いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

柳沢吉保の肖像と忠臣蔵物語

2008-01-09 04:26:05 | 時の話題
忠臣蔵が年末に公開される映画の座をテレビに奪われてから久しく、30数年は経っています。映画好きの元気印は、テレビ放映を観て鬱憤を晴らしています。

それは兎も角、人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」が宝永3(1706)年5月(諸説あり)、道頓堀にあった竹本座で上演さてからは、題材を同じくした演目が浄瑠璃、歌舞伎で演じられており、それらを集大成したのが人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」で、忠臣蔵物の源流になっています。

太平記の作者は近松門左衛門、忠臣蔵は竹田出雲(たけだ・いずも)、並木宗輔(なみき・そうすけ)、三好松洛(みよし・しょうらく)との合作で、他の合作品、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」と併せて浄瑠璃の三大傑作と言われています。

もう少し道草、合作者の経歴を調べてから本題に入ります。

竹本座の座元を兼ねていた出雲は、師匠の門左衛門が没する前後から30数本の作品を著していますが、その内20本近くは共同著作です。宗輔は、出雲の門人とする説を有する僧侶で、「いろは日蓮記」など日本戯曲史に残る傑作をものにしています。安田蛙文(やすだ・あぶん)と合作した「大門口鎧襲」は秀作と評価されています。軽妙洒脱な作風が持ち味とされ、「菅原伝授手習鑑」の二段目・道明寺を書いた松洛は、門左衛門の門弟とも言われている浄瑠璃作家です。この3人に共通しているのは、共同著作した作品に傑作を残していることです。

そして、この浄瑠璃作家は柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)を大石内蔵助の敵役にした筋立てをしています。喧嘩両成敗をしなかった綱吉を仇役にした忠臣蔵本では直ちに発禁であり、出版元はお咎め、最悪の場合、獄門刑になるかも知れません。また、芝居にすると幕が上がる前に上演禁止になる代物ですから、関係者を待っているのは極刑だけでしょう。

となると、綱吉の側用人(そばようにん)であった吉保を代役に据えて、時代や登場人物も観客が本人を推測して中てる余地を盛った物語にする知恵が求められます。江戸っ子達は、そこまで苦労して松の廊下でのお上の裁きに抗議した作者達の気概に拍手喝采を送り、忠臣蔵が創作物と判っている今も、人気を失わず、これからも生き続けるでしょう。

忘れてならないのは、江戸っ子が共有していた時代感覚、当時の時代背景を認識して忠臣蔵物語を観賞する歴史観でしょう。そうでなければ、今もこれからも、知る人ぞ何とかの世界に押し込んでしまいそうな風潮があります。

このままでは、忠臣蔵物語で創作された吉保像、吉保の虚像だけが永久に語り継がれてしまいます。
綱吉も同じ立場に置かれていますが、最近、その史実が見直され始め、吉保も忠臣蔵に描かれている人物像とは異なるとする説が散見されるようです。

つまり、忠臣蔵は創作であるから、史実とは別物である。そのことを理解することが、元禄赤穂事件の本質に迫るのではないか、とする歴史観です。

吉保の胸像が「柳沢吉保側室の日記・松蔭日記:正親町町子著、増渕勝一訳」に掲載さていました(写真)。

「忠臣蔵に描かれた吉保像に重なりますか?」

ボケ封じ観音さまが問いかけます。

「第一印象が違いすぎます。キュッと結んだ口元に意志の強さを表していますが、人のよさ、人への思いやり、優しさのような雰囲気を彫りこんだ胸像に感じます。綱吉が将軍の補佐役として幕府の政権を委ねただけのことはあります」
「それは、贔屓のひいき倒しでしょう」

そうだろうか?

「吉保が行っていた幕府での政策・業績などの僅かな事実を繋いで積み重ねていくと、ひとつの吉保像が浮かんできます」
「忠臣蔵では語られていないことで・・・」
「日記に書かれている吉保の行動もそのひとつです」
「市谷亀岡八幡宮での振舞いでしょう」
「その前にあります。吉保が綱吉から二万石の加増を賜り、三万二千三十石になった時、既に、和泉、武蔵、上総の各国内に領地を所有していました。中でも、上総の国両袋村(千葉県東金市)は早くから治めていたのです。ここ数年の間、吉保が順調に出世しているのは、この土地があってこそと、特別のものと考え、元禄2年分、百六十石の年貢を免除しているのです。加増があったのは元禄3(1690)年3月26日ですが、その年から翌年にかけての年貢を対象に免除したのです」
「佐倉惣五郎事件が、佐倉藩に起きています。藩の統治が悪いと取り立てるのは年貢です」
「亀岡八幡宮を参拝したのは、綱吉が吉保邸を訪れて、松平の称号と、綱吉の諱(いみな)の一字「吉」を授けられ、松平吉保に改めてから数日後のことです」
「徳川三代将軍・家光、桂昌院(けいしょういん:五代将軍・綱吉の生母)の信仰が厚かったこと、元禄年間に吉保が参拝したおり、境内に立ち並ぶ露天の品々を残らず買い上げ、露天商を感激させた逸話があると、八幡宮縁起にありますよ」

物知り観音さまです。負けてはいられません。

「日記には、元禄14(1701)年4月25日から数日後に参拝したとありますから、その時です。松平の称号を授かったお礼を報告するための参拝ですから、その喜びを露天商と分かち合っている。僅か500石の軽輩が側用人に抜擢され、七万二千石の武蔵野国川越藩主を授ったのは、大名格に恥じないように精勤したからですよ。商売に精を出していれば、いつかは報われると、露天商に行動で伝えたかったのです」

観音さまが打ち鳴らす相槌の音が響きます。

「まだあります。川越藩主としての後世に残る業績です。八幡宮を参拝する7年前に川越城主を拝領しています。上富(かみとめ:三芳町)、中富(なかとめ)・下富(しもとめ:所沢市)の三富新田開発は、家臣に任せ、武蔵野台地周辺の農民を入植させています。
 領地の石高を増やすために新田開発をするのは、藩主として当然のことでしょう。その事業と並行して多福寺と毘沙門社を2年後に落成させ、農民の信仰のよりどころとしています。人心掌握に長けていなければ、このように肺肝(はいかん)を尽くせません。忠臣蔵の吉保ではないようですね」

「綱吉は能力本位の官僚制を導入して新しい人事政策をやっています。勘定方の末席いた荻原重秀(おぎわら・しげひで)は、綱吉の進める勘定所改革政策を実施する段階でその能力を発揮して昇格していました。元禄9(1696)年、吉保に登用された重秀は、勘定奉行に昇り詰めます。元禄時代の財政を支える業績が認められたからです」

隠居前の元禄15(1702)年ことですが、吉保より6年後に側用人に就任した松平輝貞(まつだいら・てるさだ)の不興をかった儒学者に細井広沢(ほそい・こうたく)がいます。柳沢家で面倒を見てもらっていために、吉保は輝貞から広沢を放逐するよう執拗な圧力をかけられます。それに屈した吉保は広沢を放逐します。浪人の身となった広沢の学識を惜しんだ吉保は、年間50両の支援金を送り、親交を持ち続けたという伝聞もあります。

六義園その5・ススキのひとり言に書きましたが、主君・綱吉が薨去(こうきょ)して4ヵ月後、吉保は長男・吉里(よしさと)に家督を譲り、自らは六義園に隠居します。

綱吉の近臣で、主君が没して辞職したのは吉保だけです。
家宣(いえのぶ)が未だ甲府藩主の時、新井白石(あらい・はくせき)は家宣の侍講(じこう:政治顧問)になっています。
当然、家宣が六代将軍に就くと、白石は政治顧問として政権を担うようになります。
綱吉の側近であった松平輝貞や荻原重秀らは、地位に残ろうとして白石と対立して免職の憂き目にあっているのです。その時々の情勢判断力を吉保と比して雲泥の差があります。

「忠臣蔵物語に描かれた吉宗像とは違う吉保ですね」
「観音さまはボケないから、これからも吉保の史実を集めてくれるでしょうね?」
「ボケの気配を感じ始めたら、今日の話を思い出すでしょう」

スルッと逃げ出す観音さま。天邪鬼は自他共に認めよう。

観音さまとの遣り取りを聴いていた吉保。穏やかな表情をしたまま日記に収まって動く気配を見せない。これで、元気印も安心して寝床に潜り込める。


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