さて、この何もない下草の茂った道もない場所はどこかというと、最近コメントを頂いた「なごむ」さんの話に出ていた三ツ沢の今は社殿もなく、入口の狛犬だけが残る山王神社。
横浜に買物に行く用事もあったので、ついでに散策して来ました。
今はないという情報を元に横浜市のサイトから過去の地図(昭和22年の地図)を探して見ると日枝神社というのが、第二中学校(現在の横浜翠嵐高校)の裏手に記載されており、昭和38年の地図には神社前の左右に通る道ができ、囲むように民家が建てられ、神社の記載がありませんので現在はないという条件に当てはまり、日枝神社と山王社は名前が違いますが、日枝山王社や山王日枝神社と呼ばれる事が多いので、多分間違いないと判断して場所をチェック。
先ずは現地で地図を確認。
現在地と目的地の方向と目印を確認。
今回は横浜翠嵐高校。高校の裏手ですので、横浜市戦没者慰霊塔を正面に見ながら右手に進み、高校の裏手を目指します。
場所を確認していた時に気付いたというか、気になったのが「三ツ沢貝塚」
横浜翠嵐高校の近くですので、神社を確認したあとに確認できれば良いと思い出発。
木々に覆われた石畳を抜けると広場の先に慰霊塔がそびえ立っています。
三ツ沢西町3-1
1953(昭和28)年3月、市民の募金により完成。
昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった多くの犠牲者の戦没者慰霊塔
「神奈川区ビューポイント36景」
「わが町かながわ50選」
住宅街を通る下り坂を途中幼稚園を左手に見ながら下り切り突き当たりを右に曲がり、左にゆるやかなカーブの先、右手にまっすぐな緩やかですが、爪先上がりの坂道があります。
多分昔は参道と呼ばれていた坂道なんでしょうね。
登り切った先にあるのが、今回の目的地「神社跡」。
手前の左右に伸びる道を造った時に地面を削ったのでしょうか、石段と段差ができており、登り口のない下草の生えた斜面を歩き石段へ。
石段手前には手水舎跡の水盤でしょうか、空き缶と雨水で一杯であるのは神社跡である事を物語ってました。
水盤に彫られた文字は長い間の風雨のためか、かすれており年代は不詳。
残った狛犬も右手の狛犬(狛犬阿形)の台座の石が崩れかけています。
敷地の広さや奥の民家の壁へ繋がる斜面を見る限りあまり大きな社殿ではなかったように思われます。
どちらかというと祠に近いようなサイズだったんでしょうかね?
昭和20年代に近所にお住まいの方であれば写真をお持ちかと思いますが・・・・・・。
さて神社がなくなったということですが、考えられる事として震災や戦災による社殿の焼失・崩壊後に再建されなかった場合や道路の拡張や新設に伴う移転が考えられますが、年代からして震災や戦災は考えられないので道路関係でしょうかね?
三ツ沢南町は古くは橘樹郡神奈川町大字青木で明治34年の横浜市編入の際に青木町大字三ツ沢となり、昭和7年の町界町名地番整理事業の施行で三ツ沢南町となっているので、村社は神奈川区青木町の洲崎神社でしょうからこの神社はひょっとして洲崎神社の末社だったのかも?
神奈川区神大寺町北原の日枝神社の管理元神社は洲崎神社ですから。
三ツ沢貝塚については最初に案内図で確認した場所には新築の住宅が数軒建てられており未確認。
《参考サイト》
地図
「横浜市三千分一地形図」三ツ沢
昭和4年7月測図/昭和22年4月製版
昭和38年10月修正
町名の変遷
「横浜の町名」平成8年12月 横浜市市民局発行
横浜に買物に行く用事もあったので、ついでに散策して来ました。
今はないという情報を元に横浜市のサイトから過去の地図(昭和22年の地図)を探して見ると日枝神社というのが、第二中学校(現在の横浜翠嵐高校)の裏手に記載されており、昭和38年の地図には神社前の左右に通る道ができ、囲むように民家が建てられ、神社の記載がありませんので現在はないという条件に当てはまり、日枝神社と山王社は名前が違いますが、日枝山王社や山王日枝神社と呼ばれる事が多いので、多分間違いないと判断して場所をチェック。
先ずは現地で地図を確認。
現在地と目的地の方向と目印を確認。
今回は横浜翠嵐高校。高校の裏手ですので、横浜市戦没者慰霊塔を正面に見ながら右手に進み、高校の裏手を目指します。
場所を確認していた時に気付いたというか、気になったのが「三ツ沢貝塚」
横浜翠嵐高校の近くですので、神社を確認したあとに確認できれば良いと思い出発。
木々に覆われた石畳を抜けると広場の先に慰霊塔がそびえ立っています。
三ツ沢西町3-1
1953(昭和28)年3月、市民の募金により完成。
昭和20年5月29日の横浜大空襲でなくなった多くの犠牲者の戦没者慰霊塔
「神奈川区ビューポイント36景」
「わが町かながわ50選」
住宅街を通る下り坂を途中幼稚園を左手に見ながら下り切り突き当たりを右に曲がり、左にゆるやかなカーブの先、右手にまっすぐな緩やかですが、爪先上がりの坂道があります。
多分昔は参道と呼ばれていた坂道なんでしょうね。
登り切った先にあるのが、今回の目的地「神社跡」。
手前の左右に伸びる道を造った時に地面を削ったのでしょうか、石段と段差ができており、登り口のない下草の生えた斜面を歩き石段へ。
石段手前には手水舎跡の水盤でしょうか、空き缶と雨水で一杯であるのは神社跡である事を物語ってました。
水盤に彫られた文字は長い間の風雨のためか、かすれており年代は不詳。
残った狛犬も右手の狛犬(狛犬阿形)の台座の石が崩れかけています。
敷地の広さや奥の民家の壁へ繋がる斜面を見る限りあまり大きな社殿ではなかったように思われます。
どちらかというと祠に近いようなサイズだったんでしょうかね?
昭和20年代に近所にお住まいの方であれば写真をお持ちかと思いますが・・・・・・。
さて神社がなくなったということですが、考えられる事として震災や戦災による社殿の焼失・崩壊後に再建されなかった場合や道路の拡張や新設に伴う移転が考えられますが、年代からして震災や戦災は考えられないので道路関係でしょうかね?
三ツ沢南町は古くは橘樹郡神奈川町大字青木で明治34年の横浜市編入の際に青木町大字三ツ沢となり、昭和7年の町界町名地番整理事業の施行で三ツ沢南町となっているので、村社は神奈川区青木町の洲崎神社でしょうからこの神社はひょっとして洲崎神社の末社だったのかも?
神奈川区神大寺町北原の日枝神社の管理元神社は洲崎神社ですから。
三ツ沢貝塚については最初に案内図で確認した場所には新築の住宅が数軒建てられており未確認。
《参考サイト》
地図
「横浜市三千分一地形図」三ツ沢
昭和4年7月測図/昭和22年4月製版
昭和38年10月修正
町名の変遷
「横浜の町名」平成8年12月 横浜市市民局発行