ぶっ倒れております。
気持ちは元気ですが。
早よ治さんば!!!
無理しすぎたぁー!!!
7月21日。
スティールパンで童謡唱歌(202)
『赤い靴』
作詞:野口雨情
作曲:本居長世
『赤い靴』は1922年(大正11年)に発表された童謡です。
歌詞は、実話を題材にして書かれたという説があるそうです。
以前、羽田から横浜を通って、山梨の身延(みのぶ)へ行く観光バスの中で"赤い靴"について聞いたことがあって、それと同じ内容がWikipediaにあったので引用します。
野口雨情サンは1907年に札幌の北鳴新聞社に勤めていたときに岩崎かよサンという女性と知り合う。
「定説」によると、この岩崎かよサンの娘・佐野きみサン(1902年7月15日 - 1911年9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。→「佐野」は戸籍上の名前。
岩崎かよサンは静岡県有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが、1902年に身重となり、1人で帰郷して"きみ"サンを生んだ。
かよサンは1903年に北海道に移民として渡り、そこで鈴木志郎サンらとともに平民社農場で開墾に携わった(1906年に鈴木志郎サンと結婚)
しかし、開拓生活の厳しさもあり、1905年〜1907年頃に娘のきみサンを養女に出したという。
かよサンは娘・きみサンの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことになった。
やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になったが、その時きみサンは結核に冒されており、渡米できず、東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられることになった。
きみサンは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。
母親のかよサンは、きみサンはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこみ、東京の孤児院で結核で亡くなったことを知らないまま一生を過ごした。
野口雨情サンは1907年に札幌の北鳴新聞社に勤めていたとき、鈴木志郎サンと妻のかよサンとの親交を深め、娘のきみサンの話を聞かされた。
その後、1921年に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年に本居長世作曲で童謡になった。
…ということでした。
【歌詞】
1.赤い靴はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
2.横浜の 埠頭(はとば)から
汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
3.今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4.赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
◎似ている曲シリーズ
7月上旬に弾いた『きらきら星』
その時に目にしたのがですね、モーツァルトサンの『きらきら星変奏曲』の第8変奏の一部に『赤い靴』が似ている!ってことなんです。
参考YouTube、拝借。
マイナーな感じ、出だしが似てますね。
世の中にはいろんな曲が溢れているので、似ちゃうのも仕方ないみたいですね!