モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

レモン・バーベナ(Aloysia citrodora)の花

2016-09-09 13:46:38 | その他のハーブ
(写真)レモンバーベナの花


3枚の明るい緑色の細長い葉が輪生し、その付け根から花序を伸ばし白い小さな花が咲く。
レモンバーベナとして知られているが、学名はアロイジア・キトルドーラ(Aloysia citrodora)で、開花期は8~9月の夏場というのが一般的だが我が庭ではこれよりも1ヶ月早く7~8月に咲いた。

葉は細長い披針形の形をし、レモンバーベナという名のごとくレモンの香りがする。この葉でハーブティ、料理などに活用するそうだが、コーヒーと酒以外の飲み物には興味がないので今だ利用経験がない。

原産地は南米のペルー、チリ、アルゼンチンで、この地の征服者スペイン人が17世紀にスペインに持ち込んだそうだが、学名をアロイジア・キトルドーラ(Aloysia citrodora)と命名したのが1784年で、命名者はマドリッド王立植物園の植物学者パラウ(Paláu y Verdera, Antonio (1734-1793)及びその同僚で初代マドリッド植物園の教授オルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)だった。だが、1世紀も遅れて命名されたのはなぜだろうか? という疑問がわいた。

前述のオルテガは、スペイン王カルロス3世(Carlos III, 1716-1788)が実施した三つの王立探検隊、①王立植物探検隊ペルー&チリ(1777-1788、Hipólito Ruiz & José Antonio Pavón)、 ②フィリピン探検隊(1786-1801、Juan Cuéllar)、 ③王立植物探検隊ニューイスパニア(メキシコ)(1787-1803、Martín Sessé & José Mariano Mociño)のオーガナイザーとして活躍した人物であり、それぞれの探検隊が採取した新世界の植物などはスペイン本国のオルテガ(マドリッド植物園)に送られ、評価される仕組みになっていた。レモンバーベナの学名を命名した時期は丁度ペルー&チリ探検隊の時期と重なり、この探検隊が本国に送ったもので命名されたのかというとそうでもなかった。

レモンバーベナ発見の歴史
このレモンバーベナに最初に気がついたヨーロッパの植物学者は、フランスのフィリベール・コメルソン(Philibert Commerson 1727 –1773)だった。
(写真)Philibert Commerson

彼は、ブーゲンビル(Louis-Antoine, Comte de Bougainville 1729 –1811)をリーダーとした世界一周航海(1766-1769)に植物学者として参加し、1767年頃ブエノスアイレスでレモンバームを採取し、Verbena triphyllaと命名した。
しかし、これを出版などで公表していればこの学名が採用されることになるが、これが明確でなかったので1784年に発表したスペインの植物学者パラウ(Paláu y Verdera, Antonio (1734-1793)のアロイジア・キトルドーラ(Aloysia citrodora)が採用された。

コメルソンは、この探検旅行で寄港するたびに植物採取を行い、約3000種の新種を発見した。その中でもよく知られているのは日本でも夏の花として人気があるブーゲンビリアで、この花をヨーロッパ人で最初に採取したのがコメルソンで、1767年7月、ブラジル、リオデジャネイロで採取した。
採取したブーゲンビリアの学名はBougainvillea spectabilis Willd.で、1799年にドイツの植物学者Willdenow, Carl Ludwig von(1765‐1812)が命名する。
属名Bougainvilleaは、フランスの大植物学者ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu 1748‐1836)が1789年にフランス初の世界一周航海の隊長ブーゲンビル(Louis-Antoine, Comte de Bougainville 1729 –1811)にちなんで命名した。

コメルソンとブーゲンビル探検隊
ルイ15世がブーゲンビルに命じたフランスで初めての世界一周航海は、フランスの威信を高めるという単純な目的ではなく経済的な幾つかの目的があった。新世界への進出が遅れていたフランスとしての利権獲得であり、具体的には中国に至る新しい航路の開拓、フランス東インド会社の植民地経営の強化に役立つものの発見・開拓・略奪、及びオランダが握っていたコショウ等のスパイスの新産地開拓などであった。1766年11月にナント港を出航し、1769年3月にフランスに帰還しているので約2年4ヶ月の航海だった。
レモンバーベナを発見したコメルソンは、この航海にナチュラリストとして乗り込み、病弱な彼を助ける看護士兼従者兼植物採取標本作りの助手としてジャンヌ・バレット(Jeanne Baret 1740-1807)を雇い搭乗した。


(写真)水兵服を着たジャンヌ・バレット

(出典)ウィキペディア

このジャンヌ・バレットが後に世界一周航海をした初めての女性として有名になるが、この当時は大変なことだった。
何が大変かというとフランス海軍の船乗りに女性がなれないという国王の掟を破るので男装して乗り込まなければならないし、男として航海中生活しなければならない。胸にリンネルの布を巻き女性に飢えている船乗りの中で暮らすので安眠できなかったのではないだろうか?

このジャンヌ・バレットはコメルソンと出会う前までに植物の実践的な勉強をしていたのでハーブには詳しかったようだ。これが評価されたのか家政婦となり、愛人となり、世界一周航海の助手となりコメルソンが病死するまで一緒にいたので事実上の生涯の伴侶でもあった。
航海中は、病弱なコメルソンに代わり寄港地で植物採取と標本作りをしたのは彼女であり、リオデジャネイロでレモンバーベナ、ブーゲンビリアを採取したのはどうも彼女のようだ。
しかし航海の初期から“女”という噂が立ち、本人は“去勢された男”と称していたが、南太平洋のニューアイランド島で乗組員達に強姦された。この状態は放置できないのでブーゲンビルは、コメルソン、ジャンヌ・バレットを旧名フランス島(現在のフランス名モーリス島、モーリシャス諸島)で下船させた。

歴史的にはモーリス島の植民地監督官ピエール・ポワブル (Pierre Poivre)と出会い、胡椒の栽培種を探すためにフィリピンや東南アジアの探検にピエール・ソネラ (Pierre Sonnerat) とともに参加したとあるが、ジャンヌ・バレットと生まれてきた子供のためにブーゲンビル探検隊から離脱したのであろう。
コメルソンは、1773年にマダガスカル島で植物研究を行った後、モーリシャスで46歳で没した。
ジャンヌ・バレットは、コメルソンの死後、島の居酒屋で働きモーリス島に寄航したフランス海軍の兵士と結婚し1775年頃にフランスに帰国した。ブーゲンビル探検隊が帰国したのが1769年なので、5~6年遅れて世界一周をしたことになる。

ジャンヌ・バレットのその後で感動することは大事なヒトを守る意思であったり評価で、コメルソンの遺言で彼の遺産が渡され、ブーゲンビルのおかげで世界一周航海での植物採取等への貢献で年金がもらえたそうだ。女性と分かった後での評価なので結構大変だったろうと思ってしまう。

宇宙を飛行した人間が545人(2015年12月現在)いるそうだが、その中で女性は59人もいて1割を超える。ジャンヌ・バレットは今の時代で言えばこの女性初の宇宙飛行士と同じような前人未到の領域を渡ったヒトだが、日常生活の延長で達成した感がある。

レモンバーベナには違った物語もあるが、どこかで書くことがあるだろうと思い割愛した。

(写真)レモンバーベナの花と葉


レモンベーベナ(Aloysia citrodora)
・クマツヅラ科イワダレソウ属の半耐寒性の落葉低木。
・原産地は南米のアルゼンチン、チリ、ペルー。
・学名は、アロイジア・キトルドーラ=Aloysia citrodora Palau, (1784). 英名はレモン・バーベナ(Lemon Verbena)、和名はコウスイボク(香水木)ボウシュウボク(防臭木)。
・命名者はスペイン、マドリッド植物園の植物学者でリンネの二名法をスペインで推進したパラウ(Paláu y Verdera, Antonio (1734-1793)。種小名の‘citrodora’(シトロドーラ)は‘レモンの香り’がするを意味し、属名の‘Aloysia’はスペインの国王カルロス4世の妻でパルマの領主Maria Luisa(1751-1819)にささげてパラウが名付けたという。何処がというところが良く分からなかったが‘Luisa’のラテン語化したのが‘Aloysia’という。
・原産地では樹高1~3mまで成長するが関東エリアでは1m程度。2年目以降は春の生育期に枝を剪定し横に広がるのを抑えると良い。
・細長い槍状の葉からはレモンの香りがし、本物のレモンが利用されるまでは、料理から美容・化粧などあらゆるところでレモンの香りが利用された。
・開花期は、夏場8~9月に小さな白い花が咲く。
・アルカリ性の乾燥した土壌を好むので乾燥したら水やりする。

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