モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その43 菊・キク・きくの常識と意外性の歴史

2008-07-20 08:16:36 | ときめきの植物雑学ノート
白妙菊を書くために調べていたら、自分に大きな誤解があったことに気づいた。

そして、キクの歴史は意外なことがけっこうある。

春のウメ、サクラに対して秋のキクというのが日本の季節感をあらわす代表的な花で、
3種とも日本固有の植物かと思っていたが、そうではなかった。


※キク科の花 ダイヤーズカモマイル

1.キクには、野生種が存在しない
現在のキクは、5~6世紀の頃の中国で自然交配で出来た園芸種のようだ。
親は、白花のチョウセンノギク (※1) と 黄花のハイシマカンギク (※2)が交配してできたと
推定されている。

文献では、 シマカンギク (※3)或いはハイシマカンギクとあり正解はわからない。
だから現在のキクには原種というものがなく、両親がいるだけだ。
この両親から生まれた第一子が原種と言えば原種だが・・・・(答えは最後に)


2.日本には、奈良時代中期から平安時代初めに中国から伝わる
このときに、奇数の数字が重なる日はおめでたく5節句というものも一緒に伝わる。

1月7日(人日、じんじつ、七草)、3月3日(上巳、じょうし、桃の節句)、
5月5日(端午、たんご、菖蒲の節句)、7月7日(七夕、しちせき)、そして、
旧暦での9月9日は、重陽(ちょうよう)の節句

キクの花びらを浮かべた菊酒を飲むと長寿ができるという不老長寿の薬として伝わり、
貴族階級では、ブームとなったようだ。

また、キクを見て楽しむという“鑑賞の習慣”は、このときに中国から伝わってきた。
ヨーロッパでは、花の観賞という美意識が育つのが15世紀以降であり、
それ以前に日本では鑑賞の価値を習慣化していたようだ。これも意外かな?

ウメも8世紀半ばに原産国中国から伝わってきているので、キクと同じ頃に日本に入ってきた。
ということは、現在のウメ、キクのおおもとは中国だったということになる。

3.花といえば、平安以前はウメ、平安からサクラ。キクは鎌倉時代から
秋を代表する花としてキクが確立したのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇(1180-1239)が
菊の花の意匠を好み、「菊紋」を天皇家家紋とした頃から。
日本を代表する花にもこのように時代差があったのだ。これも意外。

4.「菊」は漢名で、「菊」が残る
平安時代の辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」では、漢名の菊に対して
和名は「カハラヨモギ」または「カハラオハギ」としている。
これは別に意外ではないか!

5.中国産の「菊」は、日本で独自に品種改良され世界に誇る園芸品種となる。
江戸元禄時代以降に園芸品種としての菊の改良が特に進み、直径30cmにならんとする大輪菊が栽培された。
この時代植木屋が集まっていた巣鴨から染井(ソメイヨシノの染井=駒込)が
園芸種栽培の中心で、開国後にここを訪れた外国人は園芸水準の高さに驚いたようだ。

6.プラントハンター、フォーチュンもびっくり
イギリスのプラントハンター、フォーチュン(R.Fortune 1812-1880)(※5)は、
1860年及び1861年に再来日し、キクの品種を大量に集めロンドンに送った。

フォーチュンの驚きは、
江戸の団子坂で菊人形にふれ、翌日は染井、王子の植木村を訪問しているが、
この植木村(ナーサリー・種苗園)の規模の大きさは、ロンドンをも上回り、
彼をして
“世界のどこに行ってもこんなに規模の大きな売り物の植物を栽培しているのを見たことがない”
と言わしめている。
江戸末期の日本の園芸市場は世界最高水準であり、これを支える花・植物を愛する日本人が多数いた。
ということがフォーチュンの驚きだった。

中国のキクの品種は、日本のものよりは早い1789年にヨーロッパに入っていたが(※4)
単純な八重咲きのためか、人気にもならなかった。
フォーチュンにより日本種が入り交配されることによりヨーロッパでもキクブームが起こった。
いまでは、バラ、カーネーション、キクが世界での三大花となるまで成長した。

井伊直弼が暗殺されたのが1860年であり、尊皇攘夷で荒れていた時期に、
フォーチュンが王子まで動き廻っていたことも驚きだ。プラントハンターは命がけだ。

7.蛇足
「以ての外(もってのほか)」は、 ”思いもよらない”という意味で使われるが
これが“もってのほか”だった。

子供の頃は秋になると菊の酢の物など食べたものだ。
山形の菊が入った漬物“晩菊”は、お茶漬けにすると最高だが、
「もってのほか」は東北地方で栽培される食用菊の名前だった。

この由来は、狩に出かけたお殿様が、百姓屋で振舞われたお茶うけの菊びたしに
「これはうまい。百姓にはもってのほか」といったそうだが
それにしてもひどい逸話で、 “もってのほか”という以外ない。

8.蛇足2
現在のキクの親は園芸種で雑種であることがわかった。
野生のキク科の植物もあり、これが死滅する可能性があるそうだ。
何故かといえば、
キクの園芸種は、野生種と交配し新しい種が誕生しやすい遺伝子構造を持っているようだ。

この雑種が誕生する原因として挙げられているのは、
野原などに自生する野生種に、墓参りでもって行ったキクの花の花粉が交配するからのようだ。

野生種を守るには、お墓にキクの花を持っていかないか、お墓を地代の安いところに作らせないか
野生種を空調設備が管理できる実験室に移植するかなどなど奇策があるが
とんでもないことを考えざるを得ないようだ。
“もってのほか”といいたい・・・・


※ キク科の花 ローマンカモマイル

<脚 注>
(※1)チョウセンノギク(出典:'Botanic Garden')
チョウセンノギク(Dendrantbema zawadskii var. latilobum kitamura)は、
中国北部、モンゴル低地、朝鮮半島などに自生する頭花の直径が8㎝にもなる大きな白い花を咲かせる。
http://www.botanic.jp/plants-ta/chonog.htm

(※2)ハイシマカンギク(出典:独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 花き研究所)
ハイシマカンギク(D.indicum var. procumbens Nakai)は、中国中部に広く分布し、茎は地上をはって長くなりところどころで根を出すので匍匐性がある。鮮やかな黄色の花をつける。中国では、薬用で漢名では甘菊という。
http://flower.naro.affrc.go.jp/kaki_iden/c3_kiku/kiku_yasei_show/detail_html/00030.html

(※3)シマカンギク(出典:'Botanic Garden')
シマカンギクDendrantbema indicumは、草丈30~80㎝で、黄色の直径2.5cmの頭花をつけ、近畿以西の本州、四国、九州、台湾、朝鮮半島、中国、ベトナム北部までに分布する。
http://www.botanic.jp/plants-sa/sikang.htm

(※4)中国からキクを持っていったヒト
1789年フランス人ブランカール(P.L.Blancard)は、中国から大輪菊を持ち帰り、これがイギリスキュー植物園に伝えられ、オールドパープルの名で栽培される。

(※5)フォーチュン(R.Fortune 1812-1880)は、
1843年に中国からポンポン咲きの品種を、1861年には中国と日本から新しい大輪厚物品種をイギリスに送る。
ちなみにフォーチュンの経歴は、
ロンドンの園芸協会のプラントハンターとして1843年7月に香港に派遣され、
茶の木、製法、マニラでのランの収集などで知られる。
そして、発酵させて作る紅茶の製法と茶の栽培法をインドに持ちこみ、紅茶大国イギリスの基礎をつくった。

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その42 植物学の謎 パープルルースストライフの受粉システム

2008-07-14 07:31:18 | ときめきの植物雑学ノート

パープルルースストライフの謎

(写真)花一杯のパープルルースストライフ


パープルルースストライフは、不思議な花のようだ。
あの進化論の巨人“ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809- 1882)”も、この花を観察して悩んだという。
(凡人である私には何で悩んだかがよくわからないが・・・)

つまりこういうことだ
パープルルースストライフには、1本に三種類の花が咲くそうだ

三種類とは、花の色とか花びらの形の違いではなく、
ダーウィンが悩むぐらいだから進化にかかわることで
一つのパープルルースストライフに、雌しべ(花柱)と雄しべの長さが異なる3種類の花がある。
ということだ。

長さが違うということは、蜂が飛んできて3種類のどれかの雄しべの花粉がつくと、
その長さにあった雌しべ(花柱)でないと受粉することができないので、
当然、自家受粉しにくいような雄しべと雌しべの長さになっているので、
よその花でないと授粉できないということで他家授粉の確率が高まる。

確かに、他家授粉を優先させる方法として雌しべ・雄しべの長さが異なるという方法はわかるが、
3種類もあるということが何なのかわからない。

進化の考え方として
大きな環境変化があったときは、あらゆるものが同時多発的に出現し
その中から環境に適合したものが生存できるという適者生存説があるが

パープルルースストライフの3種類も何らかの理由がありそうだ。
或いは、異なる環境で能力を発揮する可能性を秘めているのかもわからない。


現在のパープルルースストライフは、沼地、湿地などで増殖しており、
この種が存在しなかったアメリカ大陸でも増えているようなので、
環境に適合する優位な子孫繁栄の方法であることが証明されているが、
複雑にした理由は何なのだろう?
謎でもある。

わが庭の咲き始めのパープルルースストライフをつぶさに観察したが、
1cm未満の花であり裸眼では、雄しべ・雌しべの長短を見極めるにはいたらなかった。

咲き始めに3輪だけ咲いたことも3種類の花に関係しているのであろうか??
新たな疑問が沸いてきた。

(写真)写真)確かに違いそうだ・・・雄しべ、雌しべ


花を楽しむための雄しべと雌しべの観察

子孫を残すということは、ある意味で花々が生存の戦略とマーケティングを展開しているようだ。

その基本を“受粉”で整理すると
1.自家受粉は、受粉の確率が高くコストが安い。
2.他家受粉は、媒介者を必要としそのために余分のコストがかかり受粉の確率も低い。
ということになる。

次に“生存”ということで整理すると次のようになる。
3.自家受粉は、遺伝的な多様性を高めない。
4.他家受粉は、遺伝的多様性を高め、適応性が高まる。

このように整理すると、どちらを選択するのがベストであろうかと考えるようになる。
植物も長い歴史の中でこれを考えてきたのではないだろうか?
と思う。

(写真)花粉放出中のノアザミ


5月に咲いたノアザミは、
雄しべが大量に作った花粉を自家受粉しないように
花粉が放出し終わった時期を見計らって受粉できるように熟成するという。
徹底しているのは、残った花粉をかき出す機能まで雌しべが持っているというから驚きだ。
これを“雌雄異熟”というそうだ。
ノアザミの場合は、雄しべが先に熟して花粉を放出するので“雄性先熟”というが、
時間差攻撃というところだろうか。

パープルルースストライフの場合は、
自家受粉を避けるために、雄しべと雌しべの距離を大きくとっているが、
これを“雌雄離熟”といっている。
しかも3種類あるというから自家受粉の可能性がありすぎるのではないかと思うが
どうだろう。

他家受粉の場合は、
蜂・蝶などの流通業者に花粉を運んでもらう運賃の支払いと接待をしないといけないし、
きていただくためのプロモーションを展開しないといけない。
来てもらうというこの部分が花々の競争で、魅力的でなければ生き残れなくなる。

自家受粉、他家受粉にしろ
自分の遺伝子を大量にばらまきたいというのが遺伝子の持つ本質で、
利己的、わがままだという説が提示された。
なるほど納得。と自己正当化したくなる説であり、
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』 (The Selfish Gene、1976)は、一世を風靡した。

しかし、
ばらまくにはコストがかかるし魅力ある自分にしなければならないという社会の仕組みがある。
美しい花をじっと見ているとこんなことが透けて見えてくる。
だいぶ目が悪くなってきたのだろうか、霞んで見えているかもしれない・・・・・

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その41 “ヤマボウシ”と『Flora Japonica (フロラ・ヤポニカ)』

2008-06-12 08:09:20 | ときめきの植物雑学ノート

No2:ヤマボウシの歴史と名前の由来
(※ No1:日本原産 ヤマボウシの“実”と“花”はこちら)

日本原産でもあるヤマボウシの名前は、
丸い坊主頭の花が、白い“ほう”という頭巾をまとっているその花姿から
山法師(ヤマボウシ)と名付けられたという。

このヤマボウシをヨーロッパに紹介したのは、シーボルトとその協力者のツッカリーニによる
『Flora Japonica (フロラ・ヤポニカ)』(出版年度1835-1870、30分冊)であろう。
(資料)京都大学理学部植物学教室所蔵 『Flora Japonica』

シーボルト(Siebold, Philipp Franz Balthazar von, 1796-1866)は、
1823年~1828年まで日本に滞在し、長崎出島を居住地に植物などの収集を行い、
12000点もの植物標本を持って帰り、これをベースに日本の植物誌を発表した。

分類学的な分析は、ミュンヘン大学教授ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini 1797-1848)が担当した。
残念ながらシーボルトよりも短命であり、しかも、二人の死後に「フローラ・ヤポニカ」が完了している。

この訳本を読んでみてイギリスの植物学者ベンサムの名前が
ヤマボウシの属名になった謎が解けた。

ヤマボウシなどが属していた“コルヌス Cornus”という名前は、
紀元前3世紀の植物学の父テオフラスタス(Theophrastus B.C371~287)の時代に、
この木があまりにも硬いのでつけられた名前であり、
コルヌスは「つの」を意味する。

ヤマボウシも最初はこのコルヌスに属しており、学名はCornus kousa Buerg. ex Hanceであった。
種小名の“クーサ Kousa”は、箱根などでのヤマボウシの方言“クサ”に由来するという。
シーボルトは江戸にも来ているので箱根を越えているが、
“山の帽子” (=高山植物という間違った認識)という記載だけがされており、
クーサに関しては何も触れられていない。
別の文献では、ヤマボウシを発見した九州から名前を取った。という指摘があり、
長崎出島に行動範囲を制約されていた環境から見て捨てがたい指摘と思う。

このコルヌス属の中で、1825年にヒマラヤで発見された美しい常緑樹があった。
これをカピタータ(Cornus capitata)というが、

この種をコルヌス属から独立させたほうが良いと思った人間がいた。

イギリスの植物学者リンドレイ(John Lindley 1799-1865)で、
同時代のシソ科の権威でもあるベンサム(George Bentham 1800-1884)に献じ
新しい属を作り Benthamia と名付け、カピタータをこの属の帰属とした。

『Flora Japonica (フロラ・ヤポニカ)』で、ヤマボウシを記述したツッカリーニは、
この属に2番目の種としてヤマボウシを付け加えることにした。
新しいヤマボウシの学名は、シーボルトとツッカリーニが命名者となり
Benthamia japonica Siebold & Zucc.(ベンサミア属ヤポニカ、シーボルト&ツッカリーニ)となった。

(写真)ヤマボウシの花と実


シーボルト&ツッカリーニが、ヤマボウシをミズキ属から分離独立させたのは、

「ハナミズキは、花が散形花序の形に広がっており果実もそれぞれが離れている。
一方のヤマボウシは、花が頭状に集まり果実は成熟に従いお互いにくっつき
見かけは一個の果実となる。」

『Flora Japonica (フロラ・ヤポニカ)』に記載している。
ツッカリーニの分類学的な視点は素晴らしいといえる。

ヤマボウシがヨーロッパに紹介されたのは1830年代であり、
ヤマボウシの新しい学名が登録されたのが1836年であるので、このあたりだろう。
イギリスでは、1892年には第一級の花木と評価されるまでになり、庭木として普及した。

京都大学理学部植物学教室に『Flora Japonica』のデジタル版がある。 
ヤマボウシ(Benthamia japonica Sieb. et Zucc.)をご覧になっていただこう。


植物画としての写実性と美しさを有する優れた作品であり、
『Flora Japonica (フロラ・ヤポニカ)』は、下絵を描いた川原慶賀などの絵師の高い職人技が支えており、
19世紀の植物画の水準を高めた作品となっている。

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その40:ディオスコリデス ④ 推理:植物画を描かなかった理由

2008-04-08 10:19:21 | ときめきの植物雑学ノート

雨の日は、こんな昔物語の推理でも。 ただし、前編を読んでみて欲しいですが・・・・


ディオスコリデスの薬物誌には植物画がなかったが
何故なかったのかを資料から推理してみる。

1.ディオスコリデスは絵を描けなかった
前号(その39)にディオスコリデスの編集スタンスを記載したが、
ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』は、コピー(文章)で十分事足りる、
或いは文字で表現できるというディオスコリデスの強い意思を感じる。

この強い意志には、弱点が隠されているのかもわからない。
例えば、絵を描けないコンプレックスが、コピーに走らせたのかもしれない。
特に、クラテウアスほどの腕前で描けないので。

これは、“親愛なるアレイウス”ではじまるところから読み取れる。
意訳するとこうなる。
“私が薬物について書くのは、先輩達が完成させていないし、書かれた事に間違いがあるからだ。”
そしてここからがポイントだが
“薬草採集者クラテウアスや医師アンドレアスは、他の著者と較べるとより良い記述を行っている。
が、非常に有用な薬物(根類)を見逃している。
・・・・また不十分な記述を行っている・・・”

プラトン(紀元前427-347)、弟子のアリストテレス(紀元前384-322)は、
論理(ロゴス)を重視し、言葉でモノゴトを追求すべきとし、
感覚でとらえられる美・芸術は不完全で事物の模倣に過ぎないと価値を一段低く見た。

植物画を描かない背景として
この、プラトンのイディア論の影響もあるだろう。
そして先人のライバルであるクラテウアスの紹介は、
植物画には触れずに
医師よりもステータスが低く見られていた
野山を走り回って薬草を採取している薬草採集者(リゾットモス)として記載し、
彼は職人で私は違う。
だから私はロゴス優位を実践した。 
とでもいいたいのだろうか?

クラテウアスは、小さな王国の王専属の医者であることを知らないわけがない。
だから、こんなうがった見方をしたくなる。

2.コピーでの一点突破
もう一つの解釈は、
生死が記録されていない当時としては無名なディオスコリデスは、
素晴らしい植物画を描いた先輩クラテウアスに負けるわけにはいかない。
ましてや、植物学の父といわれるテオフラスタス(Theophrastus B.C371~287)の『植物誌』にも。

そこで、植物画を描くエネルギー・時間を
得意領域の有用な薬物のデータベースづくりに精力をかけたのだろう。
その植物一つ一つのコピーは、言葉の定義がはっきりしていれば
同じ植物を想定できるほど写実的かもしれない。

また、植物・薬物の紹介は、カタログ的で、体系がしっかりしていれば
1薬物1データとして検索・書き込みしやすく使い込み甲斐がある。
ディオスコリデスの写本には、所有者が変わるごとに様々な言語での書き込みがあるようだ。
時代・使用者によって足して行けるカタログだから15世紀まで持ったのかもしれない。

絵を取り込めるコンピューターの時代がはじまったのはつい最近であり、
数値と文字が中心の時代の論理的な透明感およびデータベース思考がディオスコリデスの著書から感じられる。
この点では、絵は付録で
つまり、幹がしっかりしていれば、職人による植物画が足されてもかまわない
ということなのだろう。
チャールズ・シンガー(Charles Singer 1876-1960)は、
『生物学の歴史A History of Biology:to about the year 1900』の中で、
ディオスコリデスの簡潔なコピーでも同定困難な植物があり、
彼が存命中にも植物画つきの写本が作られた。といっている。

テオフラスタスは名前すら挙げられず完全に無視されており、ここに彼の意図を感じる。
つまり、直接のライバルは、テオフラスタスで、
彼の弱いところ、個別の植物の説明力が弱いところを攻めたのでもあろうか?

さて、本当のところ、どうして植物画を描かなかったのだろう??

文字・音だけによる表現物は、ビジュアルの既定がないがゆえに様々に空想できる。
だからこそ、1500年も長持ちしたのだろが、
15世紀まで実物からの乖離による単純化・幼稚化していく植物画を見る限り、
ディオスコリデスの時から違った線路を走り始めたようだ。
或いは、プラトン、アリストテレスの引いた路線にディオスコリデスが乗ったがために
植物画の領域でクラテウアスを超えるのに、
レオナル・ド・ダヴィンチ以降まで待たなければならなくなった。

そして、一人の天才の出現に依存することなく継続性を持ちえたのは、
植物学者と画家と印刷事業家が出版事業プロジェクトを展開するようになってからである。

パーソナルコンピューターの初期の頃にも、ロゴス派(論理=文字・数字)と
パトス派(感性=静止画・音声・動画)との不毛な論争があったことを思い出す。
データ処理能力が大きくなったとたんにこの不毛な論争が解決した。
天才および印刷機が出現するまで課題を認識せずに統合も出来なかったのだろうか?

(続く)

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 1千年以上の時空を越えたディオスコリデス【その16】
⇒Here ディオスコリデス ②植物画がなかった疑問【その38】
⇒Here ディオスコリデス ③マテリア・メディアの編集スタイル【その39】
⇒Here ディオスコリデス ④推理:植物画を描かなかった理由【その40】
・イスラムの世界へ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
⇒Here フランシスコ・エルナンデス メキシコの自然誌を発表(1578)【その31】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


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ときめきの植物雑学 その39:ディオスコリデス ③マテリア・メディアの編集スタイル

2008-04-03 08:16:28 | ときめきの植物雑学ノート
1500年も薬物のテキストとして生き残った『マテリア・メディア』
ディオスコリデスの薬物誌は、
De materia medica libriquinqueを略して『マテリア・メディカ』と呼ばれている。
同じ時代に活躍したプリニウス(23-79)の『博物誌(Plinius:Historia naturalist)』とともに、
紀元1世紀から15~16世紀まで薬物、自然誌の権威として存在した稀有な書物でもある。
ひとつの知識・体系が1500年もの長きにわたって存続したこと自体が驚きだ。

ではあるが、両者には決定的な違いがある。
プリニウスの博物誌には、伝聞・俗説など非科学的だがワクワクするような怪しげなものも入っていた。
ディオスコリデスの薬物誌では、このような伝聞を排し、合理的・実用的なことにかぎりとりあげられた。

書き出しは、
“親愛なるアレイウス”で始まり、薬物誌を書いたスタンスを述べている。
事実の観察
正確で注意深い記述
経験・試験(実験)に基づいた薬効の評価
伝聞の排除
など今でも通じる科学的な対象認識の方法論をとったことを強調している。
このスタンスが薬草のテキストとしてイスラムの世界でも活用され、
十字軍の頃にキリスト教の世界にイスラム医学の知見をまといブーメランのごとく戻ってきたのだ。

ディオスコリデスの観察と記述スタイル
第2巻には、動物類・乳および乳製品・獣脂或いは脂肪・穀物・煮野菜・刺激性のある薬草類の6類が記載されているが、
そのうちの刺激性のある薬草類 ANEMONE(アネモネ)についてみると

『アネモネには2種類のものがある。一方は野生、他方は栽培種である。
栽培種のあるものはフェニキア色の花を持ち、(中略)・・・・・、
葉はコエンドロに似ているが、(中略)・・・・・・
綿毛で覆われた細く小さな茎の先には、ケシに似た花がつく、(中略)
根はオリーブぐらいの大きさ(中略)・・・・・・
どちらも刺激性の薬効があり、根の絞り汁を鼻孔に注入すると頭を浄化するのに役立つ(中略)・・・』

このように、アネモネの花、葉、茎、根などをすべてを観察し、文字でこれを規定する。
最後に、薬効について利用法と効果を記述している。

このスタイルは全ての薬物・植物に一貫して貫かれた方法であり
コピーでビジュアルを想起させるような意図がある書き方となっている。

コピーはビジュアルを超えられるか? ビジュアルはコピーを超えているか?
ディオスコリデスの薬物に関してのコピーから、こんな植物が想像されるだろうか?

(写真)庭にあるアネモネの花


前号その38で掲載したディオスコリデスのウィーン写本 “アネモネ”(原画:クラテウアス)
とも比較してみていただきたい。
クラテウアスの植物画は、アネモネのライフサイクルをも描いている。
葉・茎・根は当然として、つぼみ、花、散る花びら(実際は顎)、実までを描いており、
植物画としても優れているだけでなく
実際のアネモネを超えている感がある。

ディオスコリデスは、クラテウアスを知っているだけでなく読んでいるので、
その上で植物画を描かなかったはずだ。
だから疑問が深まるのだが推理は次回にしたい。

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 1千年以上の時空を越えたディオスコリデス【その16】
⇒Here ディオスコリデス ②植物画がなかった疑問【その38】
⇒Here ディオスコリデス ③マテリア・メディアの編集スタイル【その39】
・イスラムの世界へ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
⇒Here フランシスコ・エルナンデス メキシコの自然誌を発表(1578)【その31】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】
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ときめきの植物雑学 その38:ディオスコリデス ②植物画がなかった疑問

2008-04-02 10:09:06 | ときめきの植物雑学ノート

昨日、アネモネの実写を掲載したが、このために掲載してみた。

今回のテーマは、
ディオスコリデスの薬物誌には植物画がなかった という。
何故、植物画を描かなかったのだろうか?
ということだ。
ディオスコリデス(紀元40-90年頃)については、このシリーズの(その16))でふれた。

紀元512年に作成されたディオスコリデスの薬物誌の写本(ウィーン写本)には、
すばらしい植物画がはいっている。

(写真)ディオスコリデスのウィーン写本 “アネモネ”(原画:クラテウアス)

ディオスコリデス『薬物誌2巻 ANEMONE』(オーストリア国立図書館蔵)

この植物画は、ディオスコリデスより1世紀ほど先輩の
クラテウアス(Krateuas 紀元前132-63年)のコピーといわれており、
このウィーン写本には、クラテウアスの優れた11個の植物画のコピーが含まれている。
紀元前1世紀にこれほどの高精細な描写がされ、実物とのマッチングがしやすい植物画が描かれていた。
改めて疑問として“ディオスコリデスは、何故植物画を描かなかったのか?”を問う。

これは、クラテウアス以降15世紀まで続く
“自然”“リアリティ”を喪失していく始まりにあるからなおさら興味がわく。

なお、15世紀から目覚めたヨーロッパでの植物への関心の高まり、
本草書のブームは以下に掲載している。
クラテウアスを超える植物画が描かれている本草書は誰からだろう?
こんな視点で見ると俄然興味が湧いてくる。(リンク先に植物画があります。)

【本草書のトレンドチェック】
その17 本草書のトレンド①15世紀までの流れ
その18 本草書のトレンド②ドイツ本草学
その19 本草書のトレンド③ドイツ以外の本草学

薬学の父ディオスコリデスのプロフィール
デイオスコリデス(Pedanios Dioscorides、40-90年頃)は、紀元1世紀に活躍し、
小アジアのキリキア地方アナザルバ出身であり、この当時の医学の中心地である
アレキサンドリアで勉強したといわれる。
その後ネロ皇帝時代にアジアに駐屯するローマ軍の軍医として勤務し、
方々を旅行し薬物・植物を見聞し知識を蓄積した。

(続く)

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 1千年以上の時空を越えたディオスコリデス【その16】
⇒Here ディオスコリデス ②植物画がなかった疑問【その38】
・イスラムの世界へ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
⇒Here フランシスコ・エルナンデス メキシコの自然誌を発表(1578)【その31】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】

コメント

ときめきの植物学 その37 22歳で消えたポカホンタスの愛

2008-03-13 07:58:50 | ときめきの植物雑学ノート

タバコとポカホンタス
ローリー卿が果たせなかった夢である新大陸の開拓事業を
軌道に乗せることが出来たのは、 “タバコ”と“ポカホンタス”だった。
もっと大胆に言うと、
“タバコ”と“ポカホンタス”がアメリカ合衆国の基礎を創ったと言ってもよい。

“ポカホンタス”はディズニーアニメのキャラクターではなく
実在の人物で、ロンドンに行った際に録った銅版画だけに肖像が残されている

“ポカホンタス”には後ほど登場してもらうとして、
“タバコ”がアメリカ合衆国を作った話からはじめよう。

ローリー卿の失敗
ローリー卿のロアノーク島入植事業は失敗した。
要因はいろいろあるが、いつの世でも変わらないのは、
資金力でどれだけ支えられるかという体力と、
ビジョン・方針を具体的に遂行できる人間とその組織力、
そして運が必要だが、

ローリー卿の個人および少数の仲間での出資という資金力のなさ、
仲間といえば、危険で未知の領域にチャレンジしたのは海賊と若干の専門家で、
食料の自給自足を考えていたのはごく少数だった。
多くはもともとが海賊なので、スペイン同様に黄金の一攫千金を狙っていた。
黄金がなかったことに挫折し、食料もなく、スペインとの戦争で補給ができなかった。
という運もなくロアノーク島への第2次入植者は、全員が消えてしまった。

ヴァージニアのタバコ
1612年ヴァージニアの入植地で、ジョン・ロルフ(John Rolfe:1585-1622)が
西インド諸島から手にいれたN・タバクムの種子で煙草の栽培を開始した。
現地産の煙草はあまり美味しくなかったが、カリブ海の島で栽培されたものと交配して
つくったこの新種が本国で大評判となった。
ここに、新大陸の植民地での経営スタイルが誕生した。

タバコなどの換金作物を大農園で栽培し本国に輸出するということだが、
1618年には、ヘッドライト(人頭権)制という大農地を、
株主(1人100エーカー)、新たに自費で渡航してくる者(1人50エーカー)に支給する制度が実施された。
1エーカーは約4046㎡なので、労働力から見てかなり広い土地を支給した。
1619年にはオランダが西インドから20人の黒人労働者をヴァージニアに運び、
これが、黒人労働者での大プランテーションの契機となる。

広い土地、アフリカからの奴隷、換金作物の栽培という
現在のアメリカ的農業は、タバコから始まり、
これが植民地の経済基盤を作り、人が集まり町となり、そして議会を作るまでになった。
北米最初の議会は、タバコ栽培にめどが見えた1619年に
ジェームズ1世にちなんで名づけられたジェームズタウンで開かれた。

ポカホンタス
ヴァージニア新植民地の成り立ちを“タバコ”で救うことになるジョン・ロルフは、
インディオの酋長の娘ポカホンタス((Pocahontas、1595頃-1617))と結婚した。
ポカホンタスは、ヴァージニア移民白人を友達として扱ったインディオであり、
ロルフとの子供は、アメリカ人第一世代とでもいえる存在だ。

資金不足で困っていたヴァージニア会社は、新たな投資を募るために
ポカホンタス一家を1616年にロンドンに派遣した。
この広告宣伝活動は大成功ではあったが、
ポカホンタスは、ヨーロッパの病原菌に犯され翌年に死亡した。
22歳であった。
ポカホンタスは、アメリカ建国の恩人として慕われている。
真偽は不明だが、
ブッシュ大統領一族のルーツは“ポカホンタス”だと言っているそうだ。
短いなりに歴史にこだわるアメリカ人の、氏素性にこだわる心情が垣間見られる。
だが、レーガン元大統領の夫人ナンシーさんは正真正銘の
“ポカホンタス”の子孫のようだ。

改めて、ディズニーのアニメ『ポカホンタス』を見た。
子供相手のアニメといいながらも、アメリカ合衆国始まりの出来事だけあって、
アメリカ人或いはディズニーにはこだわりがありそうだ。
このアニメを見る限り、ポカホンタスの結婚相手は
入植者隊長のジョン・スミス(1580-1631)と思ってしまう。

“タバコ”“ポカホンタス”が、イギリスの植民地経営を軌道に乗せたといってもいいが
1607年―1622年までにヴァージニア会社が送り込んだ入植者1万人のうち
1622年以降まで生き延びたのは20%にすぎない。
というからニューフロンティアは危険だった。
現代の平和で安全なニューフロンティアはありがたいが、
危険率が低いだけにリターンも低くなるのは当然だろうし
欲をかいてはいけないということだろう。

コメント

その36 ローリー卿とハリオットの夢

2008-03-05 08:28:55 | ときめきの植物雑学ノート

> <不等記号を発明したトマス・ハリオット



オックスフォード大学出身の数学者・天文学者トマス・ハリオット(Thomas Harriot 1560頃-1621)は
鼻に生じたがんにより1621年に死亡した。
彼は、新大陸からタバコを持ち帰り、喫煙は身体に良いと考えてその後ずっとパイプを離さなかった。
喫煙によるがんの犠牲者第1号かもしれないと言われている。
タバコ喫煙の普及を促進した積極的な援護者としても知られる

新大陸開拓者ローリー卿



映画『エリザベス ゴールド・エイジ』に登場するエリザベス女王の愛人
ローリー卿(Walter Raleigh, 1554年-1618年)は、新大陸でのイギリスの
最初の植民地を築いたことで知られる。
後進国イギリスが新大陸に進出するには、海賊行為だけではダメで、
植民地開拓が重要と考えていた。この当時としては先進的な思考の持ち主だ。

トマス・ハリオットとの出会いは、支配下にある海賊達の頭と航海術を高めるために、
天体観測・数学を教育する必要がありオックスフォード大学出身の数学者を採用した。
これが、ハリオットであり、ローリー卿がホワイトホール宮殿で斬首刑になるまで
二人は終世のパートナーであった。
それにしても、何かをなして長生きするということは、至難な業であることは間違いない。
「まったく何もしないよりも、何にも値しないことをするほうがいい」とは、ハリオットの言葉だが、
メモ以外何も残さなかった天才ハリオットだから言えることだろう。

ローリー卿の新大陸植民事業とハリオットの博物誌
ローリー卿は、出資者を集め1585年にアメリカ大陸ロアノーク島入植事業を開始したが、女王からは彼の出港の許可が出ず、
代わりにミッションを持って行ったのが盟友ハリオットだ。

そのミッションとは、処女女王にちなんでヴァージニアと名づけられた
新大陸の住民・植物相・動物相に関して詳細な記録を取り、
新大陸への出資者・入植者を集めるための宣伝パンフレットをつくる目的を持っていった。

ハリオットは、1586年ロアノーク島でキャプテン・ドレイクの船隊に救助され翌年イギリスに帰還し、
1588年の3月に新大陸ヴァージニアを紹介する四つ折のパンフレットを発行した。

簡潔な文章で記述された新大陸の博物誌であり、彼がお気に入りの“タバコ”に関しては

「原住民が他の作物と切り離して栽培する草にアッポウォックと呼ばれるものがある。
これは西インディーズでは栽培地域により呼称がいろいろと異なる。
スペイン人はこれをタバコと称している。」

こんな紹介がされている。

新大陸アメリカの博物学書が誕生した。
これは今日、ぺーバーバックとして廉価で入手することができる。
太陽の黒点の発見者ハリオットは、科学的な観察眼を持った博物学者としても一流であることがわかる。


A Briefe and True Report of the New Found Land of Virginia (Rosenwald Collection Reprint Series) (ペーパーバック)

ロアノーク島の謎
1587年、第二次ロアノーク島入植事業がはじまり、女性や子供を含む107人が再びロアノーク島に上陸した。
イギリスとスペイン「無敵艦隊」との大海戦が始まったため、ロアノーク島への物資補給船の出発が大幅に遅れてしまい、
ようやく1590年に救助隊が到着した時、ロアノーク植民地は文字どおり空っぽになっていた。
インディオ、海賊などに殺された或いは奴隷として拉致されたなどの憶測はあるが、
ローリー卿の入植事業は失敗と終わった。

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その35:大航海時代の脱線編④:そして、スペイン語も生き延びた。

2008-03-03 08:25:43 | ときめきの植物雑学ノート
そして、スペイン語も生き延びた。

『エリザベス ゴールデン・エイジ』という映画を見てきた。
最も期待したのは、
運良く、スペインの無敵艦隊を破りイギリスが世界の海を支配していく端緒に立ったが、
弱者イギリスが強者スペインに対峙する緊張した思考・行動だった。
残念ながら、第二作になるが、ローリー卿との恋が主題のようになってしまったせいか
国家が消えるかもしれない緊張感での判断力が描ききれていなかった。
だが、ビジュアルでの時代考証の参考にすることはできた。
このシリーズでも、ローリー卿に関しては、どこかで登場してもらいたい人物ではある。

スペインにとっては、ここが分かれ道!
人生を振り返ってみると、いい事も悪いこともあそこから始まった。
ということをよく先人が語る。
スペインの歴史の中で、1492年は重要な年であり、いいことも悪いことも含めて
この後の歴史を決めるネタがそろっていた。
● コロンブス新大陸を発見
● 近代ヨーロッパ各国語の文法書の先駆けとして「カスティーリャ語文法(スペイン語)」をネブリーハが著作する。
● ユダヤ人にキリスト教への改宗か国外退去かを選択させる勅令を公布

前二者は、スペインの発展と統一を支える軸となり、三番目のユダヤ人の追放は、
ローマカトリックでの純化だが経済を支える優秀な人材の放出ともなった。
この純化という行為は、その後オランダの離反を招くなどスペインの発展を制約する大きな要因となる。

16世紀からの超大国スペイン形成の要因と、その背後で進んでいる凋落の原因をまとめてみると・・・

『スペインの成功』
1.1492年コロンブス新大陸発見
2.1494年ポルトガルとの間で、世界を二分するトルデシーリャス条約を結ぶ。スペインの領土は、大西洋ベルデ岬諸島西方370レグア地点に引かれた子午線の西側と決められる。(ブラジルはポルトガル領となる。)
3.1501年・1508年にローマ教皇はスペイン国王に大勅書を出し権限を委譲。(国王の教会保護権といわれる)内容は、アメリカ植民地の全聖職者の人選・指名権・十分の一税の徴収・運用権などを含む広範の権限を国王に委譲。これにより、国家と教会が一体となった政治体制が成立した。
4.インディアスとの貿易は、1503年にインディアス商務院をセビーリアに設立し、唯一の窓口とした。
5.1520年コルテスによりメキシコにあるアステカ帝国を征服
6.1524年、国王の諮問機関であるインディアス会議が設立され、メキシコとペルーに副王が任命され、都市には自治組織としての市参事会が設けられ、裁判機関として聴訴院がおかれ、国王代官の派遣、副王に対する本国からの巡察使の派遣観察など仕組みを整備した。
7.1531年ピサロによりペルー・ボリビアにあるインカ帝国を征服。
8.1543年からは、海賊対策として、船団を組んで航海。インディアスからは、トウモロコシ、トマト、タバコ、コチニール(洋紅染料)銀などがもたらされた。
9.1545年最大の銀山であるペルーのポトシ銀山発見。

「スペイン国力低下の原因」
1.1478年改宗を装う隠れユダヤ教徒の取り締まりをするために、セビーリヤを皮切りにカスレテーリヤ王国に異端審問制度を設置。教皇からの設立許可を権威に王権の伸張を意図した政治統制の道具として利用した。この点が中世の異端審問と異なる
・1492年ユダヤ人に改宗か国外退去かを選択させる勅令を公布。多くのユダヤ人は国外退去を望み、北アフリカ、トルコへ移住。有能な都市中間層を失ったスペインは大きな損失となる。この数は10万人を超えないといわれる。
・1530年までに6万件以上の審理が行われ、その多くは隠れユダヤ教徒の罪状で裁かれた。
2.1538年から新大陸との貿易はセビーリヤ独占となるが、人材不足であり、外国人(ジェノヴァ商人、ドイツ人、カタルーニャ人、アラゴン人)が担う。
3.1542年国王カルロス1世は、インディアス新法を発布し、先住民の奴隷化を禁止した。1545年に反対にあい撤回。
4.16世紀中ごろからネーデルランドに、カルビニズムが浸透し、1581年ユトレヒト同盟を結び、独立を宣言。(1648年ウエストファリア条約で承認される。)
5.1577年イギリスのエリザベス一世、新大陸から戻る船の拿捕(海賊行為)を奨励し、財政的支援を行う。
6.1589無敵艦隊がドーバー海峡で敗れる。海上権に打撃を与える。
7.1492年からの100年に、先住民の人口は7割も減少する。虐待・酷使・ヨーロッパからもたらした疫病による。
・先住民の大量死と植民者による酷使を禁止するために、ラス・カサス等の修道士がインディオの保護を求めて動き、1542年先住民奴隷化の禁止とエンコミエンダ(encomienda)の廃止を定めたインディアス新法が成立した。しかし、エンコミエンダ所有者が反乱を起こすと王権は簡単に譲歩した。
・エンコミエンダ制度は、自腹を切って渡航した武装集団=征服者(コンキスタドール)に、先住民の教化と保護を委託したが、奴隷化の制度となった。
8.大アンティル諸島のアラワク人はスペイン人と接触したため絶滅に瀕したが、小アンティル諸島のカリブ人はスペイン人との接触が少なかったため、16世紀中生存することができた。しかし17世紀になると今度はフランス人に攻撃され危機的な状況となる。

排除が敗因か
イスラム教徒・ユダヤ教徒・プロテスタントなどの異端分子を抱え込めずに排除した
宗教的な潔癖性というかローマ教皇と一体となった世俗の利権の追求は、
スペインをして、16世紀の超大国という成果に結びついた。

しかし、この超大国をもたらしたローマ教皇との結びつきの強化および宗教による国内統治手法は、
やらないですませることができることでも争い・戦争をもたらし、
財政破綻という自転車操業帝国に結びついたと思う。
新大陸メキシコ・ペルーなどからの金銀が手に入らなかったら、もっと早く崩壊した可能性が高い。
新大陸の銀がスペインを延命させた。

しかし、最大の問題は、拡大した帝国を運営する人材を排除してしまったことだと思う。
優秀なユダヤ人10万人を他国に追放、オランダが分離・独立。

これらの人材がいれば、東オランダ株式会社のような植民地経営ができたのではないだろうか?
産業を興しヨーロッパとの交易で自活するようにできたのであれば、
植民地経営はだいぶ変わったものになっていただろう。
オランダとの争い、イギリスとの争い、フランスとの争いなどに浪費を通り越して蕩尽(とうじん)してしまった。
神聖ローマ帝国を世界に広げ、その王になりたいという願望に蕩尽したのであろうか?

勝ち組は、自分が勝った手法で負けるとよく言われる。
ポルトガルから学習した海賊手法に自分が落ち込んでしまい、フランス・イギリス・オランダに襲われる。
勝ち組は、生き残るがゆえに勝ちに至った手法とその結果に答えなければならないと思うが、
超える新たな手法を開発するまでには至らなかった。

(アルタミーラの絵)

アルタミーラ洞窟の壁画
人目に触れない洞窟の奥に、力強い描写で色彩鮮やかなバイソン(野牛)がいた。
こんな暗闇でどう描いたのだろうと疑問に思いながらも、
いまにも飛び出しそうな写実的な壁画に驚いた記憶がある。
1879年スペイン北部サンタンデル県にある長さ270メートルの洞窟の天井から
紀元前25,000~10,000頃の時期に描かれたアルタミーラ洞窟の壁画が発見された。

これを描いた子孫は今何処にいるのだろうか?
カリブ海では先住民の遺伝子が生き延びていないという悲惨な結果になったが、
スペイン語だけは生き延びた。
コメント

その34:大航海時代の脱線編③:そして、パイレーツ(海賊)が残った。

2008-02-29 08:06:38 | ときめきの植物雑学ノート
『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』
カリブ海の海賊を“パイレーツ・カリビアン”というが、
2007年5月に公開された『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン(Pirates of the Caribbean)』及び
12月に発売されたDVDは、ともに従来の記録を塗り替える人気で、
興行収入・DVD販売額とも新記録だったようだ。
マイナスが多きいものほど刺激が強く、これがプラスに転換するのだろうか?
或いは、略奪という行為は、スカッとする爽快感があるからだろうか?
私もこの映画を楽しんで見てしまった。

この、カリブ海の海賊(Pirates)を生み出したのは、スペインである。
かつてポルトガルから学習したことを、フランス・イギリスなどから挑戦をうけているのだが、
海賊が快適に暮らせる、安全で収益性が高い環境を提供したのがスペインだった。

(地図)カリブ海の島々とエスパニョーラ島



スペインが支配した島々の悲劇
海賊が快適に暮らせるその1は“安全性”だが、
エスパニョーラ島は、コロンブスが到着した島で、新世界最初の植民地がここにつくられた。
最初の町は、イサベラ女王を讃えヌエバ・イサベラと命名されたが、
ハリケーンで破壊され、島の対岸にサント・ドミンゴをつくった。

きっとこのあたりから呪われていたのかもわからないが、
コロンブスと同行し、唯一残っている航海日誌の著者であるラスカサス神父(Las Casas, 1484-1566年)は、
島には人が「巣に群がる蜂のようにひしめき合って暮らしていた」と書き記し、
1492年のエスパニョーラ島の人口を、少なくとも300万人と推定している。
(ヨーロッパの学者は、1桁少ない20~30万人という人口説を唱えているようだが、
この当時の食糧生産から見て300万人は生存可能のようだ。)

1500年初めにこの島で砂金が見つかりゴールドラッシュで湧いた。
当然労動力として島のインディオが酷使され、
また、ヨーロッパから持ってきた病原菌で次々と倒れていき、
金が枯渇した1518年には島のインディオの人口は1万人になり、
わずか20年で壊滅状態までに至った。

1501年に総督となったオバンドは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)を実施したが、
先住民を奴隷として酷使する制度となり、また彼が築いたスペイン人の15の町は、
1605年にはすべて放棄され、人口はサント・ドミンゴ周辺に集められ、
カリブ海諸島の大部分は、野生植物に覆われ、野生の犬、豚、馬、牛などの生息する僻地となってしまった。
人がいない、海賊が休息・生活する場を提供してしまった。

海賊ビジネスの高収益性
カリブ海の島々は、16世紀半ばからヨーロッパ各国の海賊・密輸船が横行する場所になってしまった。
1577年には、エリザベス女王が、カリブ海での私略船(海賊行為)に財政支援を与えることとなり、
公然とスペインに対抗するまでになった。
何故かというと、
海賊行為は、ハイリスクだがハイリターンでありやめられない。ということだ。

イギリス人の有名な海賊ドレイクは、1577年12月世界一周の海賊航海にプリマス港を出港した。
彼の航海からリターンの大きさをつかんでみると・・・・
マゼラン海峡を超えたドレイクは、チリーバルバライソを襲撃、ポトシ銀山からの銀の積み出し港アリカを襲撃、
エクアドルのサンフランシスコ岬沖合で財宝を満載したカカフェゴ号を捕獲、グアテマラの港町グアタルコを襲撃、
サンフランシスコ北方のドレイク湾に到達.ニュー・アルビオンと名付けイギリス領を宣言。
1580年年9月 ドレイクは3年にわたる世界一周を終え帰還。
英国の国庫収入を上回る60万ポンドを持ち帰り財政建て直しに貢献した。

海賊は繁栄したが、先住民の遺伝子は残らなかった
海賊ビジネスは、
英国の財政基盤を強化し、スペインの無敵艦隊を破り大西洋を支配する原動力となるが、
カリブ海にはスペインに帰還する金・銀などを乗せた船を襲う、パイレーツ(海賊)が
フランス、イギリスの後押しを受け増殖し残った。

また、
エスパニョーラ島の現在は、西側1/3がハイチ共和国、東側2/3がドミニカ共和国で、
人口計1648万人となるが、その大部分はアフリカからつれてこられた奴隷の子孫であり、
インディオの遺伝子は伝わっていないというから信じられないことが現実に起こった。

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