このテーマで書きだしたのは、昨年の正月だった。
以来、
・サ行の落とし穴・“シ”との違い。
・タ行の三つの落とし穴。
・“バ”は“ハ”の濁音ではない!
・唇音は「ファ・マ・バ・パ」の四行だ。
・「ニッポンがニホンか?
・ハ行の反乱①②③
・さまよえる“フ”?
・滑稽な半濁音の定義。
・「ファ行」の再生へ。
・「ヤ行 ワ行に子音はない!」
等々について述べ、日本語の「音の表記」としての50音図について、問題点を列挙した。
さらに、もっと大切な音、全ての音の根源である<ん>について、ここ三回を費やして述べた。
・「ン」は50音の尻尾なのか!
・「ン」についての論争!
・<ん>は日本語の音の原点だ。
だが、断っておきたいのは、このブログを通じて連載してきたのは、50音図をあげつらう為ではないということだ。
例え、その位置づけに変化があったとしても、欧米のアルファベットに比べれば、「音の表」としての整合性は、はるかに優れているということに疑いの余地はない。
そうした観点の上からも、日本語の音の表現について果たす役割は大きいと思っている。だが、しかし、この50の音は「いつらの声」という、国学者達の説から、離陸できないのは何故だろうか。そこを考えたいのだ。
かつて、小学校で、私たちは50音図を習い、「日本のカナは表音文字で、一つの音を表し、漢字は表意文字である」と教わった。そして、そのご50音図という言い方は、文部省でも取らなくなり、「カナの書き方の表」と言い方を改めた・・・
しかしながら、現在の日本の教育課程では、音の表記については無定見・無関心、何一つ教えようともしていない。また、教える手段も基準も見えない。子ども達は、家庭で母親の口を見て、発音を覚え、ネイティブな言語体験をする。その体験だけに頼って、学校では何一つ“発音”について教えてはいないのだ。これは信じられない現実だ。
私たちの日本語の音が、どれだけ混乱し、迷っていても、“ことば”は変化するものだと、逃げていてよいのだろうか。
一例をあげれば、どこの国の辞書をみても、発音記号は必ずついている。でも、私は、日本の辞書で発音記号が書いてあるのを見た試しがない。(発音のための特殊な辞書は除く)
言語の成立の歴史をみても、文字主体の表現体系が形成される傾向は否めない。しかし、音を失った言語は、言語としての資格を失うのではなかろうか。
本居宣長らの国学者の思想、信条に、私は文句をつける積もりはない。だが、国語の音は、紛うことなく言語の基本だ。そこに国史観や哲学・宗教とは無縁の筈だ。一ユーザーとして、切歯扼腕する。
その上、虫食いだらけ、まるでハイウエイに、口を開けた古井戸のごとき落とし穴が無数にある。文科省も「仮名の書き方の表」と譲歩した以上は、はっきりと50の格子を取り除いて、この表は、日本語のアルファベットであり、音の表は別途作成すると言えないのだろうか。
10年ほど前、私としての私案を世に問うたけれど、一ユーザーがやるべき事ではないだろう。
前にも言ったが、日本語の音節・“拍”は、その数があまりにも少なく、同音異義語が「シロアリのたかるが如く」に繁殖し続けて、音だけでは通じないという、特殊な国語となっている。日本語は漢字だけで出来ているのではない。
テレビの国会中継を聞いても、我らの“選良”が、まるでヤクザのごとき怒声を浴びせ、官僚の書いた原稿を流し読みしていることさえ恥ずかしいのに、画面に文字でスーパーしなければ意味も分からぬとあっては、健全な国語と言えまい。 大いに憂える所以はここにあるのです。
これで、ひとまず、「50音図の落とし穴」のシリーズを終わることにします。
お読み下さって、有り難うございます。
以来、
・サ行の落とし穴・“シ”との違い。
・タ行の三つの落とし穴。
・“バ”は“ハ”の濁音ではない!
・唇音は「ファ・マ・バ・パ」の四行だ。
・「ニッポンがニホンか?
・ハ行の反乱①②③
・さまよえる“フ”?
・滑稽な半濁音の定義。
・「ファ行」の再生へ。
・「ヤ行 ワ行に子音はない!」
等々について述べ、日本語の「音の表記」としての50音図について、問題点を列挙した。
さらに、もっと大切な音、全ての音の根源である<ん>について、ここ三回を費やして述べた。
・「ン」は50音の尻尾なのか!
・「ン」についての論争!
・<ん>は日本語の音の原点だ。
だが、断っておきたいのは、このブログを通じて連載してきたのは、50音図をあげつらう為ではないということだ。
例え、その位置づけに変化があったとしても、欧米のアルファベットに比べれば、「音の表」としての整合性は、はるかに優れているということに疑いの余地はない。
そうした観点の上からも、日本語の音の表現について果たす役割は大きいと思っている。だが、しかし、この50の音は「いつらの声」という、国学者達の説から、離陸できないのは何故だろうか。そこを考えたいのだ。
かつて、小学校で、私たちは50音図を習い、「日本のカナは表音文字で、一つの音を表し、漢字は表意文字である」と教わった。そして、そのご50音図という言い方は、文部省でも取らなくなり、「カナの書き方の表」と言い方を改めた・・・
しかしながら、現在の日本の教育課程では、音の表記については無定見・無関心、何一つ教えようともしていない。また、教える手段も基準も見えない。子ども達は、家庭で母親の口を見て、発音を覚え、ネイティブな言語体験をする。その体験だけに頼って、学校では何一つ“発音”について教えてはいないのだ。これは信じられない現実だ。
私たちの日本語の音が、どれだけ混乱し、迷っていても、“ことば”は変化するものだと、逃げていてよいのだろうか。
一例をあげれば、どこの国の辞書をみても、発音記号は必ずついている。でも、私は、日本の辞書で発音記号が書いてあるのを見た試しがない。(発音のための特殊な辞書は除く)
言語の成立の歴史をみても、文字主体の表現体系が形成される傾向は否めない。しかし、音を失った言語は、言語としての資格を失うのではなかろうか。
本居宣長らの国学者の思想、信条に、私は文句をつける積もりはない。だが、国語の音は、紛うことなく言語の基本だ。そこに国史観や哲学・宗教とは無縁の筈だ。一ユーザーとして、切歯扼腕する。
その上、虫食いだらけ、まるでハイウエイに、口を開けた古井戸のごとき落とし穴が無数にある。文科省も「仮名の書き方の表」と譲歩した以上は、はっきりと50の格子を取り除いて、この表は、日本語のアルファベットであり、音の表は別途作成すると言えないのだろうか。
10年ほど前、私としての私案を世に問うたけれど、一ユーザーがやるべき事ではないだろう。
前にも言ったが、日本語の音節・“拍”は、その数があまりにも少なく、同音異義語が「シロアリのたかるが如く」に繁殖し続けて、音だけでは通じないという、特殊な国語となっている。日本語は漢字だけで出来ているのではない。
テレビの国会中継を聞いても、我らの“選良”が、まるでヤクザのごとき怒声を浴びせ、官僚の書いた原稿を流し読みしていることさえ恥ずかしいのに、画面に文字でスーパーしなければ意味も分からぬとあっては、健全な国語と言えまい。 大いに憂える所以はここにあるのです。
これで、ひとまず、「50音図の落とし穴」のシリーズを終わることにします。
お読み下さって、有り難うございます。