散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

旧東海道、国府津-小田原宿 其の二

2008-06-08 17:24:47 | 旧東海道
星月夜の社 山王神社 
祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命
明応四年(1495)二月北条早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。その頃の山王神社は北条家の郭内で山王曲輪と呼ばれた海辺の袖の池の南袖ヶ薮にあったが、暴浪のため崩壊したので慶長18年(1923)9月18日に現在の場所に移ったそうです。以前の社地には星月夜の井戸というのがあり別名星月夜の杜とも呼ばれていたそうです。
寛永元年(1624)4月4日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内において星月夜の詩を詠んだそうで、詩は石碑に書かれています。

神社を過ぎてしばらくすると国道1号線の道路のこちら側と向こう側に『東海道 小田原宿』と書かれた塔が見えて来ます。
ここから先が小田原宿!
ちょっと一服したいと思いましたが、ライターがないのでここは我慢です。
この塔の先にある歩道橋の左右に江戸口見附並一里塚があり、左手の塚は塚らしく一段高くなっています。

右手の公民館脇にある江戸口見附並一里塚には小田原宿の解説板が設置されており、大正時代の江戸口見附付近の写真が掲載されていました。歩道橋の上から撮影した現在と比べると道は広く真っすぐになっていますし、沿道の街並も大きく変わっているのが判ります。
旧東海道の小田原宿内に入ると道の所々に旧町名を記した石柱があり、町名の由来が側面に刻まれています。
旧東海道は国道1号線の新宿交差点を左折して一つ目を右折した1号線と平行に走る道になります。
沿道には小田原名物の蒲鉾屋さんが軒を連ねてあり、再び国道1号と合流する付近では老舗の旅館が数件あります。

新宿町(解説の石柱)は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町で、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
鍋町(解説の石柱)は町の規模ははっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この名がついたといわれるそうです。
万町(解説の石柱)は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町名には七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には旅籠が五軒ほどあり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
高梨町(解説の石柱)は東海道から北へ向う甲州街道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ中宿町の上問屋場と十日交代で勤めていたそうです。
宮前町はすみません。解説をチェックし忘れました。
旧本陣(古清水旅館)です。
旅籠だった当時は小清水と名乗っていたそうですが、昭和になって現在の『古清水』に変えたそうです。
敷地内に設置された昭和20年(1945)8月15日小田原空襲を伝える説明板。
被災炎上した地区は現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側。
焼失した家屋は約400軒、死者は12名。
右の写真は当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものだそうです。
古清水旅館のすぐ隣に明治天皇聖蹟(小田原市指定史跡)があります。
この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の掌握を行なっていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名・宮家などの宿泊にあてられたそうです。小田原宿なりわい交流館という無料休憩所でちょっと休憩して手前の道を海の方に入って行き一つ目の角を左に入ったところに籠静本店。道路向かいには駐車場があり、その奥には竜宮神社。由来は良く判りません。
西湘バイパスの道路下をくぐるトンネルがありその先は海。
海の潮風に当たりながらちょっと休憩。沖には漁船がチラホラ。


国道1号(東海道)に再び戻ります。
済生堂小西薬房(左画像)
創業寛永十年
小田原街かど博物館の幟が立っており、昔の調剤道具など歴史を学ぶ事ができます。ちょうど歩いていた前を小学生の集団(10名位)がノート片手に入っていきました。
一際目立つお城のような建物は外郎家の『ういろうと外郎博物館』です。
外郎といえば一時名古屋のういろうが有名になりましたが、こちらは本家本元、外郎(薬)を製造する外郎家(小田原)の来客用菓子として伝えられていたものが、明治以降に薬と共に販売されるようになったことで全国に広まったとそうです。
歩き始めて3時間午後1時もちょっと過ぎたので、小田原城城趾公園で観光しつつ昼食でも取ろうと思い、地元で有名なうす皮あんぱんの柳屋ベーカリーへ。
色々とアンパンの種類がある中からつぶあん、こしあん、ゆかり、もちもち胡麻あんを買って小田原城趾公園へ。
ここまでで投稿文字数制限が一杯!
投稿した画像は残り僅かなので本日は終了!
小田原城城趾公園の記事はまた、日を改めて
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旧東海道、国府津-小田原宿 其の一

2008-06-08 14:58:37 | 旧東海道
昨日分を一気にアップしようと画像を投稿していたら一日分の容量を超えてしまいました
取りあえず今日は投稿できた画像を使って『旧東海道、国府津-小田原宿』を紹介
午前10時過ぎにJR国府津駅を出発。
先ずはスタート地点の駅舎と改札を出てすぐ右手にあった明治20年7月11日開業から
100周年記念の石碑とプレートを撮影。
国府津周辺は前回歩いたので、脇道に入る事なく東海道へ。
歩き始めて20分程、小八幡3丁目信号の先、左手に一里塚跡の看板があります。
塚の面影はなくただの案内板。
誰が真っ平らに整地したのかは不明ですが、道の両端には民家が建ち並んでおり、他の派手な看板が目立ってしまって、ほとんどの人に気付かれる事なく通り過ぎられてしまっているのではないでしょうか?
10分程歩くと松並木があり、右手に小学校が見えた先に道祖神がありました。
道の左側を歩いていたんですが、道路を渡って取りあえず撮影してしばらくは右側を歩行。
寺が多く寄り道しようかと思いましたが、メインスポットは小田原市内なので酒匂川を目指して進みます。
酒匂川の手間にある法船寺ですが、日蓮上人旧跡(宿泊された)という事でちょっと寄り道。
五重塔がありました。
特に解説などの由緒などがわかるものはありませんでしたので境内を通り抜けそのまま街道へ戻りました。

歩き始めて約1時間。
川の手前、ガソリンスタンド先に立てかけられた『シカに注意』の看板
こんなところにもシカが生息しているのでしょうか?ちょっと気になります。
酒匂橋を渡りながらですが、江戸時代の渡し場は酒匂側は現在の橋のたもと辺りで小田原側は上流へちょっと行った所にあったそうです。
現在の酒匂川と江戸時代の酒匂川の巾や深さがどう違うか判りませんが、現在の川を見る限り歩いて渡れそうな気がしますがどうなんでしょうか?

橋を渡り左手の小田原城東高校を見ながら左に曲がる道があり、一旦東海道から外れて住宅街へ。
案内の看板が出ていますが、寄り道先は新田義貞公首塚
この小田原の地になぜ首塚があるかが不思議ですので是非、確かめたいと思って今回、ちょっと寄り道してみました。
駐車場と駐車場の間に解説板が立てられていて解説文によれば、建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
なお、北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。そうです。
この解説板だけで碑はどこにあるのかと思ったらこの間の細い道の先に小さな遊具のある公園の片隅に碑がありました。

住宅街の中を抜けて東海道にもどろうと思いうろちょろと歩いてみましたが、個人宅への道であったりして抜けれそうにないのでもと来た道を戻り再び旧東海道へ。
歩き始めて5分程で山王小学校入口の標柱があり、民家の板塀に『上杉龍若丸墓』の案内表示。路地に入ると正面に小学校、手前の左に小さい祠、右には鳥居。
左手の祠が上杉龍若丸の墓のようです。解説が貼付けられており正面を見ると上杉神社と書かれています。
道路から見て駐車場なのでしょうか、車が2台停まっていてその奥のちょっと高くなったところに祠はありますが、民家と地続きのようで祠手前の木には洗濯物が吊るされています。まるで離れのトイレのように見えます。
多くの観光客が訪れる場所ではないと思いますが、もう少し丁寧に祀っても良いのではないかと思います。
-由来-
関東管領平井城主、山の内上杉憲政の嫡男、龍若丸(11才又は13才)は天文二十年(1551)平井城落城前、北条氏康の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣六名とともに、小田原城に出向いて来た。
北条氏康は龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねることを命じ、龍若と従臣が一色の松原で磔にかけられた。
龍若を斬殺した神尾治郎右衛門は癩病にかかり、まもなく死亡した。
これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。
道の向かいにある小さな神社、戎神社は由来の解説が年月で劣化してしまい良く読めないので省略。

再び東海道へ戻って10分程歩いて山王橋。
この橋を渡った右手に見えて来るのが山王神社。
今度は投稿できる文字数がオーバーしそうなので『その二』へ
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