星月夜の社 山王神社
祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命
明応四年(1495)二月北条早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。その頃の山王神社は北条家の郭内で山王曲輪と呼ばれた海辺の袖の池の南袖ヶ薮にあったが、暴浪のため崩壊したので慶長18年(1923)9月18日に現在の場所に移ったそうです。以前の社地には星月夜の井戸というのがあり別名星月夜の杜とも呼ばれていたそうです。
寛永元年(1624)4月4日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内において星月夜の詩を詠んだそうで、詩は石碑に書かれています。
神社を過ぎてしばらくすると国道1号線の道路のこちら側と向こう側に『東海道 小田原宿』と書かれた塔が見えて来ます。
ここから先が小田原宿!
ちょっと一服したいと思いましたが、ライターがないのでここは我慢です。
この塔の先にある歩道橋の左右に江戸口見附並一里塚があり、左手の塚は塚らしく一段高くなっています。
右手の公民館脇にある江戸口見附並一里塚には小田原宿の解説板が設置されており、大正時代の江戸口見附付近の写真が掲載されていました。歩道橋の上から撮影した現在と比べると道は広く真っすぐになっていますし、沿道の街並も大きく変わっているのが判ります。
旧東海道の小田原宿内に入ると道の所々に旧町名を記した石柱があり、町名の由来が側面に刻まれています。
旧東海道は国道1号線の新宿交差点を左折して一つ目を右折した1号線と平行に走る道になります。
沿道には小田原名物の蒲鉾屋さんが軒を連ねてあり、再び国道1号と合流する付近では老舗の旅館が数件あります。
新宿町(解説の石柱)は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町で、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
鍋町(解説の石柱)は町の規模ははっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この名がついたといわれるそうです。
万町(解説の石柱)は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町名には七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には旅籠が五軒ほどあり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
高梨町(解説の石柱)は東海道から北へ向う甲州街道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ中宿町の上問屋場と十日交代で勤めていたそうです。
宮前町はすみません。解説をチェックし忘れました。
旧本陣(古清水旅館)です。
旅籠だった当時は小清水と名乗っていたそうですが、昭和になって現在の『古清水』に変えたそうです。
敷地内に設置された昭和20年(1945)8月15日小田原空襲を伝える説明板。
被災炎上した地区は現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側。
焼失した家屋は約400軒、死者は12名。
右の写真は当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものだそうです。
古清水旅館のすぐ隣に明治天皇聖蹟(小田原市指定史跡)があります。
この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の掌握を行なっていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名・宮家などの宿泊にあてられたそうです。小田原宿なりわい交流館という無料休憩所でちょっと休憩して手前の道を海の方に入って行き一つ目の角を左に入ったところに籠静本店。道路向かいには駐車場があり、その奥には竜宮神社。由来は良く判りません。
西湘バイパスの道路下をくぐるトンネルがありその先は海。
海の潮風に当たりながらちょっと休憩。沖には漁船がチラホラ。
国道1号(東海道)に再び戻ります。
済生堂小西薬房(左画像)
創業寛永十年
小田原街かど博物館の幟が立っており、昔の調剤道具など歴史を学ぶ事ができます。ちょうど歩いていた前を小学生の集団(10名位)がノート片手に入っていきました。
一際目立つお城のような建物は外郎家の『ういろうと外郎博物館』です。
外郎といえば一時名古屋のういろうが有名になりましたが、こちらは本家本元、外郎(薬)を製造する外郎家(小田原)の来客用菓子として伝えられていたものが、明治以降に薬と共に販売されるようになったことで全国に広まったとそうです。
歩き始めて3時間午後1時もちょっと過ぎたので、小田原城城趾公園で観光しつつ昼食でも取ろうと思い、地元で有名なうす皮あんぱんの柳屋ベーカリーへ。
色々とアンパンの種類がある中からつぶあん、こしあん、ゆかり、もちもち胡麻あんを買って小田原城趾公園へ。
ここまでで投稿文字数制限が一杯!
投稿した画像は残り僅かなので本日は終了!
小田原城城趾公園の記事はまた、日を改めて
祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命
明応四年(1495)二月北条早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。その頃の山王神社は北条家の郭内で山王曲輪と呼ばれた海辺の袖の池の南袖ヶ薮にあったが、暴浪のため崩壊したので慶長18年(1923)9月18日に現在の場所に移ったそうです。以前の社地には星月夜の井戸というのがあり別名星月夜の杜とも呼ばれていたそうです。
寛永元年(1624)4月4日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内において星月夜の詩を詠んだそうで、詩は石碑に書かれています。
神社を過ぎてしばらくすると国道1号線の道路のこちら側と向こう側に『東海道 小田原宿』と書かれた塔が見えて来ます。
ここから先が小田原宿!
ちょっと一服したいと思いましたが、ライターがないのでここは我慢です。
この塔の先にある歩道橋の左右に江戸口見附並一里塚があり、左手の塚は塚らしく一段高くなっています。
右手の公民館脇にある江戸口見附並一里塚には小田原宿の解説板が設置されており、大正時代の江戸口見附付近の写真が掲載されていました。歩道橋の上から撮影した現在と比べると道は広く真っすぐになっていますし、沿道の街並も大きく変わっているのが判ります。
旧東海道の小田原宿内に入ると道の所々に旧町名を記した石柱があり、町名の由来が側面に刻まれています。
旧東海道は国道1号線の新宿交差点を左折して一つ目を右折した1号線と平行に走る道になります。
沿道には小田原名物の蒲鉾屋さんが軒を連ねてあり、再び国道1号と合流する付近では老舗の旅館が数件あります。
新宿町(解説の石柱)は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町で、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
鍋町(解説の石柱)は町の規模ははっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この名がついたといわれるそうです。
万町(解説の石柱)は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町名には七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には旅籠が五軒ほどあり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
高梨町(解説の石柱)は東海道から北へ向う甲州街道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ中宿町の上問屋場と十日交代で勤めていたそうです。
宮前町はすみません。解説をチェックし忘れました。
旧本陣(古清水旅館)です。
旅籠だった当時は小清水と名乗っていたそうですが、昭和になって現在の『古清水』に変えたそうです。
敷地内に設置された昭和20年(1945)8月15日小田原空襲を伝える説明板。
被災炎上した地区は現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側。
焼失した家屋は約400軒、死者は12名。
右の写真は当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものだそうです。
古清水旅館のすぐ隣に明治天皇聖蹟(小田原市指定史跡)があります。
この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の掌握を行なっていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名・宮家などの宿泊にあてられたそうです。小田原宿なりわい交流館という無料休憩所でちょっと休憩して手前の道を海の方に入って行き一つ目の角を左に入ったところに籠静本店。道路向かいには駐車場があり、その奥には竜宮神社。由来は良く判りません。
西湘バイパスの道路下をくぐるトンネルがありその先は海。
海の潮風に当たりながらちょっと休憩。沖には漁船がチラホラ。
国道1号(東海道)に再び戻ります。
済生堂小西薬房(左画像)
創業寛永十年
小田原街かど博物館の幟が立っており、昔の調剤道具など歴史を学ぶ事ができます。ちょうど歩いていた前を小学生の集団(10名位)がノート片手に入っていきました。
一際目立つお城のような建物は外郎家の『ういろうと外郎博物館』です。
外郎といえば一時名古屋のういろうが有名になりましたが、こちらは本家本元、外郎(薬)を製造する外郎家(小田原)の来客用菓子として伝えられていたものが、明治以降に薬と共に販売されるようになったことで全国に広まったとそうです。
歩き始めて3時間午後1時もちょっと過ぎたので、小田原城城趾公園で観光しつつ昼食でも取ろうと思い、地元で有名なうす皮あんぱんの柳屋ベーカリーへ。
色々とアンパンの種類がある中からつぶあん、こしあん、ゆかり、もちもち胡麻あんを買って小田原城趾公園へ。
ここまでで投稿文字数制限が一杯!
投稿した画像は残り僅かなので本日は終了!
小田原城城趾公園の記事はまた、日を改めて