モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その74:江戸を歩く ② 江戸の庭園、六義園(りくぎえん)

2009-03-13 08:43:27 | ときめきの植物雑学ノート
平和になった江戸時代に名園が二つ同じ頃に誕生した。
水戸藩江戸上屋敷に黄門様によって完成された『小石川後楽園』 、柳沢吉保が作った『六義園(りくぎえん)』である。そしてこの中間のところに幕府の『小石川御薬園(現在の小石川植物園)』がある。

庭園としてどちらからスタートするか多少迷ったが、『六義園』から始めることにした。
何故? 素晴らしいの一言に尽きる。
『小石川後楽園』はちょっと気に入らないところがあったが、この『六義園』は素晴らしい。

世に評判が悪い柳沢吉保だが・・・
1680年に第五代将軍徳川綱吉が登場した。後に御側用人として権勢を握った柳沢吉保(1658‐1714)22歳の時だった。
綱吉は1709年に亡くなるまで29年間柳沢吉保を使い親政を行い、年率3%程度の安定した成長を続け元禄の文化が花開いた。この頃には既に幕府体制の経済的な破綻が出つつあり、綱吉およびご母堂桂昌院の浪費が江戸の経済を支えた一面もあるという。

ただ、徳川綱吉・柳沢吉保にとって不幸だったのは、彼らの時代に今でも人気がある赤穂浪士の忠臣蔵がおき、政治のカウンターとして水戸光圀がいたことであり、綱吉亡き後には新井白石が登場したことでもある。

忠臣蔵では悪の権化として描かれる柳沢吉保だが、『六義園』を見る限りインテリジェンスの高さ、センスのよさを感じた。
そして、徳川綱吉死去3ヵ月後にはお役ごめんを申し出て隠居し『六義園』造営に徹したという。権力を離さないようにしがみつかなかった身の処し方に人生を見切る先達としての確かさを感じ俄然興味が湧いてきた。
権力にしがみついたものたちは、新井白石に粛清されたというから素晴らしい見切りだった。

柳沢吉保は、「小石川後楽園」が作られた時期に、どうして『六義園』を作ったのだろう。綱吉を招くための水戸藩上屋敷を超える社交場が欲しかったのだろうか? 巨額の造園費用はどこから捻出したのだろう? こんな疑問が湧く。

『六義園』の場所は、1695年に綱吉からもらい、1702年には庭園と下屋敷が完成した。完成するまでは設計図を見て注文はつけていたようだが、現場に足を運ぶ余裕も時間もなかったようだ。1709年7月には隠居しているので、彼が亡くなるまでの5年間は存分に庭いじりが楽しめたのだろう。

『六義園』のいま
日本庭園は難しく見ないことにしている。
自然、宇宙を縮尺して取り込み配置し、四季折々に見る角度によって様々な風景が生まれるようだが、美しい風景をつくれることができたか、それを美しいと感じれるかだけで見ることにしている。

(写真)園内地図








池を中心につくり、この周りを回遊できる庭だが、明るく軽やかで突き抜けた考えが感じられるいい庭だと思う。 柳沢吉保の思考の透し図が垣間見れた感じがし、尊敬に値する思考の持ち主だったのかもしれない。

えてして樹木と岩などがが、重く暗い印象となるところが多いがここは日本庭園の西海岸という明るさがある。マツなど暗さを演出する素材として申し分ないが、ここの庭のマツは明るくて新しい感じがある。思わず写真をたくさん撮ってしまった。

大きな庭園の物足りなさは、池、築山、滝、小川、巨石、巨岩、高木などを配置するので、草花一輪がないがしろにされている。多くの種類の一輪の草花が見たいのにない。これが面白くない。
雑草のない庭園は自然ではないので、自然をまねするところで間違ってしまったのだろう。或いは自然を縮尺したさいに消えてしまうほど小さい存在だったのだろうか?

ちょっと“庭・園”を考えてみると
公園はみんなのものでありみんなが楽しめることを出発としてつくられている。
『公』という考えが取り入れられるようになってからつくられるようになり、だからなのか、ゆえになのか、全体的に“狭い”“何もない”“考えられていない”がはっきりと出ている。
もちろん例外もあるが、これらの多くは由緒ある庭園が篤志家の寄贈などにより公共財になったものが多い。例外の一つに『野田清水公園』がある。ここはキッコーマンの持ち株会社的存在である「千秋社」が管理している公園であり私有地を無料で市民に開放している。その基本的な考え方には、緑と水資源を守るという考えがありキッコーマンの組織哲学の実践でもあるようだ。
ここは、週一の散歩コースだが、公園としては最高の部類にある素晴らしいところだと思うし、1時間も居れない「小石川後楽園」よりも気に入っている。

公園にしても庭園にしても植物園にしても、これらを維持することは大変だ。公共財として税金で維持するか、ドネーションで維持するか、観光資源として収入を得るかなど悩みは尽きないと思う。

この『六義園』は、三菱の岩崎弥太郎が1888年に購入し、東京市に1938年に寄贈したという。岩崎弥太郎は政商と揶揄されるが、重要な文化財、家屋、庭などを結果として保護してくれたいまから見るとありがたい人でもあった。

ということは、『庭園』はこれからなかなか作られないし、今存在しているものも消えて行く運命にあるとしか思えない。
絵画と同じ芸術作品でもあると思うが、生き物であり維持管理が大変で、100億もする小さな絵などと比べるとスペースあたりの金額が安い非効率的な代物でもある。


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その73:江戸を歩く ①小石川御薬園跡地、小石川植物園

2009-03-09 08:09:09 | ときめきの植物雑学ノート
日本のボタニカルなシンボルは?
日本の植物大好き人間、或いは植物学を目指す人のシンボルになるものといえばなんだろう? 英国ならばキュー植物園といえそうだが思い浮かばない。

これを農業、緑資源の保全・活用、グリーンエコ・エコノミーまで広げた場合、これらの知識・技術・人材育成などを推進するコアセンターがあるのだろうか?
花博の大阪万博、環境博としての名古屋万博などのイベントがあったが、これはこれで重要だが一過性のものであり継続的ではない。

大学の講座、植物園、茨城県の筑波などにある公的な研究所、農業試験所、民間企業の研究所などなどがあるがどうもピンとこない。
役に立てようとしていないから埋没しているのだろうか? 
自分の研究領域に没頭していて蛸壺に入りっぱなしなのだろうか? 
政府或いは政党に新しい方針を立案する能力がないのだろうか?
実は日本にはキュー植物園のような世界に誇れるモノが何もないのでは?
こんな素朴な疑問がある。

もし、日本にキュー植物園のようなシンボルとなりえる機能があるとすると、『小石川植物園』がその役割を担えるのではないかという期待がある。 ただ勘違いされてはいけないので初めに明確にしておくと、キュー植物園を私が評価するのは、植物園としての機能だけでなく、世界の植物の“種”の情報を集めて公開しているところにある。

そこで前から気になっていた『小石川植物園』に行ってみた。
後楽園球場近くにある『小石川庭園』がそうかなと思って入ってみたが、ここは水戸藩二代目藩主の黄門様が完成させた『小石川後楽園』という庭園跡で、植物園は白山下というもっと交通不便な違った場所にあった。
この界隈には五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた御用人柳沢吉保の庭園跡『六義園(りくぎえん)』もあり、江戸の二つの名庭園と植物園が散歩が出来る範囲内にある。

小石川植物園の由来
小石川植物園は、明治(1877年)になってから東京大学理学部の付属植物園となり今日に至っているが、その前は徳川幕府の薬園だった。
その薬園の前はといえば、徳川五代将軍綱吉が将軍就任前の頃に住んでいたところで、その頃は白山御殿と呼ばれていた。綱吉が将軍になった後の1684年に幕府の薬園となり「小石川御薬園」と呼ばれた。1722年(享保七年)には黒澤映画の『赤ヒゲ診療所』で知られている小石川養生所が設けられた。また、青木昆陽が1735年(享保20年)に甘藷(サツマイモ)の試作をしたのもこの薬園だった。

世界の歴史で比較すると、イタリアのパドヴァ大学に世界最古の大学付属植物園が作られたのが1545年であり、イタリア諸都市、ヨーロッパ各国へと伝播していく。
小石川植物園は、御薬園から325年の歴史があるが付属植物園としての歴史は新しい。また、日本最初の薬園は、593年に聖徳太子が大阪四天王寺内に作った施薬院といわれており、薬草、薬学、植物学への組織立った興味関心は相当遅れてスタートしている。
中国からの輸入がなかったらもっと眠っていたのではないだろうかと思えてしかたない。

(写真) 小石川植物園内の地図


小石川植物園のいま
小石川植物園は、入る前にまず驚き入ったあとでさらに驚くところとなっている。
最初の驚きは民営化だった。入園料が一般330円と安いが入場券は正門斜め前のタバコ屋さんが代行して販売している。洗練されてはいないがこんな民営化もありそうだ。

園内は、敷地面積161,588m2(48,880坪)で細長く奥に長い。ツツジ、ツバキ、サクラなどかなり種類がありそうだ。またかなりの樹木がある。
私の趣味とはまったくバッティングしていなかったので、植物探索・発見の楽しみが出来た。

しかし、一般公開はしているが大学の付属植物園だけあり垢抜けないところがある。うなぎの寝床のような細長く延々と歩く広いスペースに雑然と樹木が植えられている感があり、本当に植物に興味がないとつまらないところかもわからない。

園内に日本庭園があり梅林、菖蒲などがあったが、どうも日本庭園そのものに感動しない。ここだけがつくりこまれた不自然さが際立っていて浮いていたが、そう感じるのは数少ないかもわからない。
この日本庭園があったから、垢抜けない植物園全体の魅力が見えてきた。垢抜けないからいいのだが、それにしても手が入っていない或いは人知が生かされていない垢抜けなさとでも酷評したい。

(写真)小石川植物園内




これが小石川植物園の歴史といまだが、歴史とか由緒だけでは持たない。
以前も書いたが、植物園は、学術研究を目的に、植物を集め・栽培し・標本を作り・種を取り再現させるなどの調査研究機能を持った場をいい、1500年中頃のイタリアで興った発明ともいえる。キュー植物園はさらに世界の植物の種情報を集め集積するセンターとなる機能を付加し実践した。

都市の景観・憩いの場としての公開は、植物園から派生した機能で主機能ではないとはいえ、集めている植物群に目的性なり意味を見出せないほど過去になっていたようだ。
重要なバックヤードの機能はよくわからなかったが、東京大学付属植物園という現在のポジションでは出来ることが限られるような気がするし、普通の日本人にこれまで何をやってきたかが説明できずにここに至った感がある。

そういった意味では、もったいないスペースのように思うし、新しいことをしたくない、働きたくない公務員の格好の憩いの職場となっていて、東大に任せていてはダメなのではないかと思った。国の貴重な資産を生かせないで死産にしていることだけはたった一回の探索で伺うことが出来た。
行く前は、会員になろうと思っていたが、100年一日のような運営のようでありこれはダメだ。

この広いスペースを私ならどう使うかというシュミレーションが出来ることと、植物のバッティングがないのでたまに覗いてみようとは思った。

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その72:狩猟採取民のバンドから学ぶ ② 狩猟採取から離れていく生活

2008-11-19 09:07:46 | ときめきの植物雑学ノート
「持つことによって増えた“欠乏感”と“貧困”」

南アフリカに棲む狩猟採取民は、いま必要とするもの以上を採取しないことがバンドの生存ルールであることを承知し実践し、これにより豊かな生活を享受できた。
確かにそうかなと思うところがある。
誰かが独り占めをしようとすると争いとなり豊かさどころか生命すら危なくなるだろうから、必要以上に採取しないということは賢明な策だと思う。

(写真)ほっこりサフェリー

出典:Kapstadt org

牧畜生活で獲得したもの
ヨーロッパ人が入る頃には牧畜生活が始まっていたようだが、牧畜生活を始めることにより、家畜を所有する、もっと所有したいという欲求が芽生え“利欲”という新しい欲求を獲得したようだ。
もっと所有したいという欲求は、欠乏感をうみだし精神的な“貧困”が発生したという。

しかも牧畜生活は、狩猟採取生活よりも労働時間が長く、時間が失われ芸術的な能力を欠落させて行くことに気づくがもう後戻りは出来ない。
食糧が安定化するという牧畜生活のメリットを捨てることができなくなり、もっと~もっと~という欠乏感の方が強まっているからだろう。

ヨーロッパ人が階級化による貧困を持ち込んだ
あえて書くまでもないが、オランダ人をはじめとしたヨーロッパ人の進出は、
労働力としての移民、奴隷の導入により一等市民、奴隷、そしてあいまいな原住民という階層的な身分社会となり、精神的だけでない決定的な“貧困”と“貧困階層”が成立した。

狩猟採取民族には、今日採ってきた食糧を、バンド仲間に分け合う贈 与という風習・仕組みがあり、誰かが自分だけストックしない限り、分け合った結果は、個々人の能力で今日採ってきた食糧の総量に等しくなるそうだ。
みんなに食糧を分け合うということにより、必要以上を採って来なかったというバンドのルールの維持と、これによる豊かな時間が享受されていた

必要以上のものが保存・蓄積されると財産となるが、モノだけを追い求めると精神的な貧困に陥るというのは理解できる。

利用されないモノ・財はいずれゴ ミとなる運命にある。ならば、ゴミからさかのぼって豊かさを考える必要がありそうだ。

蛇 足
狩猟採取民の生活と自分及び家族の生活を対比すると、消費だけの豊かさを享受しすぎており、平和で地球の資源が無尽蔵でなければ継続しにくいと思うに至る。
しかし、歴史をかけて構築された今日の社会システムを、狩猟採取民族のシステムに戻すことは不可能だ。だが、ここからできることを学ぶとすると

1.ゴミを出さない
2.ゴミをつくらない
3.必要以外なものを所有しない。取得しない。取得する時はいいものにする。
4.長く使う。修理する。
5.趣味から“つくる”領域のスキルを磨き消費から離れてみる行動計画を持つ。

といった消費のエコロジー発想になる。

こんなことやられたら困る。これで景気の浮揚は出来るのかという指摘が必ずあるが、これまでの延長線上に景気回復するほどのタネはなさそうだ。
世界的な構造調整期が5~10年続くと見た場合、明治の変革(農村人口を工場に移動)
昭和の変革(ドメスティック対応からグローバル対応を強化)に続く産業構造の変革で就業構造をかえる産業の育成が必要になると見る。これまでの産業には就業者を拡大する余地はあまりなさそうだ。

その先導役は国内総生産の6割を占める消費の構造をかえることにあり、
「必要なものを最小限買い、長く使えるいいもの」が基本で、モノの消費を減らすことによりこれまでより余剰が出た家計費を、時間と豊かさをつくるためのサービスに使えるように関連産業を充実する必要がありそうだ。

いままでの政府(自民党・公明党、官僚)は、福祉・医療・介護・教育を削り、家計に押し付けてしまったので、充実させなければならない産業が枯れ、家計も枯れ、消費も低迷する大罪を犯してしまった。

省エネ技術、ロボット技術、IT技術に伝統工芸とエンターテイメント業界の美的なスキルなどリソースはあるのでゼロからの出発ではない。

ゴミを出さない、必要なものしか買わない、たんす預金を増やす。
これがこの数年のトレンドだと思うが、これを前提としたこの先の日本・世界を描いて欲しい。
そうすると、2兆円のバラマキという政策は出来ないはずだがいかがだろうか?
考えていないから出来た愚策としか思えない。
リーダーが考えなくなったらリーダーではいられない。バンド全員の死を招くからだ。

多くのモノに囲まれていると一時は充実する。しかし、その上があることを知ると不満・不足・欠乏感そして不幸を感じてしまう。この精神的な不安定感は歯止めがない。
ここから脱するには、いずれゴミとなるものに囲まれた生活をしていると思うことからはじまる。本当に必要なものは意外と少ないはずだ。

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その71:狩猟採取民のバンドから学ぶ ①ヨーロッパ人が来る前の南アフリカ

2008-11-18 08:55:50 | ときめきの植物雑学ノート
「持たないことによって得る“豊かさ”」

今から20数年ほど前(100万円台のパソコンが出始めの頃)でエレクトロニクスが発展し半導体は産業のコメといわれ始めるころだったが、マレーシアに産業視察で行った。
今でも覚えているその時の驚きは、スリ・置き引きが結構多く、近代化による工場進出に遠因があるとのことだった。
工場が進出する前は、裏庭或いは裏山にはバナナをはじめ食べるモノが結構あり貨幣が必要でなく自給自足生活が出来たという。
所有権があいまいな入会的な山林が開墾され、工場が進出し、工場に勤め、給与をもらい、SONYのラジカセ、ホンダのオートバイを手に入れるのが夢で、マクドナルドでハンバーガーを食べるとリッチな食事だったようだ。
一方で、勤めも、バナナも手に入れられなくなった人間は、都市に出て生きるための生業としてスリで生活するなど、どの国でもあった発展のひずみがあった。

私が行ったほんの数年前まで自給自足生活が成立していたということが驚きであり、近代化によって自給自足生活が崩壊され、スリを多くしてしまったことをもったいないことをした。 と思った記憶が鮮明にある。

他愛ない前置きだが、どうも、人間の歴史のスパイラル的な発展に関係しているようで、生きるために必要なものと、生きるために必要ではないが所有し蓄積していたいものが分離し、所有と蓄積という新たな欲望が形成され、貝殻、貴石、貴金属、香辛料、貨幣などと変遷するが、それによって測る価値尺度が異なっていったようだ。
貝殻・貴石のころは、男性の化粧を含め異性を官能させる美が価値尺度であったようだが、貨幣は貧富を明確に測れるところとなった。

南アフリカに貧富を輸出したのはオランダ人をはじめとしたヨーロッパ人だが、貧富のない時間をちょっと覗いてみると今とは違うことが見えてくる。

人類の祖ホモ・サピエンス誕生の地、南アフリカ
人類誕生の歴史にはまると抜けるのが大変なのでサラリといくことにするが、
人類の祖先ホモ・サピエンス(Homo sapiens)は10万年前にアフリカで誕生したという。日本人の祖先は彼らの直系として4~3万年前に長い旅をしてやってきたようだ。

世界で最も古い人類の化石は、南アフリカにあるボーダー洞窟、ケープ州東部にあるクラシーズ河口洞窟などで発見され、10万年を超える可能性すらあるという。

何故南アフリカに誕生したホモ・サピエンスのみが人類の祖先となり世界各地に拡散して行ったのだろうか?
この疑問は誰しもが抱く疑問だが、正解はわからない。
しかし、次のようなことはいえるようだ。

(写真)南アフリカの気候

(出典) ZenTech.

南アフリカはケープ地方が地中海性気候、インド洋側が海洋性気候、温暖な雨が多い気候、内陸部がサバンナ、ステップ、冬に少し雨がある気候、そして砂漠とあらゆる気候条件がそろっており、多様な生活環境がここにはあった。

狩猟採取の生活は、環境により動植物の採取・狩猟の種類が異なるため、採取方法、道具などがそれぞれに発展し、地域ごとに『多様性』が生じていったといわれている。
この『多様性』が、強い種・DNAを創り、そして長い旅に耐えられるスキルを獲得したのだろう。

南アフリカの狩猟採取民族の生活
ハーバード大学学術調査隊がナミビア北西部とボツワナの国境近くに住むクン族の生活を調べたものによると

彼らは、23~40人の集団を形成し(これを“バンド”といっている)、食糧を求めて移動する生活を行っている。
主食は、栄養価にとんだ多年生植物のモンゴンゴの実(堅果で脂肪・でんぷん・たんぱく質に富む)が常食で食料の三分の一をしめ、別の植物が三分の一、残りの三分の一は狩猟でまかなう。
モンゴンゴは素晴らしい木で、実はかなりの栄養素が入っており、長期保存に耐えられ、木は硬くヤリなどの道具として使えるという。
水と食用植物があるところで一定期間居住しここをキャンプ地といっているが、ここでは、労働の分業がされ、女はキャンプ地近くでの食用植物の採取と子供の世話、男は狩猟に専念し道具類は木・石・骨などからつくっている。

労働時間を調べると1週当たり15時間の狩猟と採取に費やすだけで、一人当たりの一日の自給量は2140カロリーもあり、一日あたりのカロリー必要量を上回っているという。
狩猟採取民族は、物質的に恵まれない厳しい生活をしていると思われがちだが、少ない労働時間で、十分なカロリー摂取がされ、ある種の物質的な豊かさを享受していることがわかった。

また、彼らは、音楽・アートなどの美的表現を生み出すことに時間とエネルギーをかけており、岩・洞窟などに残された絵画芸術は生き生きしたモノがある。

狩猟採取民族の哲学
キャンプ地周辺の植物・動物を採り尽くしてしまうとそこを去らなければならなくなる。そこで彼らのルールは、 「自分で運びきれないほどの財産を求めない」ということになる。
必要最小限しか求めない。蓄積する財産を持たなかった見返りは生活の豊かさを感じる時間でありこの時間消費でもある
これが原始の豊かさ、今風に言えば必要最小限のモノと心の豊かさを実現した。となるのだろう。

原始の豊かさの暗い面もある。
食糧を求め移動しなければならないときに移動できないということは致命的であり死を意味する。
移動できない病人・老人は捨てていかれたようだ。
これを残酷というのだろうか。そうではないと思う。
生あるものの間違いないゴールは死であり、死のデザインがその集団・社会の最大の課題と思う。
移動を前提としたバンドの人数は、経験的なところからきた人数のようで、意志が浸透できない集団では生き残れない集団となるのだろう。
(明日に続く)

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その60: 2008年の『 チェリーセージ 』考 No2

2008-10-11 12:55:31 | ときめきの植物雑学ノート

(引き続き)

===== 3.サルビア・ヤメンシス =====
(写真5) ヤメンシス・サーモンの花


ヤメンシスは花色が豊富だ。イエロー、オレンジ、パープル、赤紫、ピンク,サーモン、イエローサーモンなど7種を栽培しているが、30色以上ありそうで24色が基本のクレヨンなどの色彩よりも豊富でなおかつもっと花色が出現しそうだ。
園芸店では、チェリーセージという名前で販売しているが、葉を見るとサルビア・グレッギーと異なることに気づく。ヤメンシスの葉は、小さくて緑色の光沢がある卵形の葉であり、シワシワがあるグレッギー及びミクロフィラの葉とは異なる。

サルビア・ヤメンシスの発見は
ジェームス・コンプトン(James Compton)、マーティン・リック (Martyn Rix)、 ジョン・ダルシー(John dArcy)によって、メキシコのヤメ(jame)の町の近くで1991年に発見された。彼らは、形が異なる30種を収集し、耐寒性が優れた7種の栽培品種を発表した。

ヤメンシス(Salvia x jamensis)の名前は、発見した場所のヤメ(jame)にちなんでいるが、発見者ジェームス(James)をも踏まえて名付けている。
親であるサルビア・グレッギーが、アメリカの歴史学者グレッグによって発見されたのが1848年だから、約150年近くも遅れて発見されたことになる。

ジェームス・コンプトン(James Compton)は、英国の植物学者で、Chelsea Physic Garden,の最高の庭園管理者だったが、彼は、同じ1991年に真っ赤な花を咲かせるサルビア・ダルシー(Salvia darcyi)をも再発見し、英国の植物学者ウイリアム・ダルシーにちなんで名前をつけた。

本来的には、Yucca Do Nurseryの採取者が先に発見していたが、キュー王立植物園に信用がなかったので、コンプトン発見となったようだ。

身内でないものが信用を獲得することはいかに大変なことかがこのケースでわかる。信用という概念自体排他的であり、この獲得コストは尋常ではないが、獲得に当たってのプロセスはグローバル性がありコモンセンスとして共有化できそうだ。

(写真6)ヤメンシス・サーモンイエローの花


===== 4.チェリーセージの区別整理と栽培メモ =====
チェリーセージといわれる3種の区別は、次のように整理できる。

・グレッギー(Salvia greggii)標高1500~2800m。1848年 グレッグが発見

・ミクロフィラ(Salvia microphylla)標高2400m~。1885年 プリングルが発見

・ヤメンシス(Salvia xjamensis)両者の交配種、種類多い。1991年 コンプトンなどが発見

ヤメの峡谷では、谷底から頂上に向かって同じようなチェリーセージが咲いていたが、頂上に向かうにつれて花の色彩が豊富であり、この点に疑問を持ったのがコンプトンたちだった。

(写真7)ヤメンシス・イエローの花


チェリーセージ(Cherry Sage)、(サルビア・グレッギー、ミクロフィラ、ヤメンシス)
・シソ科 アキギリ属(サルビア属)の耐寒性がある宿根草。霜を避ければ外で越冬する。
・学名は、Salvia greggii(S.グレッギー)、Salvia microphylla(S.ミクロフィラ)Salvia xjamensis(S.ヤメンシス)。
・英名がAutumn sage(オータムセージ)、和名はアキノベニバナサルビア。
・原産地は、アメリカ・テキサスからメキシコ 。
・庭植え、鉢植えで育てる。
・草丈は、60~80㎝で茎は木質化する。
・花の時期は、4~11月。
・咲き終わった花穂は切り戻すようにする。また、草姿が乱れたら適宜切り戻す

メキシコには、まだまだ未発見のセージ(サルビア)がありそうだ。

蛇足だが、サルビアは学名、セージは英名で同じことを言っている。シソ科アキギリ属の植物を呼ぶが、日本での使い分けは、一般的にサルビアを一年草、セージを多年草と区分けしたりする。また、薬草として使われていた薬効があるものをセージと限定する場合もある。
私の場合は、セージを使うようにしている。セージには“賢人”という意味合いがありこれにあやかりたい愚人のためでもある。

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その59: 2008年の『 チェリーセージ 』考 No1

2008-10-10 12:58:56 | ときめきの植物雑学ノート
===== コンテンツ(もくじ) =====
序 チェリーセージ全般について
1、サルビア・グレッギー
2.サルビア・ミクロフィラ
→ その59
3.サルビア・ヤメンシス
4.チェリーセージの区別整理と栽培メモ
→ その60

===== 序: チェリーセージ全般について =====
チェリーセージに関しては、バラバラに書いてきたのでまとめることにした。
チェリーセージと一般的には呼ばれているが、ここには三種類があり、葉と色とでおおよそが区別できる。
基本は2種で、『サルビア・グレッギー(Salvia greggii)』と『サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)』。そして、この2種が自然の中で交配して出来たのが『サルビア・ヤメンシス(Salvia x jamensis)』という。

'''区別の仕方は'''
葉の場合、細長くシワシワがあるのがグレッギーで、小さい卵形のツルッとした光沢のある葉をしているのがヤメンシス。ミクロフィラはグレッギーに近い葉。
ヤメンシスは、そもそもの由来がグレッギーとミクロフィラの交配なので花の色が豊富で、園芸店でツルッとした葉とカラフルな花は大部分がヤメンシスといっても良い。

いづれも、メキシコ原産で、1500~3000mの高山に自生している。そしてここからが面白いのだが、この3種は高度で生育が分かれており、低いところにはグレッギーが、その上にはミクロフィラが咲いている。そして山を登るにつれカラフルな花が咲いていて、別種とは気づかなかったようだ。これが両種が自然に交配したヤメンシスだった。メキシコはセージの宝庫だからワクワクする。

それぞれの概略は次のとおり。
● グレッギー (Salvia greggii)
一般的にチェリーセージといわれており、ピンクがかった赤い花を次々と咲かせる。寒さにも強いので、霜に当てなければ、一年中咲く。茎は木質化し、太くなっていく。3年目くらいでもろくなるので、挿し木などで増やしていく。
● ミクロフィラ(Salvia microphylla)
グレッギー同様にメキシコ原産地だが両者のちがいがよくわかりにくい。ミクロフィラ・ホットリップスが有名で、気温によって花の色が変化する。暖かい時は赤一色に、寒い時は白一色になる。気温がはざかいの時(夏から秋とか)は三色がいっぺんに出ることがある。
● ヤメンシス(Salvia x jamensis)
グレッギーとミクロフィラの自然交配種がヤメンシス。
1991年に英国の植物学者ジェームス・コンプトンによってメキシコの山岳地帯jameの村付近で発見した。比較的最近発見された種でもある。Jameの渓谷には、グレッギーの真っ赤な花が咲き乱れていましたが、高度が高くなるにしたがって花の色が変化していくことに気づき発見したそうだ。

これら3種をチェリーセージと総称しているが、現在は3種とも結構な園芸品種が出回っており、区別が難しくなってきている。

'''真っ赤なチェリーセージとの出会い'''
セージにはまるきっかけがこのチェリーセージ(グレッギー)だった。
ヨードチンキ臭い葉の香り、この香りが気に入ってしまった。そのせいなのか、良く飲むアイラ島のシングルモルトウィスキーの香りが気にならなくなり心地よくなった。今では、チェリーセージ系9種類に増えてきた。花色は、赤、赤と白ミックス、イエロー、赤紫、オレンジ、ピンク、パープル、サーモン、サーモンイエローと花の色数を増やしている。

===== 1.サルビア・グレッギー =====
(写真1)チェリーセージ、S.グレッギー


園芸店でチェリーセージとして売られているが、この中は3種に分けられる。基本系は、学名ではサルビア・グレッギー、英名ではオータム・セージと呼ばれる。真っ赤な色のセージがこれにあたり、通常この種をチェリーセージといっている。四季咲きで、霜に当てなければ2月頃まで咲いている。

このチェリーセージ=サルビア・グレッギーは、メキシコ・Saltilloで植物採集を行っていたアメリカの歴史学者で貿易商のグレッグ(Josiah.Gregg 1806-1850 )によって1848年に発見・採取された。学名は、発見者にちなんでグレッギーと名付けられた。英名では、オータムセージ(Autumn sage)と呼ばれ、森の賢人という意味を持つ。森の入り口辺りのブッシュに生え、何となく賢くたたずんでいるのだろう。オランウータンも森の賢人と呼ばれているが、考え深げなところが似ているのだろうか?

===== 2.サルビア・ミクロフィラ =====
(写真2)S.ミクロフィラ、ホットリップス


'''ミクロフィラの歴史'''
真っ赤なチェリーセージサルビア・グレッギーは、1848年にグレッグによって発見されたが、サルビア・ミクロフィラは、1885年にアメリカのナチュラリスト、プリングル(Cyrus Guernsey Pringle 1838-1911)によってメキシコで発見された。彼は、35年にわたりメキシコを中心とした北アメリカの植物調査を行い、おおよそ1200の新種を発見したという偉大な成果を残している。

また、サルビア・ミクロフィラにはいくつかの種があるが、その新種の名前には、大航海時代のスペイン統治の植物学者の名残りがある。
Martínとその盟友José Mariano Mociño(1756-1820)の名がついたミクロフィラの種(Salvia microphylla Sessé & Moc)がある。

Martín Sessé y Lacasta (1751-1808)は、スペインの医者・ナチュラリストで、彼はスペイン国王カルロス三世にメキシコでの大規模な植物相の調査・探検を提案し、実施することになった。大航海時代は、香辛料・薬用植物・金を東洋に求めてはじまったが、
重要植物は機密としてスペインが秘匿してきただけでなく、よく知られない植物が多々あった。

マーティンは、メキシコの植物相の調査・植物学の発展に貢献したが、彼が集めた植物のコレクション及び原稿は、また秘匿され死後約2世紀後に世に出てくるという不思議なことになっている。またということは、16世紀後半のフランシスコ・エルナンデスの植物調査の成果が公開されないという同じようなことが以前にもあったが、重要な情報は集めるが秘匿するだけで活用されないという体質が伺える。活用するために集めるという原点を忘れた体質が、頂点から滑り落ちたのであろうか?
スペインに取って変わったイギリスは、キュー王立植物園を植物情報を収集する戦略拠点として構築・活用していくことになる。
(※)[http://blogs.yahoo.co.jp/tetsuo_shiga/21372607.html フランシスコ・エルナンデス]に関してはここを参照。

(写真3)気温で変わるホットリップスの花
 

サルビア・ミクロフィラの人気商品とでもいえる‘ホットリップス’は、気温で花の色が変わる。通常は、花びらのふちが 真っ赤な口紅を塗ったようになっており、まるで“笑うセールスマン”(藤子不二雄A)の分厚い唇を思い浮かべてしまう。
“真っ白になるのは気温が低い時”。“真っ赤になるのは気温が高い時”。
サルビア・ミクロフィラにはこんな性質があり、1年のうちでも様々に変化する。気温が高い時の赤は、グレッギーの赤よりも鮮やかで美しい。しかし、ホットリップスは、赤・白の通常のときの方がそれぞれが際立って美しい。

この‘ホットリップス’は、サンフランシスコの園芸誌編集者リチャード・ターナー(Richard G. Turner)によって発見された。彼のメキシコのメードが誕生祝で故郷の花を贈ったところ、これがホットリップスだった。原産地は、メードの故郷メキシコのチアパス地域(the Chiapas area of Mexico)になる。

(写真4)ホットリップス赤だけの花


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その58:カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')の花 と 権利

2008-10-08 07:49:10 | ときめきの植物雑学ノート

植物雑学ノートとしてイレギュラーだが旬なので割り込みをすることにした

カンナが、
カラフルな葉をまとい
輝くばかりの鮮やかなオレンジの旬の花をつけていた。

(写真) 強烈で刺激的なオレンジの花


ここは、散歩の目的地で折り返し点にあるハーブ園。
ハーブ園にカンナがあること自体不思議であり気になっていたが
調べてみると面白いことがわかった。

カンナはその根茎に豊富な澱粉をストックする農作物でもあり、
コロンブス以前の南米では主要な農産物であったようだ。
ジャガイモは、アンデス山脈を中心とした地域での主要なデンプン質の農作物だが、
カンナとは棲み分けていた可能性がある。

さらには、葉の強い繊維質を使いパティオの屋根を葺いたり、紙をすいたりしたようだ。

美しいだけでなく、生活に役に立ったカンナ。
いまは、美しさだけが求められるようになってしまったようだ。

(写真) 刺激的で魅力的な葉


このカンナの種名は、よくわからない。というほど数多くの品種改良がされた。
しかし、ブランド名は『 Canna 'Tropicanna®' 』として世界的に知られているようだ。

この品種改良とブランド化、ここにカンナの国際的な争いの歴史があるが、
まずは、ブランドではなく美しい植物をチェックしよう。

150~180cmのスリムな身長に
魅力的な色彩の葉。
春はパープルの葉が現れ、直ぐに現在のような葉になるという。
緑、黄色、ピンク、赤の縞模様の大きな卵形の葉は、すそ広がり的に長い茎を支えている。
夏には情熱的なオレンジの花が咲き、今が最高の旬の時期だ。


カンナの歴史とブランド化での争い
現在のカンナは、
19世紀中頃から交配が繰り返されて出来た園芸種が中心となっているが、
カンナの原産地は北米・南米で、いわば西欧から見た新世界の熱帯・亜熱帯地帯植物だ。
インド・アジアの熱帯・亜熱帯原産説があるようだが、疑問のようだ。

ヨーロッパへの普及はコロンブスが新世界にたどり着いた16世紀以降で、
日本には江戸時代の初期に渡来し、 『ダンドク(曇華)』と呼ばれたという。
http://homepage2.nifty.com/nijime/htm/koi)dandoku.htm (小石川植物園)

新発見・品種改良・新種栽培などの“New”は、価値があり名誉もある。
これを“権利”として獲得する争いが工業製品だけでなく農業分野まで、
そして“種(遺伝子)”まで来た歴史の1ページを作ったのが
カンナ‘パッション’(Canna 'Phasion')だ。

カンナ‘パッション’の最も初期の記録は、ローデシア(現在はジンバブエ)
Bulawayo市のRademeyer氏の庭で1955年に発見されたという。

そしてこの種は、めぐり廻って南アフリカの「Theunieクルーガーの庭」にあり、
1991年にケープタウンで園芸業を営む“カーステン(Keith Kirsten)”によって発見された。
彼は、1994年に“Canna Phasion”を登録し権利を確保した。

ここに争いの原点があり、ヨーロッパでも権利を主張するものがいて、
争いは、南アフリカとヨーロッパとの間で起こった。

発見、新種栽培は守られ保護されるべきものだが、
これを証明する必要がある。

カースティンが発見したものは新しいか、庭の所有者との権利関係は、彼が新種として育てたか
などなどが争点になったようだ。

結果的には、南アフリカ、ヨーロッパとも権利は否定されたようだ。
現在のブランドである『 Canna 'Tropicanna®' 』は、
オーストラリア、メルボルンにある国際的な園芸マーケティング会社
“Tesselaar International”が南アフリカでは1994年に、英国では1997年に取得した。
http://tesselaar.com/

こんな美しいカンナだからこそ、手中にしたい人間が群がったのだろうか。
発明・発見などの偉大な業績は報われるべきだが、
脇が甘いとつけ込まれることがあり、
発明・発見者の能力とは異なるところで報われない可能性がある。
能力が違うよき友・パートナーが必要であり、ホンダ、ソニーの初期にはこれがあったようだ。

(写真) ハーブ園のカンナ


カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')
・カンナ科カンナ属の半耐寒性の多年草の球根植物。
・学名は、Canna 'Phasion' 。'Phasion'の由来は「sport of 'Striata'」直訳すると“縞模様の細い筋が入った(=stripe)”カンナとなる。
・この種の起源は、Canna 'Wyoming'(カンナ・ワイオミング)の突然変異の種の栽培品種といわれている。
・この品種の英名は、カンナ・トロピカーナ(Canna 'Tropicanna®')で登録商標なので自由に使えない。
・カンナの英名は、ユリ科でもないのにCanna lily。和名はダンドク(曇華)。
・カンナの原産地は北米・南米、西インド諸島。コロンブス以降にヨーロッパなどに普及する。
・草丈150~180㎝、株張り30~90㎝で、花壇の中心的な存在。
・葉は大きな卵形で、緑、黄色、ピンク、赤の縞模様が入った美しい葉。
・開花期は8~10月で、鮮やかなオレンジの花が咲く。


<参考サイト>
ダンドク(曇華)(リンク:小石川植物園)
http://homepage2.nifty.com/nijime/htm/koi)dandoku.htm
オーストラリア、メルボルンにある“Tesselaar International”
http://tesselaar.com/

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その46: 西欧をときめかした日本のユリ②

2008-08-06 09:35:19 | ときめきの植物雑学ノート
シーボルトとカノコユリのストーリー

日本産のユリが欧州に渡ったのは、1830年代の頃で、
シーボルトが持って帰って普及させたカノコユリ、スカシユリがこれにあたる。

花びらが茎に向かって大きく反り返り、紅色の花びらに濃い紅色の斑点がはいっているので、
鹿の子のような斑点が入ったユリ、カノコユリと呼ばれている。

 
(出典)カノコユリ(シーボルト日本植物誌)京都大学

このカノコユリが欧州で初めて紹介されたのは、
江戸時代の1690-1692年に長崎にオランダの医者として来たドイツ人のケンペルスで、
彼の著書「廻国奇観」に日本の植物をたくさん紹介している。
この中にカノコユリが入っていたのだ。

そしてシーボルトは、カノコユリの学名
この花を初めてヨーロッパに紹介したケンペルに敬意を表して献じた。

また、ツンベルグも命名者となっており、江戸時代に日本に来た3名の医者・植物学者がカノコユリでそろった。
(Lilium speciosum Thunb.α.Kaenpferi Sieb.et Zucc.)

属名のスペシオースム(L.speciosum)は、“美しい”という意味で、
シーボルトもテッポウユリとさえ比較しなければ、カノコユリは美しさNo1だとも認めている。

ということは、琉球・奄美原産のテッポウユリをも知っていたことになる。
テッポウユリは、その後欧州でマドンナリリーに取って代わることになる。

さらに面白いのは、シロカノコユリの学名に“タメトモ”を使っている。
その理由は(原訳文から)、

“真っ白な花をつけるユリには、日本の高名な英雄の名前にちなんでタメトモという日本名を我々はそのまま使うことにした。タメトモは、このユリを琉球から初めて持ち帰ったとされている。”
※シロカノコユリが琉球原産という理解はシーボルトの間違いで、カノコユリ同様に日本原産。


1832年には、シーボルトが生きたままで持って帰ったこのカノコユリが咲いたそうだ。
(この時代、植物を生きたままで輸送するのが難しい時代で、大部分は塩水でやられるそうだ。)
このカノコユリは、イギリスで大変な人気を呼んだ。


カノコユリの原産地である鹿児島県川内市の甑島(こしきじま)
この島には、たくさんのカノコユリが自生していた。
この島をカノコユリの生産拠点にしたのは、横浜の貿易商でユリの輸出で活躍した
アイザック・バンティング(1851-193?)。

彼は、神社にお供えとしてあった美しいユリに感動し、そのユリを寄進したヒトを調べ、その人から順に
買った店、仕入れた問屋、産地を逆上がりで調べ甑島にたどり着く。

さらに、社員を派遣し現地調査を行い、生産者からの仕入れルートを作り、イギリスにサンプル出荷をしたところ大評判を得たようだ。
このユリがカノコユリで、日本では「紅コシキ」と呼ばれ、欧州では「横浜の誇り(Yokohama pride)」として販売された。
彼は、カノコユリのプラントハンターだけでなく、マーケティングも行った。


ヤマユリが欧州&世界を感動させる
1862年には、日本のヤマユリがイギリスにもたらされた。

このユリを送ったのは、同時期に日本にいた3人、J・G・ヴィーチ、ロバート・フォーチュン、シーボルトだった。
ロバート・フォーチュンは、 「その43 菊・キク・きくの常識と意外性の歴史」でふれたが、
ヴィーチに関しては、別途どこかで書いてみようと思っている。

スペインの無敵艦隊を破った時から欧州の端にある粗野な国家イギリスが紳士の国家に成長する。
この過程で、貧困な植物相のイギリスが、世界の植物を集め、
“園芸”という自然を愉しむ価値観を創造することになる。

植物を集めることに関しては、キュー植物園が寄与し、 “園芸”の価値観を創造することに貢献したのが
“ヴィーチファミリー、ヴィーチ商会”で避けて通るわけにはいかない。

そして、ヴィーチなどが送ったヤマユリは、
ユリの王者とも評され、ヨーロッパに大ユリブームを創ることになる。

そして日本は、ユリの球根が重要な輸出商品となった。
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その45: 西欧をときめかした日本のユリ①

2008-08-05 07:07:38 | ときめきの植物雑学ノート

本題に入る前に、久しぶりの雷雨のすごさを!

ズドーンとベースが効いた地響きがするほどのものすごいカミナリが
一晩中続く。

朝5時に鉢の被害を見廻り、直そうと外に出てみるとすでに外は一面の水。
15cmほど増水し排出量を上回る雷雨のものすごさ。

メダカの水をかきだし、鉢の下に敷いたトレーをはずし
危ないものを上に上げていると、全身ずぶぬれになってしまった。

いろんなモノが流れてきたが、6時30分には雨が上がり、あっという間に水が引いた。
この1時間30分の雷雨のものすごさを改めて実感した。

写真を撮る余裕もない早朝の出来事でした。

(写真)つぼみをつけたユリ


さて
風で飛んできたユリの種が、小さなつぼみをつけた。開花は昨年の場合8月末。
暑さが過ぎるのを待っており、
夏から秋への兆しを感じた瞬間にガードを緩め開花する。

それまでの間、高校野球、オリンピックがあるが
花を見る前にユリというものを愉しむ調味料を探してみよう・・・・

シーボルトが西欧に驚きを持って帰る
日本の生きたユリを西欧に紹介したのはシーボルトであり、
その著作『FLORA JAPONICA』(日本植物誌、第一巻1835年、第二巻1870年出版)には、
カノコユリ、 シロカノコユリ、 ウバユリ、 ノヒメユリ が取り上げられ細密に描かれている。
下絵は、日本の画家 川原慶賀などが描いていることでも知られ、絵も文章も楽しみな文献となっている。

日本のユリが登場するまでの西欧のユリ事情
西欧、古代ローマ人が愛したユリは、マドンナリリーと呼ばれるユリで
世界で最も古くから栽培されてきたカンディドゥム種(Lilium candidum)のユリになる。
原産地はパレスチナとも言われ、栽培は紀元前3000年頃にさかのぼる記録もある。

ローマ人が征服した地域には、野生化したマドンナリリーが咲いているぐらい
ローマ軍とともにヨーロッパに広がったが、
ヨーロッパには、これ以外めぼしいユリがなく、
19世紀に中国・日本から東洋のユリが入ってくるまでユリへの関心は低かった。

しかし、マドンナリリーは、宗教的に聖母マリアを象徴していることに留意しておく必要がある。

西欧の目覚め第一波は中国から
1804年、オニユリが中国からイギリスに送られてきた。

送ったのは、ウィリアム・カー(Kerr William ?-1814)で、
イギリスキュー植物園から1803年に中国に送り込まれたプラントハンターだ。
彼は、オニユリ以外では、ササユリ、アセビ、白色のモッコウバラ、八重のヤマブキ、ナンテン、
シュウカイドウ、イブキなどをキュー植物園に送った。

ササユリ、アセビは日本原産であり、いつしか中国にわたり栽培されていたことになるが、
橙色の花弁に黒褐色の斑点が入ったオニユリは、その姿からタイガー・リリーと呼ばれ、
西欧の人々のユリ観にショックを与えた。

でもこの後、ユリへの関心はまた停滞してしまう。
(雷雨の後始末もあり明日に続く)

<参 考>
シーボルト『FLORA JAPONICA』( Kyoto University Library )
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0208.html  (カノコユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0209.html  (シロカノコユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0210.html  (ウバユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0237.html  (ノヒメユリ)




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その44 ハーブの優等生“ミント”を、ちょっと整理してみました。

2008-07-22 06:54:52 | ときめきの植物雑学ノート

ミントは自然交配種が多い。
ということは雑種が多いということになるので見分けが難しい。
よくガーデニングでは、鉢植えでのミントの混載がなされているが、これはお奨めできない。

生育環境は、よく肥えた湿気のある土壌で半日陰でも育つので、
キッチンハーブとしても、香りのハーブとしても室内で育てられる。
美しい花が咲くベニーロイヤルは、妊婦は使用を避けたほうが良いので、
安全には注意したほうが良いものもある。

そこで、簡単な見分け方の防備録として、自分でもわからなくなるのでミントを整理してみる。

1.スペアミント系(Mentha spicata)
・代表的な品種で、サラダ、肉料理などに使用される。
・スペアミント、カーリーミント、ジンジャーミント、ホースミント
(写真)スペアミント系スペアミント


2.ペパーミント系(Mentha ×piperita)
・ウォーターミントとスペアミントの交配種で、メントールが多く含まれるので、ピリッとした辛さと清涼感があり、
ハーブティとして利用されている。殺菌力もあるので最近注目されている。
・ペパーミント、ブラックペパーミント、ニホンハッカ
(写真)ペパーミント系ブラックペパーミント


3.アップルミント系(Mentha suaveolens)
・マルバハッカとも呼ばれる丸い葉、ウールのように毛で覆われた肌触りの良い葉、りんごのような甘い香りで
ミントソースに適している。またオレンジミント系同様にポプリにも良い。
・生命力にあふれているので、混裁すると一人勝ちとなりかねない。
・アップルミント、グレープフルーツミント、パイナップルミント
(写真)アップルミント系アップルミント


4.オレンジミント系(Mentha citrata)
・ベルガモットミント、オーデコロンミントとも呼ばれる。香りが素晴らしくポプリなどに使われる。葉の色合いも美しい。
・オーデコロンミント、レモンミント、ベルガモットミント
(写真)オレンジミント系オーデコロンミント


5.ベニーロイヤルミント(Mentha pulegium)、その他
・ペパーミントを強くした香りがあり、また、ほふく性があるので香りのグランドカバーとして使われる。
・乾燥させると防虫剤として使用できる。
・食用では注意を要する。
・ペニーロイヤルミント、ウォーターミント
(写真)ペニーロイヤルミント系ペニーロイヤルミント



7月からの夏場は、ミントの開花期となる。
昨年は、ミントの種類を増やすことで熱中したが、何故かしら今年はクールダウンしている。
鉢替えをせず、肥料も春先にあげたぐらいで極限の空間での耐久生活を強いている。
それでも、大きく育ち、風が強いと倒れてしまうことが多々ある。

ミントは、生きることにおいての強さ、劣悪資源での耐久力、他の品種との雑種化など
個体としてはすばらしい能力を持っている。

そして、新鮮な緑の葉、気分を爽快にする香り、ハーブティー、料理などでの利用など申し分ない。

こんなにすばらしい優等生ハーブなのに
どうしてクールダウンしたのだろうか?

それは、優等生過ぎて面白みがない。からだということに気づいた。
ミントを活用する目的が明快でないために、手間がかからない、怪我もない、事故もないとなると
愛着のようなものが湧いてこない。

“苦労をかける子ほどかわいい”とはよく言ったものだ。

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