モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

5:プレ・モダンローズの系譜-2

2019-09-03 14:15:26 | バラ
(4):ブルボンローズの誕生
レユニオン島の住人A.M. Perichonは、1817年以前に島にあるバラとは異なる品種を発見し、それを育てて生垣用として配った。
島では、耕作地の垣根をバラで囲っており、中国原産のコウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)とダマスクバラが植えられておりこれらとは異なる品種だった。
コウシンバラ(パーソンズ・ピンク・チャイナ)は、アメリカ・チャールストンでノアゼットローズの片親となった重要なオールドローズだ。

レユニオン島の説明が必要だが、アフリカ、マダガスカル島の東のインド洋上にある島で、現在は、フランスの海外にある4つの県のうちの1つで、コーヒーノキのオリジナル種ブルボンがあることで知られる。
この島は、大航海時代の1507年にポルトガル人が発見したがこの時は無人島だった。
1645年にフランス東インド会社が入植を開始し1714年からコーヒー栽培を行った。
この島でのコーヒーの栽培はシンプルだけに面白いので、興味があればUCCコーヒーのサイトで、<strong>「幻のコーヒー ブルボン・ポワントゥ」をご覧いただきたい。

コーヒーノキも同じような背景があるが、隔離された島であり二つしかないバラから生まれた第三のバラが誕生した。
レユニオン島の植物園長として1817年に着任したフランスの植物学者ブレオン(Jean Nicolas Bréon 1785‐1864)は、このバラに興味を持って調べ、
ダマスクバラの“オータム・ダマスク”と中国産コウシンバラの変種“パーソンズ・ピンク・チャイナ”との自然交雑種であると考え、1819年にこのバラから得た種と苗をフランスのルイ・フィリップ王のバラ園で働く友人のジャックス(Henri-Antoine A. Jacques 1782-1866)に送った。

ジャックスは、1821年に初めて開花させ1823年にはフランスの育種家に苗木を配布した。
この種が、「ブルボン・ローズ」と呼ばれるもので、ローズピンクで半八重咲き芳香がある。

このブルボン・ローズは、バラの画家ルドゥテにより1824年に最初に描かれていることでも知られており、
ルドゥテは、絵の素晴らしさだけでなくバラの歴史の貴重な資料として使えるほど植物画としても正確性を有していた。
(植物画)ブルボンローズ(ルドゥテ作)
 
 ブルボンローズ
・学名:Rosa borbonica Hort.Monac. (Rosa chinensis x gallica)コウシンバラとガリカの交雑種
・英名:The Bourbon Rose

ブルビンローズの重要な役割は、さらに中国産のローズと交配され「ティーローズ」を生み出し、
この「ティーローズ」からフランス人のギョーが1867年に「ハイブリッド・ティ」を作出したことにある。
現代のバラの多くはこの系統に続く。
しかし残念ながら、ルドゥテが描いたブルボンローズの実物は今では存在しない。

(5):四季咲き性の取り込み
ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。
これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。
1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。

そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。
正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだが
これらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。
これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」
  

 フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。
フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のパイオニア、デュポン(André DuPont 1756‐1817)と バラの育種業者のデスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)だった。

デスメーは、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人工交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。
この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777‐1866)に全てを売り渡したという。
そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1795‐1878)によって完成されたことになっている。
彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のハイブリッド・パーペチュアル・ローズである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。残念ながらこの品種は今日では見ることができない。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの1837年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。
アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その1~2番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。
そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)をつくる栄誉を得た。
2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

(写真)Fulgens  (Hybrid China, ゲラン作1828)
 
出典:helpmefind

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥 ベルディエ(Victor Verdier 1803-1878)が作り出した。
ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからなかったプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。
ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがあるという。このブルボン種のバラは、ヴィルベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 、どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで金物屋を開店した。
バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。
1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

(写真)ヴィベール(Jean Pierre Vibert)
 
出典:vibertfamily.com

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(6):現代のバラ、ハイブリッド・ティーへの進化
ティーローズからハイブリッド・ティー・ローズへ
現代のバラの主流は、ハイブリッド・ティー・ローズ(略称:HT)だが、このHTは、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)とティー・ローズの交雑で生まれた。

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズは、このシリーズ(5)でふれたが、
ノアゼット系のバラ、ブルボン系のバラなどが1810年代後半に登場したその土台の上で成立し、
ラフェイ(Jean Laffay)が1837年に作出した「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」が最初の品種とされている。

一方、ティー・ローズは、翌年の1838年に作出された「アダム(Adam)」が最初の品種として登場した。

(写真)ティーローズの最初のバラ アダム
 
(出典)篠宮バラ園

重要な系統がフランスで誕生した。この根底には、中国原産のバラが深くかかわっているのでこれを確認していくことにする。

ティー・ローズ誕生に関わった中国原産のバラ
1700年代の中頃以降から中国原産のバラがヨーロッパに伝わり、マルメゾン庭園での人工交雑以降の1810年代頃からあらゆるバラと交雑され、そこから重要な系統が誕生した。ノアゼット系、ブルボン系、ティー・ローズ系などである。

① 1809年にイングランドに中国原産のバラが伝わる。
このバラを導入したヒューム卿(Sir Abraham Hume 1749-1838)の名前を取り、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と呼ばれた。
このバラは、中国原産のコウシンバラと中国雲南省原産のローサ・ギガンティア(Rosa gigantea)との自然交雑で誕生したといわれている。
ローサ・ギガンティアは、中国名で香水月季と呼ばれ、大輪で花弁のふちが強くそりかえるという特徴があり、現代のバラの花形にこれを伝えた。

② 1824年にはイエローローズの基本種が入る。
英名では、パークス・イエロー・ティー・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)、中国名では黄色香月季と呼ばれたバラがイングランドに伝わる。
このバラは、イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper (Danpia)Parks 1791-1866)が中国・広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。翌年にはパリに送られる。

③ 最初のティー・ローズ「アダム」の誕生
最初の品種は、1838年にフランスのアダム(Michel Adam)によってつくられた。
ヒュームのバラとブルボン系の品種との交雑で作られたといわれ、大輪、柔らかい桃のような花で、強いティーの香りがする。
 
最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表されてから以後、1838年フォスター作の「デボニエンシス(devoniensis)」、1843年ブーゲル作の「ニフェトス(Niphetos)」、1853年に代表種であるルーセル作の「ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)」が発表された。

(写真)ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)
 

バラの名前は、ナポレオン軍の将軍Jean-François Jacqueminot (1787-1865)の栄誉をたたえて名付けられた。
また、ティー・ローズは雨が多くジメジメした涼しいイギリスの気候には適さず、1800年代の中頃にはフランスのリビエラが栽培の中心となった。

④ ハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス(La France)」の誕生
1867年、ついに最初の四季咲きハイブリッド・ティー『ラ・フランス('La France)』が作られた。
作出者は、フランスのギョー(Jean-Baptiste Guillot 1840-1893)。

花は明るいピンク色で裏側が濃いピンク、剣弁で高芯咲き、花径は9-10cm、花弁数が45+15枚と多く、香りはオールドローズのダマスク香とティーローズ系の両方を持ち四季咲きの大輪。
交雑種は、ハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトール・ベルディエ(Mme Victor Verdier)」とティー・ローズ系の「マダム・ブラビー(Mum Braby)」といわれている。

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」
 
(参考) Hybrid Tea Rose ‘La France’

しかし実際は、リヨンにある育種園の苗木の中からギョーにより発見されたようで、人工的な交雑ではなく自然交配だったようだ。だから、両親がよくわからない。

しかも初期の頃は、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズと考えられていたが、
イギリスの農民でバラの育種家・研究者でもあったベネット(Henry Benett 1823-1890)が、「ラ・フランス(La France)」を新しいバラの系統として評価し、ハイブリッド・ティーの名を与え「ラ・フランス(La France)」をその第一号としたことにより新しい系統となった。

園芸品種の中では、バラの系図が最も明確にされているが、これはベネットのおかげであり、新品種作出の交雑種・作出者・作出地などが明確でなかったものを、各品種ごとに明らかにし、一覧表に記載する方法を考案した人で、その後の系統分類の基礎を築いた人でもある。

彼は、1879年に10の異なったバラの系統を示し、この時にハイブリッド・ティーという系統も提示した。
フランスでは比較的早くハイブリッド・ティーが認知されたが、全英バラ協会がこれを認めたのは1893年で「ラ・フランス」誕生から26年後だった。頑固な英国人気質は今はじまったことではなさそうだ。

また、境界線を引くことは意外と難しく、1859年にリヨンのFrançois Lacharmeが作出した「ビクター・ベルディエ(Victor Verdier)」は、両親が「Jules Margottin」(ハイブリッド・パーペチュアル)と「Safrano」(ティー・ローズ)であり、
最初のハイブリッド・ティー・ローズであってもよかったが,そうは認められずハイブリッド・パーペチュアルとなった。
しかし、最初のハイブリッド・ティー「ラ・フランス」には、「ビクター・ベルティエ」の遺伝子があった。

現在主流のバラ、ハイブリッド・ティー(HT)は、このようにして誕生し、 “選び抜かれた雑種の極み” とでもいえだろう。

“純血よりも美しくて強い” これがハイブリッドで実現したことで、
混血を見くびってはいけないという教訓を我々に教えてくれる。

国粋主義者は滅び行く宿命を抱えているのだろうが、
コンプレックスを持った国粋主義者が増殖する時代になりつつあり、
純血という排除の論理が強まりつつある嫌な時代が来そうだから気をつけたい。

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