天津ドーナツ

みんなで力を合わせて、天津の日本語教育を楽しく、元気にしましょう。ご意見・ご要望は左下の「メッセージ」からどうぞ。

豊かな発想が生まれる考え方

2012-04-08 03:19:09 | 顧問・アドバイザーから
何かを目指して、それに向かっていくと、それは結局チープなものにしかならないと思うんですよね。

効率優先とか、最短解みたいに見えるけれども、それは本当の解ではない。

「今からあの地点に行くためにどうしたらいいか」というとき、人間が持つ想像力ってたいしたことないと思うんです。

設計ではなく発生してきたものが残るのではないでしょうか

(アートディレクター、水野学さん)

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「目標を決める」こと自体はとてもいいことだと思いますが、目標によっては、人生が貧しくなってしまう可能性もあると私も思います。それ以外のことが視野に入らなくなるからです。

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芸術作品を作るときも、

「一つだけ、いい作品を作ってください。チャンスは1回です。」と言われたチームより、

「とにかくたくさん作って、いいものだけ残してください」と言われたチームのほうが、結果は良かったという報告もあります。



無計画に何でもやり、やりっぱなしで終わるというのでは困りますが、

そのときそのときのベストを尽くし、改善点も探るという努力をするのであれば、

必要だと思うこと・やってみたいと思うことにどんどんチャレンジして、その中から自然に残っていくものを

磨いていくというやりかたのほうが、私はいいものが残るように思います。



ドーナツという日本語サークルが、スピーチコンテストやカラオケ、留学生との交流会、考えるための日本語ゼミ、就職対策講座…などのいろいろな活動に取り組んでいるのも、何が本当に天津の学生に必要なのかを探るためです。

また、それぞれの活動のやりかたも、「これはスピーチコンテストではない」と言う人もいるぐらい、いろいろなやりかたを試しています。



国際交流基金の日本語教育専門家も、「10のことをやって2ぐらい残れば上出来ではないか」とおっしゃっておりました。

「お百姓さん」という言葉も、「100の種類の作物を育てる人」という意味だそうです。

それは、「一つの作物だけを育てていたら、その作物が不作だったら大打撃を受ける。それを避けるため」でもあります。



本当にいいものを残したい・生き残りたいと思うからこそ、よく考えた上で、いろいろなことに取り組んでいる、それが今のドーナツです。

50音図の落とし穴 最後に一言…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-04-08 01:53:33 | 日本語学習法
このテーマで書きだしたのは、昨年の正月だった。
 以来、
 ・サ行の落とし穴・“シ”との違い。
 ・タ行の三つの落とし穴。
 ・“バ”は“ハ”の濁音ではない!
 ・唇音は「ファ・マ・バ・パ」の四行だ。
 ・「ニッポンがニホンか?
 ・ハ行の反乱①②③
 ・さまよえる“フ”?
 ・滑稽な半濁音の定義。
 ・「ファ行」の再生へ。
 ・「ヤ行 ワ行に子音はない!」
  等々について述べ、日本語の「音の表記」としての50音図について、問題点を列挙した。
 さらに、もっと大切な音、全ての音の根源である<ん>について、ここ三回を費やして述べた。
 ・「ン」は50音の尻尾なのか!
 ・「ン」についての論争!
 ・<ん>は日本語の音の原点だ。
 
 だが、断っておきたいのは、このブログを通じて連載してきたのは、50音図をあげつらう為ではないということだ。
 例え、その位置づけに変化があったとしても、欧米のアルファベットに比べれば、「音の表」としての整合性は、はるかに優れているということに疑いの余地はない。
 そうした観点の上からも、日本語の音の表現について果たす役割は大きいと思っている。だが、しかし、この50の音は「いつらの声」という、国学者達の説から、離陸できないのは何故だろうか。そこを考えたいのだ。
 
 かつて、小学校で、私たちは50音図を習い、「日本のカナは表音文字で、一つの音を表し、漢字は表意文字である」と教わった。そして、そのご50音図という言い方は、文部省でも取らなくなり、「カナの書き方の表」と言い方を改めた・・・
 しかしながら、現在の日本の教育課程では、音の表記については無定見・無関心、何一つ教えようともしていない。また、教える手段も基準も見えない。子ども達は、家庭で母親の口を見て、発音を覚え、ネイティブな言語体験をする。その体験だけに頼って、学校では何一つ“発音”について教えてはいないのだ。これは信じられない現実だ。
 私たちの日本語の音が、どれだけ混乱し、迷っていても、“ことば”は変化するものだと、逃げていてよいのだろうか。
 一例をあげれば、どこの国の辞書をみても、発音記号は必ずついている。でも、私は、日本の辞書で発音記号が書いてあるのを見た試しがない。(発音のための特殊な辞書は除く)
 言語の成立の歴史をみても、文字主体の表現体系が形成される傾向は否めない。しかし、音を失った言語は、言語としての資格を失うのではなかろうか。
 
 本居宣長らの国学者の思想、信条に、私は文句をつける積もりはない。だが、国語の音は、紛うことなく言語の基本だ。そこに国史観や哲学・宗教とは無縁の筈だ。一ユーザーとして、切歯扼腕する。
 その上、虫食いだらけ、まるでハイウエイに、口を開けた古井戸のごとき落とし穴が無数にある。文科省も「仮名の書き方の表」と譲歩した以上は、はっきりと50の格子を取り除いて、この表は、日本語のアルファベットであり、音の表は別途作成すると言えないのだろうか。
 
 10年ほど前、私としての私案を世に問うたけれど、一ユーザーがやるべき事ではないだろう。
 前にも言ったが、日本語の音節・“拍”は、その数があまりにも少なく、同音異義語が「シロアリのたかるが如く」に繁殖し続けて、音だけでは通じないという、特殊な国語となっている。日本語は漢字だけで出来ているのではない。
 テレビの国会中継を聞いても、我らの“選良”が、まるでヤクザのごとき怒声を浴びせ、官僚の書いた原稿を流し読みしていることさえ恥ずかしいのに、画面に文字でスーパーしなければ意味も分からぬとあっては、健全な国語と言えまい。 大いに憂える所以はここにあるのです。

 これで、ひとまず、「50音図の落とし穴」のシリーズを終わることにします。
 お読み下さって、有り難うございます。