人の心を動かすプレゼンテーション、と言うテーマで講演をされている方の話です。
(引用ここから)
論理思考って勉強している人も多いかと思いますが、そんな人ほどハマッてしまう
落とし穴があるって知っていました?
「論理思考の罠」なんて言われているそうですが、典型的には、
ロジカル<論理的>に話さなければとの思いが強くて、人と話すときに
紋切り型の「大事なポイントは三点あります。第一は…」なんてパターンばかりの人。
聞いている方は、(またかよ…)とウンザリです。
あるいは、クリティカル<批判的>にものごとを見るのが大事だ、なんて教え込まれて、
他人の言葉や企画のアラばかりが目に付くようになり、口うるさく指摘する人。
いつの間にか社内では(彼は「評論家」だから…)と評判がた落ちです。
もちろん、論理思考を学ぶこと自体は間違いではないのでしょうが、
ビジネスのコミュニケーションって、伝えた結果、「相手が動いてくれる」のが目的ですから、
相手をウンザリさせたり、自分の評価を落とすようでは本末転倒です。
では、どうすれば、「本当に使える論理思考」が身に付くの?
という答えが、
「論理だけでなく心理」
だそうなんです。
たしかに、ロジカルに分かりやすく説明されうえに、心理面でも共感できたら、思わず「イエ
ス」って
言ってしまいそうですものね。
実際、ハーバード流交渉術でも心理の重要さは指摘されていて、タフな交渉になればなる
ほど、
「自分と相手の双方の感情に対して敏感になる」
ことが必要とのこと(「新ハーバード流交渉術 論理と感情をどう生かすか」より)
(引用ここまで)
以前、あるスピーチコンテストで、何人もの学生が同じパターンのスピーチを
披露したことがありました。
「私が話したいことのポイントは3つあります。ひとつは…」、
即席スピーチのテーマを繰り返し、時間を稼ぐ、
制限時間の半分ぐらいしか使っていないのに、
「まだ話したいことがありますが、時間の都合で…」
など、です。
それが4人目、5人目となったとき、審査員が失笑しているのを
見てしまいました。いえ、審査員だけではなく、会場で聞いている
学生たちも、笑い出していました。
そして、スピーチをしている本人は、どうして笑われているのか分からない様子で、
困った顔をしていました。
このようなテクニックが無意味だとは思いません。
話が分かりやすいかどうかは、確かにテクニック(発音・文の構成・決まり文句など)の問題です。
でも、15人~20人の選手が、程度の差こそあれ、同じようなテクニックでスピーチをしているところを
想像してみてください。そんなコンテストを聞きたいと思いますか?
スピーチは、「話の分かりやすさ」が最大のポイントなのでしょうか。
もしそうなら、スピーチではなく、「日本語発音・記憶力コンテスト」になってしまいます。
天津の学生たちから、「スピーチコンテストはつまらない」「形式化してきている」という
話を聞くことが増えてきてしまいました。
私はスピーチが好きです。
自分の思いが相手に伝わり、相手の反応によって自分も変わっていく、
それは本当に嬉しいことだと思うからです。
だからこそ、テクニックばかりに気をとられ、会場とのコミュニケーションが成立せずに
終わってしまっている学生たちを見ると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。
(こんなスピーチは、コンテスト以外では役に立つのかな…)と思ってしまいます。
もしかしたら、「スピーチコンテストはつまらない」と言っている学生たちは、
うまく言葉にはできないけれど、ここに書いたようなことを感じ取っているのかもしれません。
「あの人たちは流暢に話しているけれど、私に聞いてほしいと思っているんじゃないや…」
「こちらの気持ちには関係なく、自分のスピーチの上手さをアピールしたいだけみたい…」
という具合に、です。
日本語のスピーチコンテストが、
日本語本来の目的である「コミュニケーションの道具を磨く」コンテストになるために、
来学期からは、「スピーチ」というテーマで学生たちに話をしていくことにしました。
また、それは、国際交流基金と北京日本学センターが報告をしているように、
「日本語教育学を軸にして、「教育」や「学習」への視点を不可欠なものとした」日本語教育
そのもののありかたではないでしょうか。
(国際交流基金 日本語教育通信 2002年5月 海外日本語教育レポートより)
来学期以降の中国のスピーチコンテスト、というのは話が大きいですね。
私が関わることができるコンテスト(勤務校・ドーナツのコンテスト)でのスピーチは、
「論理・情熱・共感」をテーマにしていきたいと思います。
(引用ここから)
論理思考って勉強している人も多いかと思いますが、そんな人ほどハマッてしまう
落とし穴があるって知っていました?
「論理思考の罠」なんて言われているそうですが、典型的には、
ロジカル<論理的>に話さなければとの思いが強くて、人と話すときに
紋切り型の「大事なポイントは三点あります。第一は…」なんてパターンばかりの人。
聞いている方は、(またかよ…)とウンザリです。
あるいは、クリティカル<批判的>にものごとを見るのが大事だ、なんて教え込まれて、
他人の言葉や企画のアラばかりが目に付くようになり、口うるさく指摘する人。
いつの間にか社内では(彼は「評論家」だから…)と評判がた落ちです。
もちろん、論理思考を学ぶこと自体は間違いではないのでしょうが、
ビジネスのコミュニケーションって、伝えた結果、「相手が動いてくれる」のが目的ですから、
相手をウンザリさせたり、自分の評価を落とすようでは本末転倒です。
では、どうすれば、「本当に使える論理思考」が身に付くの?
という答えが、
「論理だけでなく心理」
だそうなんです。
たしかに、ロジカルに分かりやすく説明されうえに、心理面でも共感できたら、思わず「イエ
ス」って
言ってしまいそうですものね。
実際、ハーバード流交渉術でも心理の重要さは指摘されていて、タフな交渉になればなる
ほど、
「自分と相手の双方の感情に対して敏感になる」
ことが必要とのこと(「新ハーバード流交渉術 論理と感情をどう生かすか」より)
(引用ここまで)
以前、あるスピーチコンテストで、何人もの学生が同じパターンのスピーチを
披露したことがありました。
「私が話したいことのポイントは3つあります。ひとつは…」、
即席スピーチのテーマを繰り返し、時間を稼ぐ、
制限時間の半分ぐらいしか使っていないのに、
「まだ話したいことがありますが、時間の都合で…」
など、です。
それが4人目、5人目となったとき、審査員が失笑しているのを
見てしまいました。いえ、審査員だけではなく、会場で聞いている
学生たちも、笑い出していました。
そして、スピーチをしている本人は、どうして笑われているのか分からない様子で、
困った顔をしていました。
このようなテクニックが無意味だとは思いません。
話が分かりやすいかどうかは、確かにテクニック(発音・文の構成・決まり文句など)の問題です。
でも、15人~20人の選手が、程度の差こそあれ、同じようなテクニックでスピーチをしているところを
想像してみてください。そんなコンテストを聞きたいと思いますか?
スピーチは、「話の分かりやすさ」が最大のポイントなのでしょうか。
もしそうなら、スピーチではなく、「日本語発音・記憶力コンテスト」になってしまいます。
天津の学生たちから、「スピーチコンテストはつまらない」「形式化してきている」という
話を聞くことが増えてきてしまいました。
私はスピーチが好きです。
自分の思いが相手に伝わり、相手の反応によって自分も変わっていく、
それは本当に嬉しいことだと思うからです。
だからこそ、テクニックばかりに気をとられ、会場とのコミュニケーションが成立せずに
終わってしまっている学生たちを見ると、なんとも言えない気持ちになってしまいます。
(こんなスピーチは、コンテスト以外では役に立つのかな…)と思ってしまいます。
もしかしたら、「スピーチコンテストはつまらない」と言っている学生たちは、
うまく言葉にはできないけれど、ここに書いたようなことを感じ取っているのかもしれません。
「あの人たちは流暢に話しているけれど、私に聞いてほしいと思っているんじゃないや…」
「こちらの気持ちには関係なく、自分のスピーチの上手さをアピールしたいだけみたい…」
という具合に、です。
日本語のスピーチコンテストが、
日本語本来の目的である「コミュニケーションの道具を磨く」コンテストになるために、
来学期からは、「スピーチ」というテーマで学生たちに話をしていくことにしました。
また、それは、国際交流基金と北京日本学センターが報告をしているように、
「日本語教育学を軸にして、「教育」や「学習」への視点を不可欠なものとした」日本語教育
そのもののありかたではないでしょうか。
(国際交流基金 日本語教育通信 2002年5月 海外日本語教育レポートより)
来学期以降の中国のスピーチコンテスト、というのは話が大きいですね。
私が関わることができるコンテスト(勤務校・ドーナツのコンテスト)でのスピーチは、
「論理・情熱・共感」をテーマにしていきたいと思います。