(1)イスラムから伝わったバラ
ゲルマン人が破壊した古代ギリシャ・ローマの文化・文明は、イスラム圏に受け継がれヨーロッパに再流入する。バラも例外ではなかった。
オーストリアン・ブライアーの流れ==イスラム圏の勢力拡大による
8世紀小アジア原産の黄色いバラと花弁の表面がオレンジ色で裏面が濃い黄色のバラがアフリカ北部沿いにイスラムの勢力拡大に伴ってスペインに伝わった。
もう一つの経路が、オーストリアにも同じものが伝わり普及した。
黄色いバラをオーストリアン・ブライアー・ローズ(Austrian Brier Rose) 或いは、 オーストリアン・イエローローズ(Austrian Yellow Rose)と呼び、
オレンジと黄色のバラを オーストリアン・カッパー・ローズ(Austrian Copper Rose)という。
(写真)オーストリアン・カッパー・ローズ
(出典)conservationgardenpark
(写真)オーストリアン・ブライアー・ローズ
出典:Wikipedia
この花の特色は、花色が濃黄色で、花径5-6cm、花弁が5枚で、香りが臭いほど強い。
学名をローザ・フェティーダ(Rosa foetida Herrmann)と言い、種小名の“foetida”はラテン語で“臭い”を意味する。
また、古代ギリシャから栽培されていた品種であり、イスラムによってイベリア半島まで運ばれていき、オーストリアには1542年頃までには伝わっていたという。
イギリス・オランダには、16世紀の終わりにオーストリアから入ったので、オーストリアン・ブライアーと呼ばれる。
そしてこの種の中で、ハイブリッド・ティーの黄色の親となったのは、1837年頃ペルシャからヨーロッパに伝わったロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana(Lemaire)Rehder)だった。
(写真)ロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana)
英名がペルシアン・イエロー・ローズ(Persian Yellow Rose)、
濃い黄色、花径5-6cm、花弁数60-80+20枚で、花の中心が4個ぐらいに分かれる。
この、ペルシャ原産の黄色いバラは、英国のウィルロック、ヘンリー卿(Sir Henry Willock)が1837年に発見しヨーロッパに紹介されて話題を呼んだ。
日本にも来たドイツ人医師のケンペル(1651-1716)は、日本に来る前にペルシャに寄っているが、
そのケンペルが書いた『廻国奇観』(1712)の中で、古都ペルセポリスには広大なバラ園があり、ペルシャ南西部の高地シラズではバラの花を蒸留して精油を採っていたことが書かれている。
ヨーロッパでは1801年のジョゼフィーヌからバラ園がはじまるので、イスラム圏のバラ栽培の成熟さが垣間見られる。
フレンチ・ローズの出自==十字軍の遠征がはじまり
11世紀から始まった十字軍の遠征は、イスラムの文化・文明を中世ヨーロッパにもたらすこととなる。
フランスのシャンパニュー伯ティーボルト4世が十字軍の遠征の帰路に、パレスチナからロサ・ガリカを持ち帰る。
近縁種との自然交配などで濃い赤色の品種が出来上がり、フレンチ・ローズという系統が出来上がる。
フレンチ・ローズは、濃い赤色のバラの祖先とも言われる。
十字軍の遠征は、イスラム文化をヨーロッパにもたらしたが、このときにバラの鑑賞も再輸入したようだ。
この結果、13世紀以降の聖堂のステンドグラスにはバラ窓が作られるようになり、14世紀のマリア賛歌にはバラが歌いこまれる。
聖母マリアをバラで飾るようになったのもこのころからで、ルネッサンス以降の絵画にはバラの絵が増える。
ばら戦争
イギリスには野生のバラがあるが、ローマ帝国の属州になった紀元1世紀ごろローマのバラが伝わり、プランタジャネット朝(1154-1399)のエドワード1世(1239-1307)の時に王室の紋章として金色のバラが採用される。
プランタジャネット朝は後にヨーク家(白バラ)とランカスター家(赤バラ)に分かれ、王位継承権で争う。
これがばら戦争(1455-1485)である。
ヨーク家の白バラの由来
ヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローザ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。
1236年イギリスのヘンリー三世(1207-1272)がプロバンスのエレアノルと結婚した。
彼女はこの時既に白バラを自分の紋章としていた。息子のエドワード一世(1239-1307)は、これを受け継ぎこの花を国璽(こくじ)に取り入れた。
ランカスター家の赤バラの由来
ランカスター家の紅バラは、エドワードの弟エドモンドの紋章で、最初のランカスター伯となった。
1277年頃シャンパニューで反乱が起きたとき、この地を結婚持参金として手に入れていたヘンリー三世が息子のエドモンドを派遣し反乱を鎮めた。
エドモンドはフランスで3~4年過しイギリスに戻る時紅バラを持ち帰った。エドモンドはこの花を自慢にし、兄の白バラよりもはるかに素晴らしいと思いこれを自分の紋章とした。
イギリス王室の紋章の由来
ばら戦争は彼ら兄弟の子孫が争うことになるが、紅バラのランカスター家ヘンリー7世の勝利で終わり、ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスを妻とし、チュードル・ローズと呼ばれる白バラの中に赤バラを納めたものを紋章とし、これがイギリス王家の紋章となった。
バラ戦争(1455-1485)は、30年もの長きにわたる骨肉の争いとなる無益な戦争を続け10万人もの命をなくしたというが、
バラの刺で流した血ではなく、人間の“憎しみ”という心の刺と、それぞれの属する集団・組織の果てしない欲望がもたらしたもののようだ。
余談 ばら戦争から学ぶ現在の状況
トップのドライバーがハンドルから手を離すと、マシーンはコントロール不能となり暴走する。
ばら戦争もこんな状況でおきたもののようだ。そしてばら戦争は、いまの世相にこんな標語を残す。
『飲むなら乗るな。運転出来ないならなおさら乗るな。』
民の信任を受けない無免許のトップは、酔っ払い運転と同じということだろうか・・・・
(2) 中国から伝わったバラ
中国のバラの歴史は古く、周の時代(BC1066-BC256)に、“しょうび(穪靡)”“きんとう(釁冬)”などの文字が見られる。
これは、バラに当てられた最初の文字という。
中国原産のバラがヨーロッパにもたらされたのは、大航海時代以降の1500年代の中頃からといわれる。
オランダ、イギリスに入りそれからフランス(マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園など)に渡った。
ヨーロッパでの品種改良で重要な役割を果した主要なバラの道筋をたどってみると次のようになる。(年号など諸説あるので併記した。)
1.中国から伝わった“コウシンバラ”の命名
英名:クリムゾン・チャイナ(Crimson China)
中国名:月季花
学名:Rosa chinensis Jacquin(1768) ロサ・キネンシス
1733年、オランダ・ライデン植物園の植物収集家 グロノビウス(Gronovius、Johan Frederik 1686-1762)が中国の四川州(あるいは雲南州)の濃紅色のバラの標本を入手し、植物園の園長であるニコラス・ジャカン(Jacquin, Nicolaus Joseph von 1727-1817)に同定を依頼した。
ジャカンはこれを“中国の原種のバラ”であるとして、1768年にRosa chinensis Jacquin と命名した。
当初は花色から「クリムゾン・チャイナ」と呼ばれた。
命名者のジャカンは、オランダ生まれでマリーアントワネットの母、オーストリア皇后のマリアテレジアから招聘を受け、オーストリアに移住した植物学者で、リンネと仲良しであり、彼の自宅でモーツアルトのピアノ演奏会がなされたともいう。
2.1759年コウシンバラヨーロッパに入る
英名:ピンク・チャイナ
学名:Rosa indica.Linnaeus ロサ・インディカ
1751年、リンネの弟子ペール・オスベック(Pehr Osbeck 1723-1805) が広東の税関の庭で発見し中国から持ち帰ったバラ。花色から「ピンク・チャイナ」と呼ばれた。
リンネは「クリムソン・チャイナ」とは別種と考え Rosa indica の学名を与えたが、現在では Rosa chinensis と同種と考えられている。
中国原産の四季咲き性のバラがヨーロッパに入ってきたのは、1789年(1792年という説もある)で、引き続いて重要な3品種も入ってくる。
3.1789年、赤いバラの基本種が入る
英名:スレイターズ・クリムゾン・チャイナ(Slater's Crimson China)
学名:Rosa chinensis 'Semperflorens') 1789(1792)
1789年ヨーロッパに紅色花で四季咲き性のコウシンバラが入る。この品種は、古い時代に中国にて育種されたものとみなされている。
伝来のルートは、インド・カルカッタにあった東インド会社の庭からイングランドのノット・ガーデンで庭師をしていたギルバート・スレイター(Gilbert Slater)の元へ持ち込まれた。
スレイターは、2年目に深紅色の花を咲かせることに成功し、1792年(一説には1789年)に公表した。このバラは、彼の名を採りスレイターズ・クリムゾン・チャイナと呼ばれる。
この品種が入るまでのヨーロッパでは、ガリカなどの赤いバラは、ディープ・ピンクあるいはバイオレットの入った色合いだったが、この品種を交配親として鮮やかな赤の品種が出現することになる。
日本では東インド会社のあったカルカッタが所在する地方名にちなみベンガル・ローズと呼ばれる。
4.1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が入る
英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)
中国名:桃色香月季
学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
(写真)Parsons' Pink China
(出典)helpmefind.com
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、
イングランドのパーソン(John Parsons 1722-1798)の庭にあったチャイナ・ローズで、
伝来のルートはよくわからないが、1792年に中国に派遣されたマカトニー(Sir Macartney)使節団の一員であったジョージ・スタウントン(Sir George Staunton)によってカントンの近くで採取されたようだ。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。
5.1809年、ハイブリッド・ティーの親となるロサ・オドラータがイギリスに入る
英名:ヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)
中国名:赤色香月季
学名:Rosa × odrata (1810)
(写真)Hume's Blush Tea-scented China
中国・広東の東インド会社のお茶の検査官ジョン・リーブス(John Reeves 1778-1856)は、1808年に広東郊外のナーサリーから手に入れたバラなどの植物を、イングランドのヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749 -1838) に送った。
この中のバラで、1809年にフューム卿より紹介されたバラがヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と名付けられた。
中国原種のコウシンバラとロサ・ギガンテア(Rosa gigantea)との交配により生み出された自然交雑種だと見なされている。
淡いピンク色の花、紅茶のような特徴的な香り、大株となるつる性の木立から、ヒューム卿の名を採りヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナと呼ばれる。
この品種は、後にノワゼット、ブルボンなど、他の品種群との交配により、ティー・ローズの源流となり、さらに、ハイブリッド・パーペチュアルを経て、ハイブリッド・ティーへと発展する。
6.1824年、イエローローズの基本種が入る
英名:パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)
中国名:黄色香月季
学名:Rosa × odorata ochroleuca(1824)
(写真)パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ
(出典) 姫野ばら園 八ヶ岳農場
イギリス王立園芸協会から中国に派遣されたプラントハンター、パークス(John Damper Parks:1792-1866)は、広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手し1824年にロンドン園芸協会に送った。
この大輪で、芳香のある黄色のバラは後にパークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナと呼ばれるようになった。 1825年にはパリに送られるなどし、その後のハイブリッド・ティの作出に多大な貢献をすることとなった。
特に、ペルシャン・イエローからのイエローの花色を取り入れるまでの間、イエロー・ローズの元となった品種だ。
ジョゼフィーヌが世界の植物を仕入れたのは、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者リー&ケネディ商会からであり、これはジョゼフィーヌのシリーズで紹介したが、プラントハンター・育種園が世界の植物を収集・育成し園芸が広まっていく時期に、中国の原種が “四季咲き性” “花の色(紅赤・黄色)” “香り(ティー)” という特徴を持って入ってきた。
さらに、日本の原種が入ってきて現在のバラの親たちが出揃うことになる。
中国、日本ともバラは重視されなかった。キクが珍重されたからというのも一因あるだろうが、棘だけでなく香りにも要因があったのだろうか?
(3)モダンローズの親となった日本のバラ
400万年前、鮮新世期のノイバラの化石が兵庫県明石で出土し、日本でもバラの野生種が人類よりも早くから自生していたという。
日本には14種の野生種があり、ノイバラ(Rosa multiflora Thunberg)、テリハノイバラ(Rosa wichuraiana)、ヤマイバラ、タカネイバラ、サンショウバラ(Rosa hirtula Nakai)、ナニワイバラ(Rosa laevigata)、ハマナス(Rosa rugosa Thunberg)などがある。
このうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの3種がヨーロッパに渡り、現代のバラの親として品種改良に使われた。
そのヨーロッパへの伝播についてみると、伝播の時期・ルートなど不明なことが多い。
このようなことを前提として、最も早くヨーロッパに入ったのはハマナスのようで、日本に来たリンネの弟子にあたるツンベルグがヨーロッパに存在を紹介したのが1784年で、彼の著書『フローラ・ヤポニカ』で“ローサ・ルゴサ(Rosa rugosa)”と命名された。
このハマナスは、1796年にはロンドンのリー&ケネディ商会で栽培されており、何処から入ったかは不明だ。
リー&ケネディ商会は、この当時のヨーロッパ育種業界No1の企業であり、海外からの仕入ルートがあった。
仕入れルートは秘密で明らかにならないが、中国か日本に滞在している外交官或いは植物学者或いはマッソンのようなどこかのお抱えプラントハンターから内密で手に入れたのだろう。
しかし、同時期に中国から四季咲きのコウシンバラがヨーロッパに入り、注目がこちらに移った影響なのか、リー&ケネディ商会のハマナスはここで立ち消えになる。
ヨーロッパへの再登場は1845年で、シーボルトが日本から輸入して販売カタログに掲載している。
さらにしかしだが、ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にはハマナスがあった。
これはルドゥーテの『バラ図譜』5番目の絵として確認できるので間違いはないだろう。
『バラ図譜』(1817-1824)の出版時期と兼ねあわせると、シーボルトが輸入した物ではないことは間違いない。
このハマナスは、日本での原産地が寒冷地であるため、耐寒性が強く寒冷地でのハイブリッド・ローズの品質改良に生かされることとなる。
ノイバラ、テリハノイバラに関しては、カタログを参照していただきたいが、ワンポイントコメントすると、
ノイバラがヨーロッパに伝わるのは、1810年でフランスに紹介される。
これが、ポリアンサ・ローズの親の一つとなり、フロリバンダ・ローズや現代のミニチュア・ローズを生んでいく。
ポリアンサ・ローズ、フロリバンダ・ローズなどに関しては、プレモダン・ローズで書く予定。
テリハノイバラは、1891年にフランス・アメリカに導入され、品種改良の基本種として利用される。また、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
ハマナス
Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
※ビジュアルは、Rosa Rugosa Kamtchatica( Kamchatka Rose)
・ 和名:ハマナス
・ 学名:Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
・ 英名:英名:Japanese Rose
・ 日本原産で、花色は深い紅紫色で雄しべの黄色が目立つ美しい花。花径6-10cm、強い芳香がある。
・ 太平洋側は茨城県以北、日本海側は鳥取県以北の海岸線の砂地に自生する。
・ 種小名のルゴサは、しわのある葉を持ったバラという意味。
・ 耐寒性が強く、この特質を現代のバラに取り込み寒冷地でも栽培できるバラが誕生する。
・ 1845年にシーボルトがヨーロッパに輸入したのは間違いないが、これ以前にイギリスに入る。
ノイバラ
Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
※ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)
・ 和名:ノイバラ
・ 学名:Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
・ 英名Mulltiflora Japonica
・ 花は白色、
・ 花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・ 花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。房咲き性は、ノイバラが現代のバラに伝えた特質。
・ 香りよい。
・ 耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
・ 1810年ヨーロッパに伝わる。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』ではノイバラ2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1810年以前にヨーロッパに伝わっていた可能性がある。
テリハノイバラ
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
※ 写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/
・ 和名:テリハノイバラ
・ 学名:Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
・ 英名:Memorial Roseメモリアルローズ
・ 日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・ 葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・ 花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・ 雄しべは黄色で数が多い。
・ 甘い香りがする。
・ 花は円錐花序で10数個つく。
・ 茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・ 1891年フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
・ ランブラー・ローズの系統をつくる。
(4)ジョゼフィーヌとの同時代。江戸の園芸とバラ
バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。
何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・ バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・ 栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・ バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?
江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。
ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、江戸時代は、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。
家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だった。
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)
貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。
ツンベルク、リンネの頃は、外国人は自由に江戸を歩くことが出来なかったが、
幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。
また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がよくわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。
イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ花卉植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらおう。
江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。
珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)
(出典)牧野富太郎 蔵書の世界 植物図譜の世界
斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は斑入りを持ち帰り、日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がったという。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受け、リアリティが欠如し、どこか浮世離れしていたのだろう。
喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。
神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。
ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描いた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国政策がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。
万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。
「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」
“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。
バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)に『薔薇二曲』という詩がある。
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。
【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1
ゲルマン人が破壊した古代ギリシャ・ローマの文化・文明は、イスラム圏に受け継がれヨーロッパに再流入する。バラも例外ではなかった。
オーストリアン・ブライアーの流れ==イスラム圏の勢力拡大による
8世紀小アジア原産の黄色いバラと花弁の表面がオレンジ色で裏面が濃い黄色のバラがアフリカ北部沿いにイスラムの勢力拡大に伴ってスペインに伝わった。
もう一つの経路が、オーストリアにも同じものが伝わり普及した。
黄色いバラをオーストリアン・ブライアー・ローズ(Austrian Brier Rose) 或いは、 オーストリアン・イエローローズ(Austrian Yellow Rose)と呼び、
オレンジと黄色のバラを オーストリアン・カッパー・ローズ(Austrian Copper Rose)という。
(写真)オーストリアン・カッパー・ローズ
(出典)conservationgardenpark
(写真)オーストリアン・ブライアー・ローズ
出典:Wikipedia
この花の特色は、花色が濃黄色で、花径5-6cm、花弁が5枚で、香りが臭いほど強い。
学名をローザ・フェティーダ(Rosa foetida Herrmann)と言い、種小名の“foetida”はラテン語で“臭い”を意味する。
また、古代ギリシャから栽培されていた品種であり、イスラムによってイベリア半島まで運ばれていき、オーストリアには1542年頃までには伝わっていたという。
イギリス・オランダには、16世紀の終わりにオーストリアから入ったので、オーストリアン・ブライアーと呼ばれる。
そしてこの種の中で、ハイブリッド・ティーの黄色の親となったのは、1837年頃ペルシャからヨーロッパに伝わったロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana(Lemaire)Rehder)だった。
(写真)ロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana)
英名がペルシアン・イエロー・ローズ(Persian Yellow Rose)、
濃い黄色、花径5-6cm、花弁数60-80+20枚で、花の中心が4個ぐらいに分かれる。
この、ペルシャ原産の黄色いバラは、英国のウィルロック、ヘンリー卿(Sir Henry Willock)が1837年に発見しヨーロッパに紹介されて話題を呼んだ。
日本にも来たドイツ人医師のケンペル(1651-1716)は、日本に来る前にペルシャに寄っているが、
そのケンペルが書いた『廻国奇観』(1712)の中で、古都ペルセポリスには広大なバラ園があり、ペルシャ南西部の高地シラズではバラの花を蒸留して精油を採っていたことが書かれている。
ヨーロッパでは1801年のジョゼフィーヌからバラ園がはじまるので、イスラム圏のバラ栽培の成熟さが垣間見られる。
フレンチ・ローズの出自==十字軍の遠征がはじまり
11世紀から始まった十字軍の遠征は、イスラムの文化・文明を中世ヨーロッパにもたらすこととなる。
フランスのシャンパニュー伯ティーボルト4世が十字軍の遠征の帰路に、パレスチナからロサ・ガリカを持ち帰る。
近縁種との自然交配などで濃い赤色の品種が出来上がり、フレンチ・ローズという系統が出来上がる。
フレンチ・ローズは、濃い赤色のバラの祖先とも言われる。
十字軍の遠征は、イスラム文化をヨーロッパにもたらしたが、このときにバラの鑑賞も再輸入したようだ。
この結果、13世紀以降の聖堂のステンドグラスにはバラ窓が作られるようになり、14世紀のマリア賛歌にはバラが歌いこまれる。
聖母マリアをバラで飾るようになったのもこのころからで、ルネッサンス以降の絵画にはバラの絵が増える。
ばら戦争
イギリスには野生のバラがあるが、ローマ帝国の属州になった紀元1世紀ごろローマのバラが伝わり、プランタジャネット朝(1154-1399)のエドワード1世(1239-1307)の時に王室の紋章として金色のバラが採用される。
プランタジャネット朝は後にヨーク家(白バラ)とランカスター家(赤バラ)に分かれ、王位継承権で争う。
これがばら戦争(1455-1485)である。
ヨーク家の白バラの由来
ヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローザ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。
1236年イギリスのヘンリー三世(1207-1272)がプロバンスのエレアノルと結婚した。
彼女はこの時既に白バラを自分の紋章としていた。息子のエドワード一世(1239-1307)は、これを受け継ぎこの花を国璽(こくじ)に取り入れた。
ランカスター家の赤バラの由来
ランカスター家の紅バラは、エドワードの弟エドモンドの紋章で、最初のランカスター伯となった。
1277年頃シャンパニューで反乱が起きたとき、この地を結婚持参金として手に入れていたヘンリー三世が息子のエドモンドを派遣し反乱を鎮めた。
エドモンドはフランスで3~4年過しイギリスに戻る時紅バラを持ち帰った。エドモンドはこの花を自慢にし、兄の白バラよりもはるかに素晴らしいと思いこれを自分の紋章とした。
イギリス王室の紋章の由来
ばら戦争は彼ら兄弟の子孫が争うことになるが、紅バラのランカスター家ヘンリー7世の勝利で終わり、ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスを妻とし、チュードル・ローズと呼ばれる白バラの中に赤バラを納めたものを紋章とし、これがイギリス王家の紋章となった。
バラ戦争(1455-1485)は、30年もの長きにわたる骨肉の争いとなる無益な戦争を続け10万人もの命をなくしたというが、
バラの刺で流した血ではなく、人間の“憎しみ”という心の刺と、それぞれの属する集団・組織の果てしない欲望がもたらしたもののようだ。
余談 ばら戦争から学ぶ現在の状況
トップのドライバーがハンドルから手を離すと、マシーンはコントロール不能となり暴走する。
ばら戦争もこんな状況でおきたもののようだ。そしてばら戦争は、いまの世相にこんな標語を残す。
『飲むなら乗るな。運転出来ないならなおさら乗るな。』
民の信任を受けない無免許のトップは、酔っ払い運転と同じということだろうか・・・・
(2) 中国から伝わったバラ
中国のバラの歴史は古く、周の時代(BC1066-BC256)に、“しょうび(穪靡)”“きんとう(釁冬)”などの文字が見られる。
これは、バラに当てられた最初の文字という。
中国原産のバラがヨーロッパにもたらされたのは、大航海時代以降の1500年代の中頃からといわれる。
オランダ、イギリスに入りそれからフランス(マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園など)に渡った。
ヨーロッパでの品種改良で重要な役割を果した主要なバラの道筋をたどってみると次のようになる。(年号など諸説あるので併記した。)
1.中国から伝わった“コウシンバラ”の命名
英名:クリムゾン・チャイナ(Crimson China)
中国名:月季花
学名:Rosa chinensis Jacquin(1768) ロサ・キネンシス
1733年、オランダ・ライデン植物園の植物収集家 グロノビウス(Gronovius、Johan Frederik 1686-1762)が中国の四川州(あるいは雲南州)の濃紅色のバラの標本を入手し、植物園の園長であるニコラス・ジャカン(Jacquin, Nicolaus Joseph von 1727-1817)に同定を依頼した。
ジャカンはこれを“中国の原種のバラ”であるとして、1768年にRosa chinensis Jacquin と命名した。
当初は花色から「クリムゾン・チャイナ」と呼ばれた。
命名者のジャカンは、オランダ生まれでマリーアントワネットの母、オーストリア皇后のマリアテレジアから招聘を受け、オーストリアに移住した植物学者で、リンネと仲良しであり、彼の自宅でモーツアルトのピアノ演奏会がなされたともいう。
2.1759年コウシンバラヨーロッパに入る
英名:ピンク・チャイナ
学名:Rosa indica.Linnaeus ロサ・インディカ
1751年、リンネの弟子ペール・オスベック(Pehr Osbeck 1723-1805) が広東の税関の庭で発見し中国から持ち帰ったバラ。花色から「ピンク・チャイナ」と呼ばれた。
リンネは「クリムソン・チャイナ」とは別種と考え Rosa indica の学名を与えたが、現在では Rosa chinensis と同種と考えられている。
中国原産の四季咲き性のバラがヨーロッパに入ってきたのは、1789年(1792年という説もある)で、引き続いて重要な3品種も入ってくる。
3.1789年、赤いバラの基本種が入る
英名:スレイターズ・クリムゾン・チャイナ(Slater's Crimson China)
学名:Rosa chinensis 'Semperflorens') 1789(1792)
1789年ヨーロッパに紅色花で四季咲き性のコウシンバラが入る。この品種は、古い時代に中国にて育種されたものとみなされている。
伝来のルートは、インド・カルカッタにあった東インド会社の庭からイングランドのノット・ガーデンで庭師をしていたギルバート・スレイター(Gilbert Slater)の元へ持ち込まれた。
スレイターは、2年目に深紅色の花を咲かせることに成功し、1792年(一説には1789年)に公表した。このバラは、彼の名を採りスレイターズ・クリムゾン・チャイナと呼ばれる。
この品種が入るまでのヨーロッパでは、ガリカなどの赤いバラは、ディープ・ピンクあるいはバイオレットの入った色合いだったが、この品種を交配親として鮮やかな赤の品種が出現することになる。
日本では東インド会社のあったカルカッタが所在する地方名にちなみベンガル・ローズと呼ばれる。
4.1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が入る
英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)
中国名:桃色香月季
学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
(写真)Parsons' Pink China
(出典)helpmefind.com
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、
イングランドのパーソン(John Parsons 1722-1798)の庭にあったチャイナ・ローズで、
伝来のルートはよくわからないが、1792年に中国に派遣されたマカトニー(Sir Macartney)使節団の一員であったジョージ・スタウントン(Sir George Staunton)によってカントンの近くで採取されたようだ。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。
5.1809年、ハイブリッド・ティーの親となるロサ・オドラータがイギリスに入る
英名:ヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)
中国名:赤色香月季
学名:Rosa × odrata (1810)
(写真)Hume's Blush Tea-scented China
中国・広東の東インド会社のお茶の検査官ジョン・リーブス(John Reeves 1778-1856)は、1808年に広東郊外のナーサリーから手に入れたバラなどの植物を、イングランドのヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749 -1838) に送った。
この中のバラで、1809年にフューム卿より紹介されたバラがヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と名付けられた。
中国原種のコウシンバラとロサ・ギガンテア(Rosa gigantea)との交配により生み出された自然交雑種だと見なされている。
淡いピンク色の花、紅茶のような特徴的な香り、大株となるつる性の木立から、ヒューム卿の名を採りヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナと呼ばれる。
この品種は、後にノワゼット、ブルボンなど、他の品種群との交配により、ティー・ローズの源流となり、さらに、ハイブリッド・パーペチュアルを経て、ハイブリッド・ティーへと発展する。
6.1824年、イエローローズの基本種が入る
英名:パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)
中国名:黄色香月季
学名:Rosa × odorata ochroleuca(1824)
(写真)パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ
(出典) 姫野ばら園 八ヶ岳農場
イギリス王立園芸協会から中国に派遣されたプラントハンター、パークス(John Damper Parks:1792-1866)は、広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手し1824年にロンドン園芸協会に送った。
この大輪で、芳香のある黄色のバラは後にパークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナと呼ばれるようになった。 1825年にはパリに送られるなどし、その後のハイブリッド・ティの作出に多大な貢献をすることとなった。
特に、ペルシャン・イエローからのイエローの花色を取り入れるまでの間、イエロー・ローズの元となった品種だ。
ジョゼフィーヌが世界の植物を仕入れたのは、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者リー&ケネディ商会からであり、これはジョゼフィーヌのシリーズで紹介したが、プラントハンター・育種園が世界の植物を収集・育成し園芸が広まっていく時期に、中国の原種が “四季咲き性” “花の色(紅赤・黄色)” “香り(ティー)” という特徴を持って入ってきた。
さらに、日本の原種が入ってきて現在のバラの親たちが出揃うことになる。
中国、日本ともバラは重視されなかった。キクが珍重されたからというのも一因あるだろうが、棘だけでなく香りにも要因があったのだろうか?
(3)モダンローズの親となった日本のバラ
400万年前、鮮新世期のノイバラの化石が兵庫県明石で出土し、日本でもバラの野生種が人類よりも早くから自生していたという。
日本には14種の野生種があり、ノイバラ(Rosa multiflora Thunberg)、テリハノイバラ(Rosa wichuraiana)、ヤマイバラ、タカネイバラ、サンショウバラ(Rosa hirtula Nakai)、ナニワイバラ(Rosa laevigata)、ハマナス(Rosa rugosa Thunberg)などがある。
このうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの3種がヨーロッパに渡り、現代のバラの親として品種改良に使われた。
そのヨーロッパへの伝播についてみると、伝播の時期・ルートなど不明なことが多い。
このようなことを前提として、最も早くヨーロッパに入ったのはハマナスのようで、日本に来たリンネの弟子にあたるツンベルグがヨーロッパに存在を紹介したのが1784年で、彼の著書『フローラ・ヤポニカ』で“ローサ・ルゴサ(Rosa rugosa)”と命名された。
このハマナスは、1796年にはロンドンのリー&ケネディ商会で栽培されており、何処から入ったかは不明だ。
リー&ケネディ商会は、この当時のヨーロッパ育種業界No1の企業であり、海外からの仕入ルートがあった。
仕入れルートは秘密で明らかにならないが、中国か日本に滞在している外交官或いは植物学者或いはマッソンのようなどこかのお抱えプラントハンターから内密で手に入れたのだろう。
しかし、同時期に中国から四季咲きのコウシンバラがヨーロッパに入り、注目がこちらに移った影響なのか、リー&ケネディ商会のハマナスはここで立ち消えになる。
ヨーロッパへの再登場は1845年で、シーボルトが日本から輸入して販売カタログに掲載している。
さらにしかしだが、ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にはハマナスがあった。
これはルドゥーテの『バラ図譜』5番目の絵として確認できるので間違いはないだろう。
『バラ図譜』(1817-1824)の出版時期と兼ねあわせると、シーボルトが輸入した物ではないことは間違いない。
このハマナスは、日本での原産地が寒冷地であるため、耐寒性が強く寒冷地でのハイブリッド・ローズの品質改良に生かされることとなる。
ノイバラ、テリハノイバラに関しては、カタログを参照していただきたいが、ワンポイントコメントすると、
ノイバラがヨーロッパに伝わるのは、1810年でフランスに紹介される。
これが、ポリアンサ・ローズの親の一つとなり、フロリバンダ・ローズや現代のミニチュア・ローズを生んでいく。
ポリアンサ・ローズ、フロリバンダ・ローズなどに関しては、プレモダン・ローズで書く予定。
テリハノイバラは、1891年にフランス・アメリカに導入され、品種改良の基本種として利用される。また、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
ハマナス
Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
※ビジュアルは、Rosa Rugosa Kamtchatica( Kamchatka Rose)
・ 和名:ハマナス
・ 学名:Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
・ 英名:英名:Japanese Rose
・ 日本原産で、花色は深い紅紫色で雄しべの黄色が目立つ美しい花。花径6-10cm、強い芳香がある。
・ 太平洋側は茨城県以北、日本海側は鳥取県以北の海岸線の砂地に自生する。
・ 種小名のルゴサは、しわのある葉を持ったバラという意味。
・ 耐寒性が強く、この特質を現代のバラに取り込み寒冷地でも栽培できるバラが誕生する。
・ 1845年にシーボルトがヨーロッパに輸入したのは間違いないが、これ以前にイギリスに入る。
ノイバラ
Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
※ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)
・ 和名:ノイバラ
・ 学名:Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
・ 英名Mulltiflora Japonica
・ 花は白色、
・ 花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・ 花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。房咲き性は、ノイバラが現代のバラに伝えた特質。
・ 香りよい。
・ 耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
・ 1810年ヨーロッパに伝わる。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』ではノイバラ2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1810年以前にヨーロッパに伝わっていた可能性がある。
テリハノイバラ
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
※ 写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/
・ 和名:テリハノイバラ
・ 学名:Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
・ 英名:Memorial Roseメモリアルローズ
・ 日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・ 葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・ 花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・ 雄しべは黄色で数が多い。
・ 甘い香りがする。
・ 花は円錐花序で10数個つく。
・ 茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・ 1891年フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
・ ランブラー・ローズの系統をつくる。
(4)ジョゼフィーヌとの同時代。江戸の園芸とバラ
バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。
何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・ バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・ 栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・ バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?
江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。
ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、江戸時代は、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。
家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だった。
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)
貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。
ツンベルク、リンネの頃は、外国人は自由に江戸を歩くことが出来なかったが、
幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。
また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がよくわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。
イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ花卉植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらおう。
江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。
珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)
(出典)牧野富太郎 蔵書の世界 植物図譜の世界
斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は斑入りを持ち帰り、日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がったという。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受け、リアリティが欠如し、どこか浮世離れしていたのだろう。
喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。
神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。
ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描いた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国政策がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。
万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。
「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」
“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。
バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)に『薔薇二曲』という詩がある。
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。
【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1