東京国立近代美術館の鑑賞、今回は3階の6室から9室です。
3Fの会場マップです。公式サイトからお借りしました。
3F
6-8室 1940年代-1960年代 昭和のはじめから中ごろまで
9室 写真・映像
10室 日本画
6室の概要・・・公式サイトからお借りしました。
6室 激動の時代を生きる
この部屋には、日中戦争の始まった1937(昭和12)年から、戦後の1949年までの
さまざまな人間像を集めました。靉光の《眼のある風景》は人間像とはいえないかも
しれませんが、しかしここに描かれている眼は印象的です。これはいったい誰の眼で
、何を見つめているのか、しばし考えながらこの部屋をめぐっていると、麻生三郎の
《自画像》の、切迫したまなざしにも似ていることに気づかされます。
だとするとやはり、《眼のある風景》に描かれている眼は、靉光自身の眼なのでしょ
うか。しかしながら彼が戦争へ行く直前に描いた《自画像》では、その眼は全く異な
る印象を私たちに与えます。
画家たちはまた、この激動の時代に、身近な人の存在のかけがえなさをキャンバス
に刻み付けたようにも思われます。前述の麻生は、妻や幼い娘を繰り返し描きました。
脇田和の《画室の子供》に描かれているのは、彼の二人の息子です。 彼はこの直後
に陸軍の委嘱でフィリピンに渡る予定でした。彼は何を思いながらこの絵を描いたの
でしょうか。
靉光 《眼のある風景》
靉光、本名は石村 日郎(いしむら にちろう)1924年、大阪に出て画家を志した時、靉川光郎(あいかわ みつろう)
と名乗る。靉光の名は、これを略したもの。靉光は生前、独特な画風から画壇の主流から外れ“異端の画家”とも呼ば
れたが靉光の死後、作品が日本人の油彩表現として一つの到達点を示したとして評価を高めた。(Wikipediaから)
見た瞬間、ウッ
今回は撮影しなかったので、2011年6月12日に撮影したものを使用。
靉光 《自画像》
この自画像の完成直後に応召し大陸へ渡り、1946年1月、中国の上海郊外でマラリアとアメーバ赤痢
により病死した。享年39。
靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した
上、残された作品も、実家が原爆で失われたことからその数は非常に少ない。
戦時下の状況から、靉光は戦争画を描くよう当局より迫られたが「わしにゃあ、戦争画は(よう)描
けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。(ウィキから引用)
今回、撮影してなかったので2010年3月21日に撮影したものを使用。
麻生三郎 《自画像》
怖っ
脇田和《画室の子供》
ポーズは可愛いいのですが、眼が・・・
松本竣介《黒い花》
カリカリ感、青の透明感がいい。
田村孝之介 《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》
戦争画です。 以前は、戦争画はコーナでまとめて展示されていましたが、今回は
6室のなかで、一般の作品に混じって展示されていました。 時代の一つの文化的
事実ですから、特別視せず淡々と観ています。
ガダルカナル島では、昭和17年8月、連合軍の上陸から大激戦が続き、昭和17年2月の
日本軍撤退まで、死闘が繰り広げられた。 日本兵の多くは戦死、病死、餓死した悲惨
なもので、撤退した年の八月には、「ガダルカナル島死闘記ー還らざる挺身隊」(陸軍
報道班員 森川賢司著)が発刊された。
挺身隊は、米軍基地に潜入し破壊工作を行うもので、任務を果たし帰還した中澤挺身隊
寺澤挺身隊の成功をもとに、12月21日大野挺身隊が計画され、25日師団司令部を出発し
たが、その後消息不明で全員未帰還となった。 大本営でガダルカナル島撤退が決定し
たのが12月31日だった。
この絵を描いた田村孝之介も、現地に行ったわけではなく、本などの情報に基づいて描い
たものであろう。なお、佐野部隊長とは第三十八師団 師団長佐野忠義中将。
この絵は当時、絵はがきにもなっており、当局としては、戦意高揚(身命を捧げて敢闘す
る)に都合が良かったのでしょう。
7室に移ります。概要は公式サイトからです。
7室 純粋美術と宣伝美術 その1
日本初のグラフィックデザイナーの職能団体である日本宣伝美術会(日宣美)が設立したのは1951(昭和26)
年でした。設立当時に会のメンバーが記した文章を読むと、デザインという言葉は見当たらず、宣伝美術という
言葉が用いられています。また、宣伝美術が一つの分野として独立性を持たないことに対して不満を抱えている
一方で、芸術性や作家性を重んじたいという思いがあったことを感じ取ることができます。
日宣美のなかには、美術同人として活動している者もいました。例えば、瑛九が中心となって活動したデモク
ラート美術家協会には、早川良雄や山城隆一が参加していました。造形の類似性も指摘できます。シュルレアリ
スムの絵画でよく用いられる白昼夢の風景や擬人化といった手法は、宣伝ポスターでも見ることができます。
ヤマハのピアノや三協のカメラのデザインをした山口正城は、抽象画家としても作品を発表しています。美術と
デザインの間に今ほどはっきりと境界線が存在していなかったことが分かります。
伊藤憲治 《リファインテックス》
ルネ・マグリットのシュールな絵画が思い浮かぶ、洒落た作品。
伊藤憲治は、canonのロゴなどもデザインした、斯界の草分け的存在。
(リファインテックスは、高級な洋服生地の商品名)
伊藤憲治 《石炭》
立体的で、これも洒落ています。
瑛九 《シグナル》
瑛九は1911年宮崎生まれ。本名・杉田秀夫。15歳で美術雑誌に評論を執筆とい
う早熟ぶり。36年フォト・デッサン作品集『眠りの理由』を刊行。
既成の画壇や公募団体を批判し、51年デモクラート美術家協会を創立。
参加者は画家をはじめ、デザイナー、写真家、評論家、バレリーナに至るまで
幅広い領域にまたがり、靉嘔、池田満寿夫、河原温、細江英公など、後に世界
的に活躍する多くのアーティストを輩出した。 日本の現代アートに与えた影
響はとても大きい。
ところで、このエッチング作品は、心の深層領域から発現したような形象が目
につきます。瑛九が、自身の本源的なものを追求していたからだと思いますが
私にとっては、得体のしれないものにしか見えず、ブルっとはきません。
河原 温 《孕んだ女》
有名なニューヨークのグッゲンハイム美術館で2015年、個展開催が実現した河原温だが、その前年に亡くなった。
河原温は20歳の頃、瑛九の浦和のアトリエに通っていて、瑛九に論破されては泣いていたらしい。 苦しんだ河原
温の渾身の作が「浴室シリーズ」で、当時、センセーションを巻き起こした。
文化遺産オンラインに、この作品の解説があるので、一部を抜粋して掲載します。
戦後の混乱から安定へと時代状況が進む中で、戦争の悲惨とその後の戦争責任の風化、新たな動乱の予兆といった
時代閉塞に対峙していた焼け跡世代は人間の条件を現実の状況の中に見つめていた。河原はそうした実存的な意識
で人間の置かれた状況をゆがんだ密室の中の惨劇や、物と断片化された身体の奇妙な増殖として、《浴室》と《物
置小屋の出来事》の素描連作に集約した。この油彩作品においては、それを一点モニュメンタルなものとして描い
ている。上下左右の方向性を失ったタイル貼りの浴室の中に切断された身体が日常的な物とともに配置されるが、
それらは奇妙な空間感覚の中で、むしろ整然とバランス良く配置されていて不安定さの中で妙に静的な印象を与え
る。それらの顔の表情は空虚を見つめる無気味ささえ持っている。中央の妊婦だけが五体満足で、絵を見る私達を
見返している。計算された問いがここに仕掛けられている。「人間」とは何なのかと。
山口正城 《雷心》
山口正城は初めて聞く名前。本邦初公開の作品とのこと
8室純粋美術と宣伝美術 その2
あるものの要素や性質を抽出してそれに形を与える、いわゆる抽象化という過程が美術や
デザインには存在します。美術家やデザイナーは、表現における抽象度の度合いを巧みに操
ることで作品を介して鑑賞者とのコミュニケーションを図ります。例えば、宣伝ポスターで
は適度に抽象化された表現を用いた方が情報の伝達が早い場合があります。絵画や彫刻にお
いて、感覚的な「イメージ」を伝えるには、写実的な表現を避けた方がいい場合があります。
1950年代、60年代の抽象表現でよく用いられていたのは、おおらかな曲線のフォルムです。
有機的で、なんとなく生き物を思わせる形象はビオモルフィックといわれ、家具の造形におい
てもその影響が見られました。
菅井汲や小磯良平、北代省三が制作した絵画や彫刻作品と、彼らがデザインしたポスター
との比較もお楽しみください。小磯は新制作協会、北代は実験工房というグループに属してい
たので、その仲間の作品も一緒に展示しています。
難波田龍起 《 天体の運行》
難波田龍起は好きな作家の一人です。タイトルから惑星や、その軌道などが感じ取れますが
それより、淡い色合いや、古色を感じるかすれなどが醸し出す、全体のハーモニーが美しい。
北代省三 《ギーゼキング演奏会》
洒落たポスターですね。 昭和28年には、ピアノの巨匠などが来日してたんだ。
小磯良平 《オルレアン毛織》
一流の画家が描いたポスター、手作り感が半端ない。
小磯良平 《神戸博(1950)》
菅井汲 《びわ湖の旅》
菅井汲って、女性画家と勘違いしていました。 以下、ウィキから抜粋引用。
本名は貞三。大阪美術工芸学校に学んだ後(病気の為に中退)、1937年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就く。
中村貞以、吉原治良に師事。
1952年渡仏。日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムをたたえたものとして、パリの美術界で
高い評価を与えられた。
菅井は無類のスピード狂で、愛車のポルシェで高速走行している時に浮かぶビジョンが制作のモチーフになっているという。
1967年にはパリ郊外で交通事故を起こし、頸部骨折の重傷を負うが、一命はとりとめた。
菅井汲 《鬼》
9室石元泰博:落ち葉・ あき缶・雲・雪のあしあと
9室については、撮影しませんでした。 申し訳ありません、公式サイトからの概要のみとの紹介です。
石元泰博《落ち葉》1986-93年 ©高知県, 石元泰博フォトセンター
生誕100年を記念して、石元泰博が1980年代後半から90年代半ばにかけてとりくんだ、「うつろいゆくもの」
をめぐる四つのシリーズを特集します。
雨に打たれて朽ちていく路上の落ち葉をとらえた〈落ち葉〉に始まる四つのシリーズのうち、〈雲〉と〈雪の
あしあと〉が発表された個展のリーフレットには、『方丈記』の一節が引かれていました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久
しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、またかくのごとし」
一連の作品は、時の流れという主題をめぐるものであり、のちに他のいくつかのシリーズを加えて
『刻−moment』(2004年刊)という写真集にまとめられます。
アメリカ、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)に学んだ生粋のモダニスト
として知られた石元ですが、この一連の仕事を通じて見出したのは、螺旋形を描いて流れる日本的な時間感覚であ
り、また自らの中にも、そうした日本的な感性が強く息づいていることだったといいます。
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