モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

プレ・モダンローズの系譜② ノアゼットローズ誕生の怪

2008-12-27 12:26:44 | バラ

バラの原種は世界の北半球だけに200種あるといわれている。
北アメリカにも原種が存在するが、現代のモダンローズの祖先にかかわっていない。
唯一あるとすると、「ノアゼットローズ」になる。

定説、ノアゼットローズ誕生
ノアゼットローズは、フランスからアメリカに入植したフィリップ・ノアゼット( Philippe Noisette 1773-1835 )によって1812年につくられ、これをパリにいる兄のルイ・ノアゼットに1817年に送り、兄がさらに品種改良をして販売し、1900年代の初めまで広く栽培されていた。

(写真)ノアゼットローズの花


ノアゼットローズ(The noisette rose)
・和名:ノアゼットローズ
・学名:Rosa noisettiana.Red
・英名:The noisette rose
・作出者:フィリップ・ノアゼット(Philippe Noisette 1773-1835)

このバラの親は、中国原産のコウシンバラと、同じく中国原産で濃厚なムスク香があるロサ・モスカータ(Rosa moscata)が交雑して出来たといわれているが、中国原産のロサ・ギカンテア(Rosa gigantea)の交雑ではないかと最近はなっている。
この場合は、香料を分析しての見解だが遺伝子とかの検査で親子関係を調べることが出来るので科学は恐ろしい。

ノアゼットローズの特色は、花色はピンク、赤、黄などで多花性の房咲きで、強い香りがあり、この淡いピンクの花色は美しい。
このノアゼットローズが重要視されるのは、この後に誕生するするハイブリッド・ティー・ローズに近づくハイブリッド・パーペチュアル系ローズの一方の親となり、四季咲き性・多花性・芳香を伝えたからだ。

というのが定説になっているが、初期のところでだいぶ違う説があるのでこれも紹介すると、

お人よしのチャンプニーがつくったという説
ヨーロッパ系でなくアメリカ系の文献を読むと、バラの祖に関わっていないというコンプレックスがあるためか、我田引水型のこれから説明する説の強調が目立つ。

サウスカロライナ州チャールストンのコメ栽培者チャンプニー(John Champney)は、
1802年にコウシンバラ系のパーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)とロサ・モスカータ(Rosa moscata)の交雑に成功し新種を作った。

これをチャンプニーズ・ピンク・クラスター(Champneys' Pink Cluster)と呼び、夏だけ開花する枝振りが悪い低木のバラだったが、何故かしら栽培して市場に出す気がなかったので、隣に住むフィリップ・ノアゼットに交雑の元となったパーソンズ・ピンク・チャイナをもらったお礼として苗をあげたという。

ノアゼットは、もらったチャンプニーズ・ピンク・クラスターからカットをつくり、1811年に実生(みしよう=種)を得ることに成功した。これらから出来た種と苗木をフランスの兄に1817年送った。これがマルメゾン庭園で開花してルドゥテによって描かれた。
となっている。

後半は一緒だが、前半がまったく異なるストーリーとなっている。
チャンプニーは、バラの歴史に残る栄誉を知らなかったお人よしのようだった。

(写真)ルドゥテの描いたノアゼットローズ


パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンにある謎
パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)は、
不思議なバラで、イギリスのパーソンズの庭に1793年(一説には1789年)にあり、バンクス卿がこのバラの存在を発表している。
伝来のルートがわからず、無関係と思われるバンクス卿が登場し、しかも、1802年にはチャールストンにも伝わっていた。

ちょっと整理をすると、
・パーソンズピンクチャイナは伝来のルートがわからないが1793年(又は1789年)以前にパーソンの庭にあった。
・パーソンとの関係がよくわからないが当時のイギリスの科学者のトップにいたバンクス卿がこのバラを発表している。
・1802年までには、アメリカのチャールストンに渡っていた。
・別の文献では、チャールストンにはフランスからパーソンズ・ピンク・チャイナが渡ったとある。

疑問は、中国からヨーロッパにどういうルートで誰が持って来たか?そしてアメリカには誰が持っていったか? である。

ミッショーとバンクス卿の謎
ここで思い出すのがフランスのプラントハンター、アンドレ・ミッショーである。
ときめきの植物雑学「マリー・アントワネットのプラントハンター:アンドレ・ミッショー」シリーズで、ミッショーはフロリダ半島の付け根のやや上で大西洋側に位置するチャールストンに大規模な育種園・農園を確保しここを拠点に北米の植物探索を行った。
チャールストンは、フランスからの移民が多いので、ミッショーもここを拠点とした。

18世紀末から中国原産のバラがヨーロッパに入るが、これがフランスに渡り、フランスからチャールストンにも伝わっていた。
どんなルートでチャールストンに渡ったのか不思議に思っていたが、
ミッショーが絡んでいた可能性を否定できない感が強まってきた。

ミッショーは、中国の原種であるツバキ、サルスベリ、チャなどをチャールストンに持ってきている ことがわかっている。

いつ持って来たかが定かでないが、1790年の北米での活動履歴がないので、この年にヨーロッパに戻るか、(ヨーロッパ経由で)中国に行った形跡がある。

ミッショーが1790年に中国に行き、パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China、中国名桃色香月季)をも含めてチャールストンにもって帰り、この一部がバンクス卿に流れたと考えてもつじつまが合いそうだ。
バンクス卿は出所を明らかに出来ずにパーソンに栽培を依頼した。だからバンクス卿がこれを発表できたというストーリーだ。

この当時はフランス革命の最中であり、フランスと英国は敵対関係にあったが、革命政府から活動費を出してもらえないミッショーが自活せざるを得なくなったということを考慮すると、チャールストンのスポンサーだけでなく、バンクス卿もスポンサーとなりえる。

こんなところでミッショーに出会うとは想像すら出来なかった。

ミッショーは1796年にアメリカチャールストンを後にし故郷フランスに旅立った。
マッソンは1797年12月にニューヨークについた。しかもバンクス卿に口説かれて。

この事実は、切り替えのタイミングが良くとても偶然とは思われなくなった。
1790年頃にミッショーはバンクス卿と内密で会っていたというのが推理だ。
この推理は、事実として突き止められていないが謎のピースがうまくはまる。

ミッショーはバンクス卿と会っているな?

北米がモダンローズに名を残すことが出来たのは、ノアゼット・ローズが誕生したことではあるが、中国原産のコウシンバラの変種パーソンズ・ピンク・チャイナがチャールストンに来ていたからだ。と言い換えてもよさそうだ。

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プレ・モダンローズの系譜 ①全体の俯瞰図

2008-12-25 10:01:41 | バラ

「プレ・モダンローズ」とは??
ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にバラが植えられたのは、1801年が初めてという。
翌年には大規模なバラ園がつくられ、世界各地からあらゆるバラが集められた。
そして、ジョゼフィーヌが支援した園芸家アンドレ・デュポンにより、
初めて人工交雑によるバラの新種がつくられた。

ここから自然交雑ではないバラの品種改良が進み、
現代のバラの祖ともいうべきハイブリッド・ティー・ローズ(略称HT)が誕生する。
第一号のHT「ラ・フランス」が誕生したのが1867年であり、
フランスの育種家ギョー(Jean-Baptiste Guillot)によって作出された。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」


この1867年は、パリ万国博覧会が開催されており、
「ラ・フランス」は、会場となったシャン・ド・マルスの庭園で展示され、
大輪で花弁がたくさんある香り豊かなピンクのバラは注目を集めたようだ。
フランスにとっては、園芸が産業化された記念すべき年でもある。

オールドローズ達が交配され、この「ラ・フランス」誕生までをモダンローズが誕生する前夜“プレ・モダンローズ”と呼ぶことにし、園芸品種の改良の歴史を追ってみる。
品種改良の歴史的な記録がきちっと残っているのはバラだけのようで、他の園芸品種は省みられないか秘匿されたようだ。

ちなみに品種改良はバラの品種数に反映しており、
1791年のフランスのバラカタログには、25種しかなかったというが、
この人口交雑によりフランスのバラ育種業が活発になり、1815年には2000種もの品種を販売できるようになり、1825年頃には5000種まで拡大し、米国南部ミシシッピー周辺にまで輸出していたという。
別の記録では、1829年にはケンティフォーリア系2682種、モス・ローズ系18種、ガリカ・ローズ系1213種、アルバ・ローズ系112種が記録されており、オールドローズの系統の品種交雑の展開が伺える。

このようにジョゼフィーヌが亡くなった後でもマルメゾン庭園は、バラの栽培を続け、バラの発展に寄与しただけでなくフランスの花卉産業を勃興させ、美しいイメージの国にした。

プレ・モダンローズの主要なバラ年表
四季咲きで花の色も形も美しい「ラ・フランス」が誕生するまでにいくつかの道がありこれを簡単に整理すると次のようになる。
(オールドローズに関しては、当ブログ『バラの野生種:オールドローズの系譜①~⑨』を参照ください。)

(1)西アジア、中近東を経由して地中海沿岸・ヨーロッパに自生していた数系統のバラ(R.アルバ、R.ケンティフォーリア、R.ダマスケナ、R.ガリカ、R.フェティダなど)
(2)18世紀末にヨーロッパに入ってきた中国・インド原産のコウシンバラ、および、日本にも原生するノイバラ、ハマナスなどの系統。

これらが交雑され次のようなバラが誕生する。
<主要な年表>
・1812年ころ: 「ノアゼット・ローズ」が発表される。
・1817年: 「ブルボン・ローズ」が発表される。
・1837年:フランスのジャン・ラフェイ、パリ郊外のベルブゥの庭で、最初のハイブリッド・バーベチュアルである「プリンセス・エレネ(Princes Helene)」を発表。
・1838年:最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表される。
・1864年:ノアゼット・ハイブリッドの代表種「マレシャル・ニール(Marechal Niel)」がブラデルにより作られ発表。
・1867年:最初のハイブリッド・ティー(HT) 「ラ・フランス(La France)」がギョー(Guillot)によって作られ今日のHTの基礎が確立した。

(続く)

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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No3

2008-12-21 10:40:08 | バラ

5.確率を超えた運命的な出会い

ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。

ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。

一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。

こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
 
(写真)皇后ジョゼフィーヌ


6.ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢

『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)

ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。


「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。

ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。
お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。

歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。 
という男と女の革命の結末だったのだろうか?

余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり“私の歴史”を残すことが可能になった。

きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。


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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No2

2008-12-19 08:23:22 | バラ

3.ジョゼフィーヌと『リー&ケネディ商会』
ジョゼフィーヌ御用達の栽培業者は、18世紀ヨーロッパNo1の栽培業者『リー&ケネディ商会』であり、ジェームズ・リー(1715-1795)と、ルイス・ケネディ(1721-1782)が1745年に設立した。

18世紀のイギリスは産業革命が進行した世紀だが、一方で、世界の花卉植物が愉しめる時代でもありマッソンのようなプラントハンターと、採取してきた植物を育成栽培する栽培業者(nurseryman)が勃興活躍した。

ジョゼフィーヌと交流があったのは、2代目のジェームズ・リー(1754-1824)で、南アフリカでのプラントハンティングのベンチャービジネスに共同出資もしていたようだ。
ジョゼフィーヌはバラだけでなく、南アフリカケープ地方のヒースマニアでもあり、1803年からのジェームズ・ニーヴン(1774-1827)の南アフリカケープ地方でのプラントハンティングに、ジェームズ・リーなどと共同出資し、その成果をヒースなどの新種という現物でも受け取っていた。ジョゼフィーヌのヒースの収集は、1810年頃には132種まで増えたという。

この2代目のジェームズ・リーは交際範囲が広く、アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン、さらには、なんとフランシス・マッソンとも相当親密な交際をしていたようだ。
『リー&ケネディ商会』No1の実力は、顧客の質だけでなく、世界的な花卉植物の仕入れが可能だから出来上がった。そこには正式ルートだけでなく裏ルートも存在したようで、ジェームズ・リーとマッソンの交際も種子・球根などの横流しで疑われたようだ。

マッソンとジョゼフィーヌの接点は確認できていないが、ケープ地方のヒースを採取した第一人者はマッソンであり、ジョゼフィーヌにとっては、憧れのヒトであったかもわからない。

いつの時代でも趣味という領域は意外な人物を結びつけ、その先にさらに意外な人物が連なるという面白いネットワークをつくる。
善意の人たちのネットワークは、意外な力を発揮するが、悪意を持ったヒトがかかわると食い物にされるもろさがある。ジョゼフィーム、マッソンは食い物にされる善人のようだが、ジェームズ・リーはどうだったのだろう?
この商会は、卓越した個人技でNo1を構築したため、卓越した個人が消えた1899年に154年の歴史を閉じた。

4.ジョゼフィーヌの履歴書
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814)は、1804年にナポレオンが帝位に就いたのでフランスの皇后になった。

彼女の生い立ちは、フランス出身かとばかり思っていたが驚いたことにコロンブスが発見しコロンブスにして“世界で最も美しいところ”と言わしめたカリブ海に浮かぶマルチニック島(現在はフランスの海外県)の貴族の家に生まれた。

1779年16歳のときにパリに出てきて、植民地長官の息子アレクサンドルと結婚したが1783年に離婚。1894年にアレクサンドルが革命政府に処刑されてからナポレオンと知り合い、1796年に結婚した。
ナポレオンと結婚しても、遊び癖は直らずパリでは有名な遊び人だったようだ。

ほんの一例が、1722年に完成したエリゼ宮は、フランス革命の激動を乗り越える際に
ダンスホールとゲームセンターになった時期がある。
ルイ16世のいとこにあたるルイーズ=バチルド・ドルレアン公爵夫人が生活苦に陥ったため1階部分を貸し出したためである。

このダンスホールでひときわ目立ったセクシーで目立つた美人がいた。エジプト、イタリアなどに遠征しているナポレオンの妻ジョゼフィーヌで、彼女が来るパーティやダンスホールなどは商売として成功するといわれるほどの有名人で相当な遊び人だったようだ。

エリゼ宮は今では国家元首が住む宮殿となっているが、最初にここに住んだ国家元首はナポレオンだった。

こんなジョゼフィーヌが、ナポレオンとの離婚後は、或いは、マルメゾンの館を買ってからは、庭造りと植物学にのめりこむ。

(写真)マリールイーズの花


そして、1813年、マルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生し、このバラに『マリー・ルイーズ』と命名し、別れた夫の再婚相手マリー・ルイーズに捧げた。

ナポレオンが再婚したマリー・ルイズは、神聖ローマ帝国フランツ二世の娘であり、マリーアントワネットの姪に当たる。

そして1813年は、ナポレオンがロシア進攻に失敗し翌年退位、エルバ島に島流しとなる時期であり、また、ジョゼフィーヌも翌年に病気で亡くなる。

フランス革命があったからこそカリブ海の一植民地の娘がフランスの皇后になれることが出来、離婚後は、庭造りと植物学に熱中しバラの歴史に革命をもたらした。
このエネルギーは何処から来ていたのだろう?

ジョゼフィーヌの本名は、マリー・ジョゼフ・ローズだった。
ナポレオンがフランス風に変えた“ジョゼフィーヌ”から“ジョゼフ・ローズ”に戻ったのだろうか?

激動期にマルメゾンで誕生したバラは、大きなうねりをつくり新しい血筋として未来に向かっていった。
彼女の名前には "ローズ”があり、そのバラが歴史に足跡を残した。
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バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No1

2008-12-18 10:08:48 | バラ
モダンローズのシリーズに入る前に、ここからバラは大きく変わったという、ジョゼフィーヌシリーズを2+1回で再掲する。バラバラに掲載したため、ドキュメントとしてのまとまりに欠けた。
このシリーズをお読みになった方は、3番目に掲載するNewからお願いします。

1.ジョゼフィーヌが変えたバラの歴史
日本で愛されている花の代表は、カーネーション・キク・バラと言ってもよい。
キクは一度取り上げたが、原産地と原種がわからないほど雑種化され園芸品種が増えている。バラも同じようで、いま手にしている豊富な色彩、花形などの美しいバラは園芸品種だ。
その園芸品種の始まりからバラストーリーをスタートする。

1813年、パリから西に20㎞のところにあるマルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生した。ここからバラの世界は大きく変わることになる。世界で初めて人工交配による品種改良が行われ、幾多の新品種がここマルメゾンで育成された。
ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えることになる。

マルメゾンの館は、ナポレオンとその妻ジョゼフィーヌが1799年に購入した。あまりにも高額でナポレオンには払えなかったが、しかし、ジョゼフィーヌは諦めなかった。“憧れの英国のキューガーデンのような自然庭園を作りたい”これがジョゼフィーヌの動機で、ナポレオンの尻をたたいて手に入れてしまった。

ナポレオンの出世とともに、世界中から高価なバラの苗木を集め、ナポレオンと離婚した1809年から彼女の死亡までの間ここに住みバラ園をつくった。
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというから驚きだ。



2.マルメゾンの庭園に使ったお金の総額は国家予算レベル??
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというが、一体いくらぐらい使ったのだろうか? というのが素朴な疑問としてわいてくる。

ジョゼフィーヌが、遅れていたフランスのバラ育種産業をイギリスと並ぶように育てたくらいだから相当使ったようだ。これを趣味・贅沢・浪費などというが、産業を振興した政策コストでもあり、最近の2兆円バラマキとはだいぶ違う。これは浪費でも政策コストでもなく無駄という。

この時代のヨーロッパNo1の育種業者は、イギリスの「リー&ケネディ商会」で、マルメゾン庭園のバラはここから仕入れていた。
1806年にイギリスとヨーロッパ大陸との通商を封じ込めるために“大陸封鎖令”をナポレオンが出した。イギリスと通商が出来なくて困るのはジョゼフィーヌもしかりで、特権を使い抜け道を作った。
それは、ベルギーのジョゼフ・パルマンティエを経由して苗木を手に入れたようだ。植物へのほとばしる情熱をナポレオンですらとめることが出来なかった。

マルメゾンのバラ園には、赤バラのガリカ、ダマスク、白バラのアルバ、日本産のハマナスなどオールドローズが集積しただけでなく、ジョゼフィーヌはデメス、元郵便局員のデュポンなど多くの園芸家を支援し、より美しいバラづくりに打ち込ませたという。

これらの費用は、一説によると国家財政の三分の一にのぼる負債を残したともいわれるが、ナポレオンがやった戦争ほどお金がかかるものはないので、一説とするが、かなりのものをバラのために使ったことは間違いない。

マリーアントワネットは1793年に断頭台に消えていったが、無聊を慰める庭造り・バラの収集は、マリーアントワネットから引き継いだのだろう。
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バラの野生種:オールドローズの系譜⑨ 同時代。江戸の園芸とバラ

2008-12-11 10:05:21 | バラ

バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?

江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸の水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。

家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だったようだ
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)

貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。

ツンベルク、リンネの頃は、自由に江戸を歩くことが出来なかったが、幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。

また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ描き植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらう。

江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。

珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』 (1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)


出典:国会図書館『草木錦葉集』

斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は、斑入りを持ち帰った。
日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がる。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受けたどこか浮世離れしていたのだろう。

喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。

ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描かれた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。

万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。

「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」

“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。

バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)『薔薇二曲』という詩がある。

薔薇ノ木ニ
    薔薇ノ花サク。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。

    二
    薔薇ノ花。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
    照リ極マレバ木ヨリコボルル。
    光リコボルル。

このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。

(オールド・ローズの系譜=完=)
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バラの野生種:オールドローズの系譜⑧ 日本からのバラ

2008-12-09 10:18:59 | バラ

モダンローズの親となった日本のバラ
400万年前の鮮新世期のノイバラの化石が兵庫県明石で出土し、
日本でも、バラの野生種が人類よりも早くから自生していたという。

日本には14種の野生種があり、ノイバラRose multiflora Thunberg、テリハノイバラR.wichuraiana、ヤマイバラ、タカネイバラ、サンショウバラR.hirtula Nakai、ナニワイバラR.laevigata、ハマナスR.rugosa Thunbergなどがある。

このうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの3種がヨーロッパに渡り、現代のバラの親として品種改良に使われた。

そのヨーロッパへの伝播についてみると、伝播の時期・ルートなど不明なことが多い。このようなことを前提として、
最も早くヨーロッパに入ったのはハマナスのようで、日本に来たリンネの弟子にあたるツンベルグがヨーロッパに存在を紹介したのは1784年で彼の著書『フローラ・ヤポニカ』で、“ローサ・ルゴサ(Rosa.rugosa)”と命名された。

このハマナスは、1796年にはロンドンの「リー&ケネディ商会」で栽培されており、何処から入ったかは不明だ。
「リー&ケネディ商会」は、この当時のヨーロッパ育種業界No1の企業であり、海外からの仕入ルートがあった。仕入れルートは秘密で明らかにならないが、中国か日本に滞在している外交官或いは植物学者或いはマッソンのようなどこかのお抱えプラントハンターから内密で手に入れたのだろう。

しかし、同時期に中国から四季咲きのコウシンバラがヨーロッパに入り、注目がこちらに移った影響なのか、「リー&ケネディ商会」のハマナスはここで立ち消えになる。
ヨーロッパへの再登場は1845年で、シーボルトが日本から輸入して販売カタログに掲載している。

さらにしかしだが、ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にはハマナスがあった。これはルドゥーテの『バラ図譜』5番目の絵として確認できるので間違いはないだろう。『バラ図譜』(1817-1824)の出版時期と兼ねあわせると、シーボルトが輸入した物ではないことは間違いない。

このハマナスは、日本での原産地が寒冷地であるため、耐寒性が強く寒冷地でのハイブリッド・ローズの品質改良に生かされることとなる。

ノイバラ、テリハノイバラに関しては、カタログを参照していただきたいが、ワンポイントコメントすると、

ノイバラがヨーロッパに伝わるのは、1810年でフランスに紹介される。これが、ポリアンサ・ローズの親の一つとなり、フロリバンダ・ローズや現代のミニチュア・ローズを生んでいく。
ポリアンサ・ローズ、フロリバンダ・ローズなどに関しては、プレモダン・ローズで書く予定。

テリハノイバラは、1891年にフランス・アメリカに導入され、品種改良の基本種として利用される。また、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。

ハマナス
Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ

※ビジュアルは、Rosa Rugosa Kamtchatica( Kamchatka Rose)

・和名:ハマナス
・学名:Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
・英名:英名:Japanese Rose
・日本原産で、花色は深い紅紫色で雄しべの黄色が目立つ美しい花。花径6-10cm、強い芳香がある。
・太平洋側は茨城県以北、日本海側は鳥取県以北の海岸線の砂地に自生する。
・種小名のルゴサは、しわのある葉を持ったバラという意味。
・耐寒性が強く、この特質を現代のバラに取り込み寒冷地でも栽培できるバラが誕生する。
・1845年にシーボルトがヨーロッパに輸入したのは間違いないが、これ以前にイギリスに入る。
(参考サイト) 「あんたがたルゴサ」

ノイバラ
Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ

※ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)

・和名:ノイバラ
・学名:Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
・英名Mulltiflora Japonica 
・花は白色、
・花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。房咲き性は、ノイバラが現代のバラに伝えた特質。
・香りよい。
・耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
・1810年ヨーロッパに伝わる。
※ルドゥーテの『バラ図譜』ではノイバラ2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1810年以前にヨーロッパに伝わっていた可能性がある。
実際のノイバラ :(参照:リンク:ボタニックガーデン)

テリハノイバラ
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ

※写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/

・和名:テリハノイバラ
・学名:Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
・英名:Memorial Roseメモリアルローズ
・日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・雄しべは黄色で数が多い。
・甘い香りがする。
・花は円錐花序で10数個つく。
・茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・1891年フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
・ランブラー・ローズの系統をつくる。

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑦ 中国からのバラ

2008-12-08 09:09:41 | バラ
中国から入ってきたバラ
中国のバラの歴史は古く、周の時代(BC1066-BC256)に、
しょうび(穪靡)きんとう(釁冬)などの文字が見られる。
これは、バラに当てられた最初の文字という。
そのためでもあるが、文字変換は探すので大変目を酷使した。また、有意性の漢字は教養というハードルがあるのでこれは頭を空回りさせられた。

中国原産のバラがヨーロッパにもたらされたのは、大航海時代以降の1500年代の中頃からといわれる。オランダ、イギリスに入りそれからフランス(マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園など)に渡った。

ヨーロッパでの品種改良で重要な役割を果した主要なバラの道筋をたどってみると次のようになる。(年号など諸説あるので併記した。)

1.コウシンバラの命名
英名:クリムゾン・チャイナ(Crimson China)
中国名:月季花
学名:Rosa chinensis Jacquin(1768) ロサ・キネンシス
1733年、オランダ・ライデン植物園の植物収集家が中国の四川州(あるいは雲南州)で濃紅色のバラを発見し、本国に持ち帰り植物園の園長であるニコラス・ジャカン(Nicolaus Joseph von Jacquin)に同定を依頼した。ジャカンはこれを“中国の原種のバラ”であるとして、Rosa chinensis Jacquin と命名した。
当初は花色から「クリムゾン・チャイナ」と呼ばれた。
命名者ジャカンは、オランダ生まれでオーストリアに移住した植物学者。リンネと仲良しで、オキザリス・パーシーカラーにて紹介した。

2.1759年コウシンバラヨーロッパに入る
英名:ピンク・チャイナ
学名:Rosa indica.Linnaeus  ロサ・インディカ
1759年、リンネの弟子ペーター・オスベック(Peter Osbeck) が広東の税関の庭で発見し中国から持ち帰ったバラ。花色から「ピンク・チャイナ」と呼ばれた。
リンネは「クリムソン・チャイナ」とは別種と考え Rosa indica の学名を与えたが、現在では ジャカンが命名したR. chinensis と同種と考えられている。


中国原産の四季咲き性のバラがヨーロッパに入ってきたのは、1789年(1792年という説もある)で、引き続いて重要な3品種も入ってくる。

3.1789年、赤いバラの基本種が入る英名:スレイターズ・クリムゾン・チャイナ(Slater's Crimson China)
学名:Rosa chinensis 'Semperflorens') 1789(1792)
1789年ヨーロッパに紅色花で四季咲き性のコウシンバラが入る。この品種は、古い時代に中国にて育種されたものとみなされている。
伝来のルートは、インド・カルカッタにあった東インド会社の庭からイングランドのノット・ガーデンで庭園師をしていたギルバート・スレイター(Gilbert Slater)の元へ持ち込まれた。
スレイターは、2年目に深紅色の花を咲かせることに成功し、1792年(一説には1789年)に公表した。このバラは、彼の名を採りスレイターズ・クリムゾン・チャイナと呼ばれる。
この品種が入るまでのヨーロッパでは、ガリカなどの赤いバラは、ディープ・ピンクあるいはバイオレットの入った色合いだったが、この品種を交配親として鮮やかな赤の品種が出現することになる。
日本では東インド会社のあったカルカッタが所在する地方名にちなみベンガル・ローズと呼ばれる。
(画像リンク) Slater's Crimson China
http://www.rdrop.com/~paul/chinas/slaters.html

4.1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が入る
英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)
中国名:桃色香月季
学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、イングランドのパーソン(Parsons)の庭にあったチャイナ・ローズで、伝来のルートはよくわからない。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。
(画像リンク) Parsons' Pink China
http://www.rdrop.com/~paul/chinas/oldblush.html

5.1809年、ハイブリッド・ティーの親となるロサ・オドラータがイギリスに導入
英名:ヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)
中国名:赤色香月季
学名:Rosa × odrata) 1810
1809年にイングランドのヒューム卿(Sir Hume, A. Bart)により紹介されたバラで、中国原種のコウシンバラとロサ・ギガンテア(Rosa gigantea)との交配により生み出された自然交雑種だと見なされている。
淡いピンク色の花、紅茶のような特徴的な香り、大株となるつる性の木立から、ヒューム卿の名を採りヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナと呼ばれる。
この品種は、後にノワゼット、ブルボンなど、他の品種群との交配により、ティー・ローズの源流となり、さらに、ハイブリッド・パーペチュアルを経て、ハイブリッド・ティーへと発展する。
(画像リンク) Hume's Blush Tea-scented Chinahttp://www.rose-roses.com/rosepages/ogrs/RosaXOdorata.html

6.1824年、イエローローズの基本種が入る
英名:パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)
中国名:黄色香月季
学名:Rosa × odorata ochroleuca(1824)
イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper Parks)は中国の広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。 
この大輪で、芳香のある黄色のバラは後にパークス・イエロー・ティ・センティド・ャイナと呼ばれるようになった。 1825年にはパリに送られるなどし、その後のハイブリッド・ティの作出に多大な貢献をすることとなった。
特に、ペルシャン・イエローからのイエローの花色を取り入れるまでの間、イエロー・ローズの元となった品種です。
(画像リンク) Parks' Yellow Tea-scented China
http://www.ausgarden.com/parks-yellow-tea

ジョゼフィーヌが世界の植物を仕入れたのは、18世紀ヨーロッパNo1の栽培業者『リー&ケネディ商会』からであり、これはジョゼフィーヌのシリーズで紹介したが、プラントハンター・育種園が世界の植物を収集・育成し園芸が広まっていく時期に、中国の原種が“四季咲き性”“花の色(紅赤・黄色)”“香り(ティー)”という特徴を持って入ってきた。
日本の原種が入ってきて現在のバラの親たちが出揃うことになる。
中国、日本ともバラは重視されなかった。キクが珍重されたからというのも一因あるだろうが、棘だけでなく香りにも要因があったのだろうか?

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑥ イスラムから伝わったバラ

2008-12-04 01:24:16 | バラ

イスラムから伝わったバラ
ゲルマン人が破壊した古代ギリシャ・ローマの文化・文明は、イスラム圏に受け継がれ
ヨーロッパに再移入する。
バラも例外ではなかった。

オーストリアン・ブライアーの流れ==イスラム圏の勢力拡大による
8世紀小アジア原産の黄色いバラと花弁の表面がオレンジ色で裏面が濃い黄色のバラがアフリカ北部沿いにイスラムの勢力拡大に伴ってスペインに伝わった。

もう一つの経路が、オーストリアにも同じものが伝わり普及した。

黄色いバラをオーストリアン・ブライアー・ローズ(Austrian Brier Rose)或いは、
オーストリアン・イエローローズ(Austrian Yellow Rose)と呼び、
オレンジと黄色のバラをオーストリアン・カッパー・ローズ(Austrian Copper Rose)という。

(写真)オーストリアン・ブライアー・ローズ

出典:
http://www.ashdownroses.com/index.asp?PageAction=VIEWPROD&ProdID=1231

この花の特色は、花色が濃黄色で、花径5-6cm、花弁が5枚で、香りが臭いほど強い。
学名をローザ・フェティーダ(Rosa foetida Herrmann)という。
オールドローズの系譜④に掲載

このバラは、古代ギリシャから栽培されていた品種であり、
イスラムによってイベリア半島まで運ばれていき、
オーストリアには1542年頃までには伝わっていたという。
イギリス・オランダには、16世紀の終わりにオーストリアから入ったので
オーストリアン・ブライアーと呼ばれる。

そしてこの種の中で、ハイブリッド・ティーの黄色の親となったのは、
1837年頃ペルシャからヨーロッパに伝わった
ロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana(Lemaire)Rehder)だ。

(写真)ペルシアン・イエロー・ローズ

出典:
http://www.hevosmaailma.net/Sirpa/Kasvisivut/persiankeltaruusu.shtml

英名がペルシアン・イエロー・ローズ(Persian Yellow Rose)、濃い黄色、花径5-6cm、
花弁数60-80+20枚で、花の中心が4個ぐらいに分かれる。
この、ペルシャ原産の黄色いバラは、ヨーロッパに紹介されて話題を呼んだ。

日本にも来たドイツ人医師のケンペル(1651-1716)は、日本に来る前にペルシャによっているが
そのケンペルが書いた『廻国奇観』(1712)の中で、古都ペルセポリスには広大なバラ園があり、
ペルシャ南西部の高地シラズではバラの花を蒸留して精油を採っていたことが書かれている。
ヨーロッパでは1801年のジョゼフィーヌからバラ園がはじまるので、
イスラム圏のバラ栽培の成熟さが垣間見られる。

フレンチ・ローズの流れ==十字軍の遠征がはじまり
11世紀から始まった十字軍の遠征は、イスラムの文化と文明を中世ヨーロッパにもたらすこととなる。

フランスのシャンパニュー伯ティーボルト4世が十字軍の遠征の帰路に、パレスチナからロサ・ガリカを持ち帰る。
近縁種との自然交配などで濃い赤色の品種が出来上がり、フレンチ・ローズという系統が出来上がる。
フレンチ・ローズは、濃い赤色のバラの祖先とも言われる。

十字軍の遠征は、イスラム文化をヨーロッパにもたらしたが、このときにバラの鑑賞も再輸入したようだ。
この結果、13世紀以降の聖堂のステンドグラスにはバラ窓が作られるようになり、
14世紀のマリア賛歌にはバラが歌いこまれる。
聖母マリアをバラで飾るようになったのもこのころからで、ルネッサンス以降の絵画には
バラの絵が増える。

ばら戦争
イギリスには野生のバラがあるが、ローマ帝国の属州になったAC1世紀ごろローマのバラが伝わり、
プランタジャネット朝(1154-1399)のエドワード1世(1239-1307)の時に
王室の紋章として金色のバラが採用される。

プランタジャネット朝は後にヨーク家(白バラ)とランカスター家(赤バラ)に分かれ、王位継承権で争う。
これがばら戦争(1455-1485)である。

ヨーク家の白バラの由来
ヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローザ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。
1236年イギリスのヘンリー三世(1207-1272)がプロバンスのエレアノルと結婚した。
彼女はこの時既に白バラを自分の紋章としていた。
息子のエドワード一世(1239-1307)は、これを受け継ぎこの花を国璽(こくじ)に取り入れた。

ランカスター家の赤バラの由来
ランカスター家の紅バラは、エドワードの弟エドモンドの紋章で、最初のランカスター伯となった。
1277年頃シャンパニューで反乱が起きたとき
この地を結婚持参金として手に入れていたヘンリー三世が息子のエドモンドを派遣し反乱を鎮めた。
エドモンドはフランスで3~4年過しイギリスに戻る時紅バラを持ち帰った。
エドモンドはこの花を自慢にし、兄の白バラよりもはるかに素晴らしいと思いこれを自分の紋章とした。

イギリス王室の紋章の由来
ばら戦争は彼ら兄弟の子孫が争うことになるが、
紅バラのランカスター家ヘンリー7世の勝利で終わり、ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスを妻とし、
チュードル・ローズと呼ばれる白バラの中に赤バラを納めたものを紋章とし、
これがイギリス王家の紋章となった。

バラ戦争(1455-1485)は、
30年もの長きにわたる骨肉の争いとなる無益な戦争を続け10万人もの命をなくしたというが、
バラの刺で流した血ではなく、人間の“憎しみ”という心の刺と、
それぞれの属する集団・組織の果てしない欲望がもたらしたもののようだ。

余談 ばら戦争から学ぶ現在の状況
トップのドライバーがハンドルから手を離すと、マシーンはコントロール不能となり暴走する。
ばら戦争もこんな状況でおきたもののようだ。そしてばら戦争は、いまの世相にこんな標語を残す。
『飲むなら乗るな。運転出来ないならなおさら乗るな。』
民の信任を受けない無免許のトップは、酔っ払い運転と同じということだろうか・・・・

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑤

2008-12-02 10:14:11 | バラ
モダンローズの祖先: カタログその3 (Final) 

前回は、モダンローズの祖先としての基本種を
その1では、3品種(R.ガリカ、R.ダマスケナ、R.アルバ)
その2では4品種(R. ケンティフォーリア、R. フェティダ、中国のコウシンバラ、日本のノイバラ)を紹介した。

最後は、日本原産のテリハノイバラだが、
残念ながらルドゥーテ『バラ図譜』には影も形も見当たらない。

鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)では、モダンローズの親を8種としているが、
もう1種を追加しておきたい。それは、ムスク系ローズの親となる“ロサ・モスカータ”で、
野生種が発見されていないという不思議さがある。

江戸時代末期の日本の園芸環境は、世界一といってよいほど庶民にまで植物を生活に取り込んで
愉しむということが出来ていたようだ。
しかし、自然に手を加え人工的に加工するという発想がなかった日本では、
人為的な交配で種を開発するというアクションが弱かったことは否めない。

1800年代前半のジョゼフィーヌのマルメゾン庭園は、「素晴らしい」発想を持っていた。
といえるだろう。

8.テリハノイバラ(日本)
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ


※写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/

・和名テリハノイバラ、英名Memorial Roseメモリアルローズ
・日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・雄しべは黄色で数が多い。
・甘い香りがする。
・花は円錐花序で10数個つく。
・茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・19世紀フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る

9.ロサ・モスカータ(中国)
Rosa moschata Herrmann ロサ・モスカータ

※ビジュアルは、Rosa Moschata

・中国南西部、ヒマラヤ原産といわれる。
・花は純白色、花径3-5cm、花弁数5枚、一日花
・うめ、サクラに似た花形
・四季咲き性
・香りはムスク系で濃厚
・つる性で2m。グランドカバーとして利用される。
・優れたにおいと遅い開花という特色があり、ハイブリッド・ムスクの園芸種の親
※野生種は発見されていずミステリアスなバラだが、16世紀の文献に記録されている。

参考・出典
・鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)
・ジョゼフィーヌのバラを描いたというルドゥーテ『バラ図譜』(1817-1824)
出典 http://www.cstone.net/people/hughest/index.html
・テリハノイバラ
写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/

(オールドローズの祖先8+1カタログー完ー)

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