散策のスタートは小田急秦野駅。
まずは、一服しつつ本日のコース確認。
今泉名水桜公園の母屋から以前は富士山が見えていたんですが本日は富士山の方向に雲がかかっており残念ながら富士山は見えませんでした。
ここは秦野湧水群の一つで湧水群探索は本日の裏テーマ。
ついで訪れたのは今泉神社。
ご祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)と品陀和気命(ほむだわのみこと)
[今泉神社略史]によれば
社名について。
明治六年六月、今泉峯(現在の上町)に鎮座せる八幡宮を諏訪社に合祀し、今泉神社と改称した。現在なお、「お諏訪さま」と氏子に親しまれているのはこの地に諏訪社が祀ってあったからである。
諏訪社-創建年代は不詳なれど、古老の言い伝えによれば長禄年間、長野の諏訪大社より分祀し奉りて諏訪と称し、今泉村本分の鎮守とした。元禄年中、再建す。
八幡宮-創建年代は不詳なれど、『新編相模風土記稿』によれば今泉村峯に村社として鎮座し、神木の榎は現存しないが今泉の三榎の一つとして囲一丈八寸あったと記されている。天正十九年十一月、社領六石の御朱印と慶安四年十一月十九日、鵜殿藤助中畑一反一畝二十七歩を寄進した書状が残っている。
今泉神社は明治六年七月三十日、合祀により村社に列せられた。明治三十八年、火災に罹り全焼したが、氏子二百八十六戸の寄進により明治四十年に御社殿が再建された。
昭和三十七年向拝を築き、昭和五十四年、社殿屋根銅板葺替を行うなど数々の境内整備を行い現在に至っている。
以上
次は裏テーマの二つ目。南公民館の敷地内(屋外)にある湧水、「まいまいの泉」
上古の時代に作られた井戸「まいまいず井戸」にちなんた形で作られ、命名されたそうです。
水を飲むのは横にある蛇口から。ただし、消毒していないので自己責任だそうです。
裏テーマ二つ目。小藤川の湧水群。
はっきり言って地味です。案内の看板が目印で水音もしませんし、水量もそんなに豊富とも言えませんので一度来れば十分か?
白笹稲荷神社へ向かう途中の白笹橋手前にある公民館兼駒形宮。
石仏と石塔があったので立ち止まって撮影。
大きな鳥居がある白笹稲荷神社。
ご蔡神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと) と大宮売命 (おおみやめのみこと) 、猿田彦命 (さるたひこのみこと)。
ご由緒によれば
創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。
秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。
天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。
江戸時代初頭の頃の奉納物が残存しており、すでに民衆の信仰の篤かったことがうかがわれ、江戸時代中期には正一位の神璽を再祀し、屋敷神として早くも独立し、神社独自の定例の社頭訓話などのあったことも知られています。時代が下っては献詠歌などが定期的におこなわれ、文芸活動なども活発だったことがしのばれ、崇敬者の信仰により支えられて現代に及んでいます。
一貫田湧水という湧水あり。
両脇の狐は親子狐。
震生湖に向かう途中の高台からの眺め。
表丹沢の山々です。
震生湖到着。
震生湖は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災でこの付近は幅約200mにわたって陥没し市木沢(いちぎさわ)がせき止められ、誕生した湖。
今回は体力温存のため湖周辺を歩くことなく、ドリンク休憩をして次へ。
弁財天の横を抜ける丸太で槌止めされた階段を登ってコースに復帰。
駐車場からの眺めも良しです。
ここからはメインテーマの澁澤丘陵散策。
緑に囲まれた散策コースで、時より畑などの耕作地から遠景を眺められます。
30分ほど歩いて澁澤丘陵の散策は終了。
一気に視界が開けた感覚がして開放感を味わいました。
道道に石仏・石塔群があったり湧水っぽいものがあったり、小さな個人宅のような神社(栃窪稲荷)があったり。
中学校裏手には秋葉神社。
道路から一段下がった場所にあり、地図で神社があると知らなければ見過ごしてしまいそうな小さな社です。
地図を見ると一旦下に下った道から入るように見えましたが、通りからそのままお参りできました。
澁澤神社。
ご蔡神は大雀命(おおささぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)。
ご由緒によれば
「当社は建保六年十一月、鎌倉鶴岡八幡宮の若宮を当地に勧請し、氏神とした。古神札(棟札)に「河村菊千代殿代官稲毛越前守拝御百姓中之請助成奉造立一顆弘三歳己」、別の棟札に造営祈願文と元亀四癸酉年を蔵し、天正十九年、御朱印一石五斗を賜う。
天明の頃、御嶽社より須佐之男之命を勧請した。
明治六年、渋沢神社と改称し、平成元年四月、本殿、幣殿、拝殿を新築し正面石段及び境内石垣を整備し、更に狛犬等奉納され一新した。
以上」
境内から山道を下って鳥居をくぐって渋沢駅方面へ。
渋沢駅到着。
昨日も投稿しましたが、遅めの昼食を摂ろうと思いましたが、それらしきお店は見当たらずまずは一服。
仕方ないので海老名あたりで食事をしようと思い改札口へ向かいましたが反対側はどうかと思い直し、駅反対側で煙草を吸いながら検討。
喫煙所から落花生の文字が見えたので、とりあえずお土産として落花生を購入。
駅前ロータリーの歩道橋の上から眺めても食べ物屋さんらしきものも見えなかったのでそのまま帰宅。
まずは、一服しつつ本日のコース確認。
今泉名水桜公園の母屋から以前は富士山が見えていたんですが本日は富士山の方向に雲がかかっており残念ながら富士山は見えませんでした。
ここは秦野湧水群の一つで湧水群探索は本日の裏テーマ。
ついで訪れたのは今泉神社。
ご祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)と品陀和気命(ほむだわのみこと)
[今泉神社略史]によれば
社名について。
明治六年六月、今泉峯(現在の上町)に鎮座せる八幡宮を諏訪社に合祀し、今泉神社と改称した。現在なお、「お諏訪さま」と氏子に親しまれているのはこの地に諏訪社が祀ってあったからである。
諏訪社-創建年代は不詳なれど、古老の言い伝えによれば長禄年間、長野の諏訪大社より分祀し奉りて諏訪と称し、今泉村本分の鎮守とした。元禄年中、再建す。
八幡宮-創建年代は不詳なれど、『新編相模風土記稿』によれば今泉村峯に村社として鎮座し、神木の榎は現存しないが今泉の三榎の一つとして囲一丈八寸あったと記されている。天正十九年十一月、社領六石の御朱印と慶安四年十一月十九日、鵜殿藤助中畑一反一畝二十七歩を寄進した書状が残っている。
今泉神社は明治六年七月三十日、合祀により村社に列せられた。明治三十八年、火災に罹り全焼したが、氏子二百八十六戸の寄進により明治四十年に御社殿が再建された。
昭和三十七年向拝を築き、昭和五十四年、社殿屋根銅板葺替を行うなど数々の境内整備を行い現在に至っている。
以上
次は裏テーマの二つ目。南公民館の敷地内(屋外)にある湧水、「まいまいの泉」
上古の時代に作られた井戸「まいまいず井戸」にちなんた形で作られ、命名されたそうです。
水を飲むのは横にある蛇口から。ただし、消毒していないので自己責任だそうです。
裏テーマ二つ目。小藤川の湧水群。
はっきり言って地味です。案内の看板が目印で水音もしませんし、水量もそんなに豊富とも言えませんので一度来れば十分か?
白笹稲荷神社へ向かう途中の白笹橋手前にある公民館兼駒形宮。
石仏と石塔があったので立ち止まって撮影。
大きな鳥居がある白笹稲荷神社。
ご蔡神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと) と大宮売命 (おおみやめのみこと) 、猿田彦命 (さるたひこのみこと)。
ご由緒によれば
創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。
秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。
天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。
江戸時代初頭の頃の奉納物が残存しており、すでに民衆の信仰の篤かったことがうかがわれ、江戸時代中期には正一位の神璽を再祀し、屋敷神として早くも独立し、神社独自の定例の社頭訓話などのあったことも知られています。時代が下っては献詠歌などが定期的におこなわれ、文芸活動なども活発だったことがしのばれ、崇敬者の信仰により支えられて現代に及んでいます。
一貫田湧水という湧水あり。
両脇の狐は親子狐。
震生湖に向かう途中の高台からの眺め。
表丹沢の山々です。
震生湖到着。
震生湖は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災でこの付近は幅約200mにわたって陥没し市木沢(いちぎさわ)がせき止められ、誕生した湖。
今回は体力温存のため湖周辺を歩くことなく、ドリンク休憩をして次へ。
弁財天の横を抜ける丸太で槌止めされた階段を登ってコースに復帰。
駐車場からの眺めも良しです。
ここからはメインテーマの澁澤丘陵散策。
緑に囲まれた散策コースで、時より畑などの耕作地から遠景を眺められます。
30分ほど歩いて澁澤丘陵の散策は終了。
一気に視界が開けた感覚がして開放感を味わいました。
道道に石仏・石塔群があったり湧水っぽいものがあったり、小さな個人宅のような神社(栃窪稲荷)があったり。
中学校裏手には秋葉神社。
道路から一段下がった場所にあり、地図で神社があると知らなければ見過ごしてしまいそうな小さな社です。
地図を見ると一旦下に下った道から入るように見えましたが、通りからそのままお参りできました。
澁澤神社。
ご蔡神は大雀命(おおささぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)。
ご由緒によれば
「当社は建保六年十一月、鎌倉鶴岡八幡宮の若宮を当地に勧請し、氏神とした。古神札(棟札)に「河村菊千代殿代官稲毛越前守拝御百姓中之請助成奉造立一顆弘三歳己」、別の棟札に造営祈願文と元亀四癸酉年を蔵し、天正十九年、御朱印一石五斗を賜う。
天明の頃、御嶽社より須佐之男之命を勧請した。
明治六年、渋沢神社と改称し、平成元年四月、本殿、幣殿、拝殿を新築し正面石段及び境内石垣を整備し、更に狛犬等奉納され一新した。
以上」
境内から山道を下って鳥居をくぐって渋沢駅方面へ。
渋沢駅到着。
昨日も投稿しましたが、遅めの昼食を摂ろうと思いましたが、それらしきお店は見当たらずまずは一服。
仕方ないので海老名あたりで食事をしようと思い改札口へ向かいましたが反対側はどうかと思い直し、駅反対側で煙草を吸いながら検討。
喫煙所から落花生の文字が見えたので、とりあえずお土産として落花生を購入。
駅前ロータリーの歩道橋の上から眺めても食べ物屋さんらしきものも見えなかったのでそのまま帰宅。