三鷹市美術ギャリー8月30日(水)の2件目。
太宰治展示室は初めて見ました。
玄関前から見たところ。 右端の太宰治の写真が撮影禁止だったので、ネットから。
6畳,3畳、4畳半の室内で、6畳の間が撮影OKでした。
井伏鱒二の掛軸があります。
障子の奥が縁側で、当時は畑の風景が見えたとか。
ちょうど企画展示で
さよならだけが人生だーー太宰治、林芙美子へ、井伏鱒二の言葉
が開催されていました。 チラシ表。
チラシ裏
面白かったのは、林芙美子と太宰治が描いた絵。(撮影禁止だったので、ネットから)
林 芙美子の自画像です。 いいですね。
太宰の小説「ヴィヨンの妻」の装幀と扉絵も描いている。
林 芙美子 《自画像》 昭和7,8年頃 油彩カンヴァス 325×234 新宿歴史博物館
こちらは太宰の絵。 こちらもよかった。
太宰 治《水仙》昭和14、5年頃 油彩スケッチボード142×212 津島家寄託
この絵を、檀一雄が「小説太宰治」の装幀に使っていました。(展示はありません)
以上で展示の説明は終わりなのですが、この当時の文士の肖像を、酒田市の土門拳記念館
訪問時のブログに上げていました。
参考になればと、抜粋して載せてみました。
なお、次回は気になっていた、太宰治の心中事件を取り上げる予定です。
軽井沢そして東北,アート巡り #12 土門拳記念館「特別展 昭和の目撃者 林忠彦vs土門拳 ー林忠彦生誕100年ー」
太宰治の有名な写真、林が撮っていたんだ。 カメラは意識しているのでしょうが、自然な姿の太宰、楽しそうな声が
聞こえてきそうです。 キャプションのコメントが面白いので紹介。
”織田作之助を撮影していると、「俺も撮れよ」と酔っ払い客に頼まれて撮影した。それが、兵隊靴で椅子にあぐらをかく太宰治だった。
戦後の「デカダン」の雰囲気を捉えた、林の代表作。” (銀座5丁目のバー「ルパン」 昭和21年(1946))
その、織田作之助(左の写真)。 上の太宰の写真は、付録で、こちらがメインだった。 織田作之助は肺結核で、撮影後、間もなくして亡くなった。
右の檀一雄、林に”写真なんてどうでもいいじゃないの、それより、飲もう飲もう”と誘いすぐ、酒になったようだ。 いかにも無頼派作家らしい生活状況が
うかがえる写真。 私は、女優・檀ふみの父で、家庭を棄てて別の女性と同棲したことぐらいしか知らなかったが、調べてみると、太宰とも深い交友があった
のですね。 林忠彦もバーでの飲み仲間であり、打ち解けた雰囲気で撮影しています。
左の田中英光?恥ずかしながら初耳の作家です。 太宰治に師事、心酔していたようで、この写真も、田中から、太宰と同じよ
うにバーで撮影してほしいと頼まれて撮ったもの。 なんと、撮影後まもなく、太宰の墓前で自殺した!
右の坂口安吾の仕事部屋での写真も有名。 で、坂口安吾を調べていると、彼の書いた「安吾巷談 麻薬・自殺・宗教」の中で
自身が覚せい剤ヒロポン(当時は合法だった)や、催眠剤中毒を何度も経験していて、孤独感から自殺を考えたこともあったよ
うだ。その中で、田中英光にもふれ、とんでもない大酒飲みで、同様に催眠剤中毒になっていると書かれている。 催眠剤は
眠るためではなく、早く酔うためだった。 田中の写真を見ると、一見、好青年が楽しそうに軽く飲んでいるように見えるが
実生活は女性とのトラブルもあり、苦悩のさなかだったのだろう。
林芙美子
有名な作家ですが、やはり、私は作品を読んだことがなく、「放浪記」などの自伝的小説で流行作家になった・・・というイメージだけでした。
左の土門の作品 東京・下落合 昭和24年 キャプションに”林芙美子の印象を土門は「その目は詩人そのものだった。あどけなく、寛容な光をたたえていた」”
といっていますが、この肖像写真からは、私は逆にふてぶてしさを感じます。
右の林忠彦の作品 東京・新宿 昭和26年頃 キャプション ”「書斎での林さんこそ、作家の厳しさを表現できる」と思い、日暮れまで待ち、室内光と
外光のバランスがとれる瞬間に撮影。「この書斎に通してもらうまでに10年近くもかかりました」” うーん、苦労の甲斐があって、いい写真です。
井伏鱒二、共に書斎での写真。 右の土門作品は昭和26年の撮影、左の林作品は昭和43年の撮影。
井伏作品の「山椒魚」は、教科書?で読んでその情景が浮かんだ記憶がある。
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