そもそも論ではこの”重商主義”の概念自体一般に不明確と言われているが、アダム・スミスがその国富論で使用したのが最初と言われているが、定義としては、”経済学説史に付いても経済政策史についても使われている言葉であって、ふつうこれらの歴史の初期資本主義の段階にあたる部分がこの名で呼ばれている”( 小林昇 イギリス重商主義研究 未来社 1977年 以下文中敬称略)としているが、其の中で小林は特に”初期のブルジョア国家が其の権力を用いて組織的に行った原始蓄積(本源的蓄積)のための政策体系”としている。
重商主義については周知のことと思うのでその対外的政策について若干述べる。知られているように全体としては金銀を”一国の富”と考えそれに伴い政策としては、
①自国商品の輸出奨励(輸出奨励金、諸外国との条約)
②外国商品輸入制限(輸入禁止、関税)
③海外植民地の開拓、植民地での新興産業の抑圧
④航海条例による自国商品の海運権の独占
等上記の政策が行われていたがこの中で特に関税に関して若干説明をしておく。関税は近世では主として財政収入が主目的であり(国内産業保護の性質は無く王室経常費であった(隅田哲司 イギリス財政史研究 ミネルヴア書房1971年)でぶどう酒等除けば輸出入品価格の従価5%(輸入品、輸出品とも同じと言う事)であった。
そこから1700年当時、財政としての他、重商主義的産業保護政策が”原材料を除く輸入品の関税水準”を大きく引上げ、歳入で22.4から35.1%にもなった。(朝倉弘教 世界関税史 日本税関協会 1983年)
そこから18世紀初頭にはウオルポールによる改革が行われ1721年にはごく少数の例外を除きイギリス生産、製造の商品の”輸出税”を免除し又”外国産原材料の輸入税”の撤廃が行われた。
これらの関税改革を上記隅田は”重商主義的[保護関税]の総合的体系化”と呼んでいるが、その他ウオルポールにより行われた改革は戻税制度、保税倉庫制度がある旨を指摘している。
又①の輸出奨励金の内一番重要なものは穀物に対するものであり(穀物法)、1740年頃には輸出は飛躍的に拡大したが1760年頃より少しつづ穀物輸入国になり之により幾たびか穀物法の改変があったが1814年に輸出奨励金の部分は廃止となった。(前掲 小林)
これらを述べて前掲 隅田は”18世紀重商主義は海運諸法、穀物諸法、及び保護主義の三者を並存的支柱として構成されたもの”との表現をしている。
尚、植民地及び殖民政策と不況の関連は別項で取り上げる予定であり本稿の中では述べない。以下経年的に順次テーマに沿って序していく。
以下次回