江戸時代初期の日本の庭園を二つほど見たが、1600年代同時代のヨーロッパの庭園はどんな考えで作られていたのだろうか? というのがチョッと気になった。
水戸藩の『小石川後楽園』(完成1636年)と柳沢吉保の『六義園』(完成1702年)の中間頃に、ヨーロッパでは『フランス幾何学式庭園』が登場する。日本式庭園とは対極的な考え方に基づいていて文学と数学ほどの違いがありそうだ。
この『フランス幾何学式庭園』を創りだしたのは、アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)という庭師だった。
17世紀中頃に作られたヴォー・ル・ヴィコント城の庭園
ル・ノートルが最初につくったのが、ルイ十四世の財務相をしていたニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)の庭園で、1655-1661年にかけてつくられ完成した。『フランス幾何学式庭園』の最初の庭園で最高傑作といわれている。
リンク先:ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)
(写真)ヴォー・ル・ヴィコント宮殿と庭園
『フランス幾何学式庭園』の特色は、建築の図面と植物の刺繍文様を足し合わせたような左右対称の整然とした構成にあるといえそうだ。
宮殿の上階から見た秩序正しい構成は、長い直線の運河が左右にあり、中心には刺繍花壇が置かれハーブや花、ツゲなどを使って模様が描かれている。その先には芝生が張られ、さらにその先には水が張られるなど城を出発点により人工的で手がこんだ美しいものを配置し、遠ざかるに従い森などを配置するようにだんだんと簡略で自然なものを配置するという階層的な考え方でつくられる。
この左右対称、階層的な構成は、イタリアの庭園で生まれたが、作法・様式として公式化したのが『フランス幾何学式庭園』であり、庭師のル・ノートルであった。
(写真)幾何学模様の美しさ
ヨーロッパの庭園の源流
簡単にヨーロッパの庭園の考え方とその様式の流れをおさらいすると二つの流れがあり、その源流は、古代エジプトと古代オリエントにあるという。
古代エジプトの庭園は、死後の楽園をイメージするものであり、四角い池・あずまや・規則正しく整列した樹木などが左右対称に配列されており整形庭園とも呼ばれている。
もう一つの流れの古代オリエントの庭園は、庭園と動物園(あるいは狩猟園)から構成された庭園で、山から水を引いて灌漑をし、ブドウ・リンゴ・西洋杉などの樹木を植え、遠方には自然の森あるいは植林をして柵で囲いライオン・鹿などの狩猟動物を住まわせていたという。
15世紀の後半には、フィレンツェで始まったルネッサンス運動により庭園にも新しい風が吹いた。それまでの都市は外敵と自然の猛威を防ぐために城壁で囲んだために、狭く、暗く、汚いという場でもあった。
健康で余暇を愉しむためにも古代ローマの別荘をモデルに、郊外に別荘と庭をつくり文化的な生活をすごすという提唱がされた。
この提唱をしたのが、ダ・ヴィンチと並ぶルネッサンス期の天才アルベルティ(1404-1472)だった。
古代の庭園の様式を受け継ぎ新しい息吹きを吹き込んだのがイタリア・ルネッサンスの庭園だが、ここにはその後に登場する様々な庭園様式の基本があったというので、後日深堀りすることとするが、文化・芸術といえども政治と切り離せないという事例を書きとめておく。
(写真)アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)
天才は政治と無縁ではいられない
ニコラ・フケ卿のヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)庭園は、あまりにも素晴らしかった。この完成祝宴に招かれたルイ十四世は、自分が持っていないものを持ってしまった部下を妬み、理不尽にも逮捕し牢獄に入れ獄死させた。
フケ卿は優れた人物のようであり、三人の天才を発掘しヴォー・ル・ヴィコント建設を任せた。庭師ル・ノートル、画家・装飾家のル・ブラン、建築家のル・ヴォーであった。しかしながら、優れたフケ卿といえども持ち得なかった才能があった。それは“野蛮”であり、これを持ち得たルイ十四世はフケ卿の生命・財産と三人の天才を奪ってしまった。さらにヴォー・ル・ヴィコント庭園の樹木・石・置物などを奪い、天才とともにベルサイユ宮殿の造園に使ったという。
ル・ノートルの『フランス幾何学式庭園』は、人工的で壮大であり秩序・調和が取れている美しさがあり、これが絶対君主制を誇示する表現形式であることをルイ十四世は見抜いていたようだ。だからこそ自分が最初に持たなかった庭園を持ったフケ卿が憎かったのだろう。
ルイ十四世は、権力を誇示する道具としてその後たくさんの庭園を作り、『フランス幾何学式庭園』は世界に広まる。
約1世紀後のマリー・アントワネットは、『フランス幾何学式庭園』を嫌い、ベルサイユ宮殿の庭園のそばに異なる考えの庭園を作る。
水戸藩の『小石川後楽園』(完成1636年)と柳沢吉保の『六義園』(完成1702年)の中間頃に、ヨーロッパでは『フランス幾何学式庭園』が登場する。日本式庭園とは対極的な考え方に基づいていて文学と数学ほどの違いがありそうだ。
この『フランス幾何学式庭園』を創りだしたのは、アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)という庭師だった。
17世紀中頃に作られたヴォー・ル・ヴィコント城の庭園
ル・ノートルが最初につくったのが、ルイ十四世の財務相をしていたニコラ・フケ卿の居城ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)の庭園で、1655-1661年にかけてつくられ完成した。『フランス幾何学式庭園』の最初の庭園で最高傑作といわれている。
リンク先:ヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)
(写真)ヴォー・ル・ヴィコント宮殿と庭園
『フランス幾何学式庭園』の特色は、建築の図面と植物の刺繍文様を足し合わせたような左右対称の整然とした構成にあるといえそうだ。
宮殿の上階から見た秩序正しい構成は、長い直線の運河が左右にあり、中心には刺繍花壇が置かれハーブや花、ツゲなどを使って模様が描かれている。その先には芝生が張られ、さらにその先には水が張られるなど城を出発点により人工的で手がこんだ美しいものを配置し、遠ざかるに従い森などを配置するようにだんだんと簡略で自然なものを配置するという階層的な考え方でつくられる。
この左右対称、階層的な構成は、イタリアの庭園で生まれたが、作法・様式として公式化したのが『フランス幾何学式庭園』であり、庭師のル・ノートルであった。
(写真)幾何学模様の美しさ
ヨーロッパの庭園の源流
簡単にヨーロッパの庭園の考え方とその様式の流れをおさらいすると二つの流れがあり、その源流は、古代エジプトと古代オリエントにあるという。
古代エジプトの庭園は、死後の楽園をイメージするものであり、四角い池・あずまや・規則正しく整列した樹木などが左右対称に配列されており整形庭園とも呼ばれている。
もう一つの流れの古代オリエントの庭園は、庭園と動物園(あるいは狩猟園)から構成された庭園で、山から水を引いて灌漑をし、ブドウ・リンゴ・西洋杉などの樹木を植え、遠方には自然の森あるいは植林をして柵で囲いライオン・鹿などの狩猟動物を住まわせていたという。
15世紀の後半には、フィレンツェで始まったルネッサンス運動により庭園にも新しい風が吹いた。それまでの都市は外敵と自然の猛威を防ぐために城壁で囲んだために、狭く、暗く、汚いという場でもあった。
健康で余暇を愉しむためにも古代ローマの別荘をモデルに、郊外に別荘と庭をつくり文化的な生活をすごすという提唱がされた。
この提唱をしたのが、ダ・ヴィンチと並ぶルネッサンス期の天才アルベルティ(1404-1472)だった。
古代の庭園の様式を受け継ぎ新しい息吹きを吹き込んだのがイタリア・ルネッサンスの庭園だが、ここにはその後に登場する様々な庭園様式の基本があったというので、後日深堀りすることとするが、文化・芸術といえども政治と切り離せないという事例を書きとめておく。
(写真)アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)
天才は政治と無縁ではいられない
ニコラ・フケ卿のヴォー・ル・ヴィコント(Château de Vaux-le-Vicomte)庭園は、あまりにも素晴らしかった。この完成祝宴に招かれたルイ十四世は、自分が持っていないものを持ってしまった部下を妬み、理不尽にも逮捕し牢獄に入れ獄死させた。
フケ卿は優れた人物のようであり、三人の天才を発掘しヴォー・ル・ヴィコント建設を任せた。庭師ル・ノートル、画家・装飾家のル・ブラン、建築家のル・ヴォーであった。しかしながら、優れたフケ卿といえども持ち得なかった才能があった。それは“野蛮”であり、これを持ち得たルイ十四世はフケ卿の生命・財産と三人の天才を奪ってしまった。さらにヴォー・ル・ヴィコント庭園の樹木・石・置物などを奪い、天才とともにベルサイユ宮殿の造園に使ったという。
ル・ノートルの『フランス幾何学式庭園』は、人工的で壮大であり秩序・調和が取れている美しさがあり、これが絶対君主制を誇示する表現形式であることをルイ十四世は見抜いていたようだ。だからこそ自分が最初に持たなかった庭園を持ったフケ卿が憎かったのだろう。
ルイ十四世は、権力を誇示する道具としてその後たくさんの庭園を作り、『フランス幾何学式庭園』は世界に広まる。
約1世紀後のマリー・アントワネットは、『フランス幾何学式庭園』を嫌い、ベルサイユ宮殿の庭園のそばに異なる考えの庭園を作る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます