昼食をとり一息ついた後は行程の残り半分です。
川匂神社の交差点手前で道は国道1号と旧道に分かれますので左手旧道へ。
分かれてすぐの三角地帯に二宮の一里塚があります。
国道を1号線を整備した時に大きく山を切り崩したのでしょう、面影はありません。
住宅街の中のゆるやかな坂道をのぼっていくと民家の庭先に立て看板と標柱があります。
文字を読んで見ると松屋本陣の跡。
大磯宿と小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂・酒匂川を手前に控えていることから、間の宿として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶店や商店が軒を並べ、『梅沢の立場』と呼ばれて大変賑わっていたそうです。その中心的存在が松屋本陣で松屋であった和田家には本陣を利用した人々の記録であるご休憩帳が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっているそうです。
中村川に架かる押切橋を渡り、緩やかに長い押切坂をのぼりきり下り始めた所で海が見えます。
ここで一旦旧道を外れて山の上にある近戸神社へ寄り道。
高台にあり、相模湾に向けて建っていますので右の画像のように木々に囲まれた間から相模湾を望む事が出来ます。
ただ、足が疲れて来ているので途中の坂道や石段がちょっと辛かったです。
国道1号の国府津駅前を通過してすぐに親鸞縁の石碑とお寺があります。
ひとつは親鸞聖人がこの地において7年間教下した際に住んでいた庵室の御勧堂跡の碑と元は天台宗のお寺であったが親鸞聖人の教法に導かれて当時の住僧性順が帰依して寺の名前を親鸞聖人に名付けてもらった真楽寺。
再び国道1号に戻り、岡入口の交差点を右折。
最終目的地菅原神社へ。
なぜ菅原神社かというと下の画像にあるようにここがわらべうた『通りゃんせ』の発祥之地という情報を得ていたからです。
確かめる意味でも実際に見てみるしかありません。
確かに石碑があります。ただ、由来は書いていません。天神様=菅原道真ですので菅原神社であれば問題ないのですが、なぜ、『いきはよいよい帰りはこわい』なのかは不明。
帰りのついでに隣の安楽院にも寄りましたが、ほとんど素通り状態。
線路高架下の通路を抜け線路に沿って国府津駅へ。
ゴールです。
後は電車に乗って帰るだけ。
本を読みながら帰ろうと思っていましたがいつの間にやら熟睡。
駅に着いては慌てて駅名を確認してました。
やっぱ5時間歩くと体がつらいですねぇ。
では。
川匂神社の交差点手前で道は国道1号と旧道に分かれますので左手旧道へ。
分かれてすぐの三角地帯に二宮の一里塚があります。
国道を1号線を整備した時に大きく山を切り崩したのでしょう、面影はありません。
住宅街の中のゆるやかな坂道をのぼっていくと民家の庭先に立て看板と標柱があります。
文字を読んで見ると松屋本陣の跡。
大磯宿と小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂・酒匂川を手前に控えていることから、間の宿として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶店や商店が軒を並べ、『梅沢の立場』と呼ばれて大変賑わっていたそうです。その中心的存在が松屋本陣で松屋であった和田家には本陣を利用した人々の記録であるご休憩帳が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっているそうです。
中村川に架かる押切橋を渡り、緩やかに長い押切坂をのぼりきり下り始めた所で海が見えます。
ここで一旦旧道を外れて山の上にある近戸神社へ寄り道。
高台にあり、相模湾に向けて建っていますので右の画像のように木々に囲まれた間から相模湾を望む事が出来ます。
ただ、足が疲れて来ているので途中の坂道や石段がちょっと辛かったです。
国道1号の国府津駅前を通過してすぐに親鸞縁の石碑とお寺があります。
ひとつは親鸞聖人がこの地において7年間教下した際に住んでいた庵室の御勧堂跡の碑と元は天台宗のお寺であったが親鸞聖人の教法に導かれて当時の住僧性順が帰依して寺の名前を親鸞聖人に名付けてもらった真楽寺。
再び国道1号に戻り、岡入口の交差点を右折。
最終目的地菅原神社へ。
なぜ菅原神社かというと下の画像にあるようにここがわらべうた『通りゃんせ』の発祥之地という情報を得ていたからです。
確かめる意味でも実際に見てみるしかありません。
確かに石碑があります。ただ、由来は書いていません。天神様=菅原道真ですので菅原神社であれば問題ないのですが、なぜ、『いきはよいよい帰りはこわい』なのかは不明。
帰りのついでに隣の安楽院にも寄りましたが、ほとんど素通り状態。
線路高架下の通路を抜け線路に沿って国府津駅へ。
ゴールです。
後は電車に乗って帰るだけ。
本を読みながら帰ろうと思っていましたがいつの間にやら熟睡。
駅に着いては慌てて駅名を確認してました。
やっぱ5時間歩くと体がつらいですねぇ。
では。