オタクはすでに死んでいる:岡田斗司夫:コミュニティの崩壊

2008年06月01日 | 人生はメンタルだよな
題名の"すでに死んでいる"という言葉は、"北斗の拳"から取っていることは自明であってそれが、「刺激的な題名となっている」というのは、あたらないだろうと思う。むしろ、そこに岡田氏のこの本を通じて自らは意図せずに表現した"ノスタルジー"を感じ取るのは私だけだろうか。

"ノスタルジー" そう、岡田氏にとってオタクは"すでに"ノスタルジーの対象になっているのではないか。50歳という年になって、彼は、オタク→ SF(DAICON3)→ 子供時代という自分の人生を振り返り、ノスタルジーという若い頃にはだれも否定する感覚にとらわれて思わずこの本を書いてしまったのではないかと、私は感じている。50歳は人生を振り返る歳だと思っている私は、この本のベースにある感覚をそんなふうに感じている。

『おれは"おたく"という言葉を広く世界に知らしめたのだから、おれが"おたくは死んだ"という権利があるんだ。』

この本は、その程度の本である、という批評もあることであろう。でもそれは、岡田氏本人も確信犯的に織り込んだ上での本であると言い切っていいと思う。(多分)

『オタクの生成と、その進化、そして爛熟と終焉。』

という話だけであったのなら、私はこの本を読むことは無かったであろう。

この本は私の大切な友人から貸してもらった。それは、酒場の会話がきっかけである。

「彼(岡田氏)は今のオタクたちは、一体感がないと書いていますよ。」

といったことを、友人は私に伝えてくれた。

「どうせ俺たちオタクだし。」という共有感がオタクという人達(岡田氏曰くの民族)に流れているだろうし、そういった感覚を持った私自身も"オタク"と言われることを快(こころよ)しと思っていたのだが、そのオタクに一体感がなくなっているとわ!

即座に私の頭には"コミュニティの崩壊"という言葉が浮かんだ。そして、友人からこの本を貸してもらったのである。

軽い本(たかだか190ページ)であり、岡田氏の文章も非常に読みやすい軽い文体であるので、あっという間に読めてしまったのだが、この本にも、岡田氏の著書に共通に流れる「自分の気持ち至上主義」という主張がある。

オタクというコミュニティが壊れていくのも、この「自分の気持ち至上主義」が原因である、という論説である。

「自分の気持ち至上主義」という生き方が、日本というこの国からコミュニティー、ないしコミュニティー意識を無くしていくのであれば、国としての形もなくなってしまうように、私は思う。なぜなれば、幻想と言われようが、共有感が無ければ人間社会は成り立たないから。

個人が個人として単独に生きていけるような社会ができるのであれば、「自分気持ち至上主義」の方たちはやっていけるのだろうけれど、今のところ日本という国のシステムはそういった人達が住める場所ではなく、他の国でも難しいだろうと思うのである。

しかし、近未来において、日本国籍をもった人の多くは国の行く末なんかどうでもよく"今日の"自分の気持ちを第一に生きていくようになるのかも知れない。

そして、そのときに、国体を維持していくのは、岡田氏曰くの「貴族主義」な人たちなのだろうなあと感じているのである。

その時に、衆愚政治(愚衆政治?)に至った、議会制民主主義は無くさざるを得なくなるのだろう、とも思う。

そういった、少なからぬ数の日本国民が感じている、現状のこの社会への危機感を共有できる一冊であった。