丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

障害児学級

2009年06月20日 | 個人史
K小学校には障害児学級があった。かなりの人数がそこに在籍していた。肢体不自由児もいたし知恵遅れの子もいた。
普通クラスにも所属学級があって、肢体不自由児でふだんの学習に差し支えない子どもはほとんどの授業を普通学級で受けていたし、知恵遅れの子どもで授業についていくのがかなり難しい子どもの場合には、学級活動や全体活動の時には普通学級に戻ってきて、そうでないときには障害児学級で生活をしていた。実験的にかけっこう多くの時間を普通クラスで生活していたこともあった。

僕のクラスには肢体不自由児で、片手が麻痺している男子が1名と、片手片足が不自由で学力もかなり遅れている女子が1名、常時一緒に授業を受けていた。それとは別に知恵遅れの子で遠足や体育大会等の行事には一緒に参加する男子が1名所属していた。何の前触れもなくクラスに入ったり出ていったりしていたが、クラスの子供達はそういう出入りにはほとんど気にしていなかった。

修学旅行では当然同じクラスとして一緒に参加していたが、他のクラスがすべて保護者も一緒だったのに僕のクラスだけは一人も保護者がついていなかった。

障害児の子どもについては特に思い出深い出来事がある。

小学4年の頃、大阪の子どもにとっては当時吉本新喜劇は当たり前のようによく見ていた。当時人気劇団員であった平参平のギャグで、何かの拍子にびっこを引いて歩き出して、途中で膝を叩くとぴんと伸び上がって普通に歩き出すという物があった。ひょうきんだった僕は授業中にテスト返却で用紙を取りに行くときにそれを真似して歩いていたら、担任教師に後で職員室に呼び出されてこっぴどく叱られた。
クラスに足の悪い子がいるのにその真似をする、と言って。
別に彼女の真似じゃないのに、と思いながらも言い訳はしなかったが後味は悪かった。

盲腸の手術後、学校に復帰してしばらく体育の授業を見学していたら、ぼさっとつぶやいたようだ、何を言ったか覚えていないが、早く走れるようになりたいとか、そんなことをつぶやいたのだろう。そうすると、隣で同じく見学していた足の悪い女の子が、あんたはもうすぐ体育やれるやろうけれど、あたしらは一生体育でけへんのやで、と言った。
この言葉は痛かった。あれから40年以上経つけれど未だに心に突き刺さっている。