沖縄戦のことを「じっちゃんの去年の日記」が以下のように書いています。私は「沖縄県民かく戦えり、格段のご高配を云々」の麗句に惑わされていましたが、どうぞお読みください。そして、イラク、アフガンの着弾地にいる民のことをイメージしてみたいです。
6月23日。沖縄では「慰霊の日」を迎えます。
なぜ6月23日が「慰霊の日」に決められたのでしょうか。
「沖縄戦が終わった日?」
いいえ、そうではありません。沖縄戦が終わったのは8月15日より後の9月7日です。日米両軍の司令官が調印を行った「沖縄戦降伏調印日」が戦争の公式な終結となっています。
「日本軍による組織的な戦闘が終結したとされる日」でしょうか。
これも事実ではありません。米軍が攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日です。
では、いったい何の日だったのか。
日本軍の最高責任者である沖縄守備軍司令官・牛島満中将(のち大将に昇進)が自殺した日です。
沖縄戦の悲劇は6月23日を堺に分けて考えることができます。吉永小百合さんが21日に宜野湾市で沖縄戦を題材にした戦争童話集を朗読しましたが、記者会見で「沖縄戦は本当は命が助かる人もいたが、自決しないといけない状況に追い込まれた人もいる」と語りました。では、なぜ命が助かる人が犠牲になったのでしょうか。
6月23日当時、日本軍はほぼ壊滅状態にありましたが、まだ武器を所持した兵は存在していました。その後も戦闘は長いあいだ続きました。たしかに日本軍による組織的な戦闘は縮小こそしましたが、戦争は継続しました。
問題は武器を持たない民間人、とくに沖縄の人びとです。
もしも、最高責任者の牛島司令官が、自らの責任で米軍に「降伏」して「戦闘の終結を命令」していたならば「その後」の沖縄の悲劇は避けられたかも知れません。しかし、この牛島司令官には民の命を救うという気持ちは微塵もなかったのです。闘うための武器もなく、米軍に降伏して「生きる」ことを拒むよう強要され、多くの生命が6月23日以後も奪われ続けたのでした。戦闘を行えない民間人に対しても米軍の組織的な攻撃が終結せず、また集団自決という名の虐殺、沖縄の人びとに対する「スパイ」を名目とした虐殺が続きました。
なぜ敗北が明らかになった後で、恐ろしいまでの悲劇がやまなかったかの秘密こそが「慰霊の日」の6月23日にあります。
牛島司令官は「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令を発し6月23日午前4時30分、摩文仁の軍司令部壕において、辞世の歌を詠じつつ「日本古武士の礼法に則って」切腹して果てたのでした。
牛島司令官の訣別の辞。
「……最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。」
辞世の歌。
「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん」
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ 」。
6月23日。沖縄県は条例でその日を「慰霊の日」と定め、公休日としています。この日は「命」を尊ぶ平和の日ではなく、玉砕命令が出され降伏が禁じられた「命」を否定された日です。兵はもちろん武器もない民にも白旗を掲げて生きのびることが禁じられた日です。そして沖縄戦の最高責任者が自らの死でそれを示したのでした。
ですから、実際にはいわば「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日になっています。それが6月23日です。悲しく哀れな一日です。
6月23日。沖縄では「慰霊の日」を迎えます。
なぜ6月23日が「慰霊の日」に決められたのでしょうか。
「沖縄戦が終わった日?」
いいえ、そうではありません。沖縄戦が終わったのは8月15日より後の9月7日です。日米両軍の司令官が調印を行った「沖縄戦降伏調印日」が戦争の公式な終結となっています。
「日本軍による組織的な戦闘が終結したとされる日」でしょうか。
これも事実ではありません。米軍が攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日です。
では、いったい何の日だったのか。
日本軍の最高責任者である沖縄守備軍司令官・牛島満中将(のち大将に昇進)が自殺した日です。
沖縄戦の悲劇は6月23日を堺に分けて考えることができます。吉永小百合さんが21日に宜野湾市で沖縄戦を題材にした戦争童話集を朗読しましたが、記者会見で「沖縄戦は本当は命が助かる人もいたが、自決しないといけない状況に追い込まれた人もいる」と語りました。では、なぜ命が助かる人が犠牲になったのでしょうか。
6月23日当時、日本軍はほぼ壊滅状態にありましたが、まだ武器を所持した兵は存在していました。その後も戦闘は長いあいだ続きました。たしかに日本軍による組織的な戦闘は縮小こそしましたが、戦争は継続しました。
問題は武器を持たない民間人、とくに沖縄の人びとです。
もしも、最高責任者の牛島司令官が、自らの責任で米軍に「降伏」して「戦闘の終結を命令」していたならば「その後」の沖縄の悲劇は避けられたかも知れません。しかし、この牛島司令官には民の命を救うという気持ちは微塵もなかったのです。闘うための武器もなく、米軍に降伏して「生きる」ことを拒むよう強要され、多くの生命が6月23日以後も奪われ続けたのでした。戦闘を行えない民間人に対しても米軍の組織的な攻撃が終結せず、また集団自決という名の虐殺、沖縄の人びとに対する「スパイ」を名目とした虐殺が続きました。
なぜ敗北が明らかになった後で、恐ろしいまでの悲劇がやまなかったかの秘密こそが「慰霊の日」の6月23日にあります。
牛島司令官は「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令を発し6月23日午前4時30分、摩文仁の軍司令部壕において、辞世の歌を詠じつつ「日本古武士の礼法に則って」切腹して果てたのでした。
牛島司令官の訣別の辞。
「……最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。」
辞世の歌。
「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん」
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ 」。
6月23日。沖縄県は条例でその日を「慰霊の日」と定め、公休日としています。この日は「命」を尊ぶ平和の日ではなく、玉砕命令が出され降伏が禁じられた「命」を否定された日です。兵はもちろん武器もない民にも白旗を掲げて生きのびることが禁じられた日です。そして沖縄戦の最高責任者が自らの死でそれを示したのでした。
ですから、実際にはいわば「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日になっています。それが6月23日です。悲しく哀れな一日です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます