軍は比島のレイテ島東海岸に上陸を開始、わが軍は総力での反撃を開始し、海軍は神風特別攻撃隊が出撃、陸軍も本土に点在する各教導飛行師団に特攻隊の編成を命じ、12隊151名が選ばれた。教導飛行師団では成績優秀者が教官として残されてをり、中尉である彼らに隊長としての白羽の矢が当たった。第51教育飛行師団に居た出丸中尉は、同師団で編成された第3隊「靖国隊」隊長に任命された。講演をする位だから教官をしていたのであろう。隊の編成は、11月8日に朝鮮の全羅北道にある群山飛行場にいた第二錬成飛行隊の中で行われ、操縦者14名が選ばれた。
9日。14名は京城から東京の立川飛行場に飛び、隼戦闘機の一式三型機を受領した。13日に出発して鹿児島の知覧経由で比島カローラ飛行場に到着。21日、靖国隊はネグロス島のシライ飛行場に前進した。既に、同飛行場は米軍のP38等による激しい空襲を受けつつあった。
11月24日、敵空母二隻と輸送船団十数隻がミンダナオ島の北東海上を航行中との報告を受け、午後6時特攻機三機が出撃した。夜間飛行の
経験から出丸隊長他二人が選ばれた。だが、敵艦隊を発見出来ずに帰還した。26日再び出丸機を含む四機が出撃した。この時の靖国隊・出丸隊長の英姿は「陸軍特別攻撃隊」の「日本ニュース」で大々的に報道され、映像は全国の映画館でも放映された。(今でもこの映像はユーチューブで観る事が出来る。)
しかし、この二回目の出撃では米軍P38戦闘機の迎撃を受けて、マスバテ島の不時着飛行場に着陸する事となった。12月初め出丸中尉は一式戦闘機一機のタイヤを交換し、燃料を集め、不時着時に負傷した谷川少尉を載せてマニラ方面に向かった。出丸中尉がマニラに到着したのは12月10日前後と言われている。出丸中尉もマラリアに感染して焦燥しきっていた為、兵站病院に収容された。
12月29日、出丸中尉が属する第4航空軍は山下奉文大将司令官の第14方面軍の指揮下に入る事となった。出丸中尉にとって不運だったのは、大本営が11月27日付けで靖国隊出丸中尉他三名の特攻戦死を既に発表していた。そこで、12月26日、第4航空軍は出丸中尉に三度目の特攻出撃を命じた。マラリアの高熱は下がっていたものの、未だ体力が回復していない中での出撃となり、比島ミンドロ島付近で散華した。
特攻出撃前、出丸中尉が故郷の弟妹に宛てた手紙には次の言葉が記されていた。
「すなおとは、他人のいうままに動くの意にあらずして、正しと信ずることを、最後まで守ることなり。これが最も日本に必要な人間なり。」
又、手紙の最後に、菊池武時が博多の鎮西探題を攻める時に、袖ケ浦で直垂(鎧の装束)に書き残した辞世の句
ふるさとに今宵ばかりの命(いのち)とも知らでや人のわれを待つらん
を引用して、「今にして、この歌の心がよくわかる。これは兄の弱き心なり」と。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/album03.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/sinbu.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/album03.htm
単独の写真の下の陸士(航士:航空士官)56期の8人の集合写真で、前列の左も出丸さんでした。