このまえ、ビデオで、
「魔法使いに大切なこと」という、
アニメを見ました。
このアニメでは、
魔法(まほう)という手段が、
一般的に認(みと)められていて、
国として、公的に、
魔法を使う機関(きかん)があって、
魔法使いが、公務員として、
働いているという設定になっています。
区役所みたいな、公的な場所には、
魔法課(まほうか)という課があって、
そこに行って、
魔法を使ってほしい!と頼(たの)み、
正式にお金を払うと、
その人の望みの魔法を、
魔法士が、かけてくれるという、
仕組みになっています。
だから、魔法は、
かってに使ってはいけないことになっていて、
正式に国家の試験を受けて、
魔法士として、認定(にんてい)されないと、
魔法を、使えないという、
仕組(しく)みになっています。
それで、主人公たちは、
魔法士になるために、
正式な魔法士の仕官(しかん)に付いて、
研修(けんしゅう)を受けるという話しです。
その中で、
試験に合格できなくて、
正式な魔法使いになれなかった、
魔法使いが、出てきて、
その落ち込んだ、卑屈(ひくつ)な姿を見ていて、
同じ魔法士の研修を受けている、
主人公の友達が、
「人と、比(くら)べるなんて、最低だ!!」
と、言っていた。
実力がないのが、最低なのではない。
『人と、くらべる』のが、最低だ!
と、言うのだ。
ちょっと、スルドイ!と思った。
自分にベストを、尽(つ)くして、
なんで?卑屈(ひくつ)になる必要が、ある?
なんで、人と比(くら)べてしか、
ものごとを、判断できないのか?
そこに、人間の持つ、
ある種の弱みが、あるような気がした。
釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]、ブッダ)が、
残した名言がある。
釈尊は、言った。
『私は、人の中に、
抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
刺(さ)さっているのを、見た!』
その抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)とは、
『差異(さい)への、こだわり』です。
差異(さい)への、こだわり!
すなわち、人と自分との違(ちが)い。
人と自分を、比(くら)べてしまう。
人と自分とを、比べる、
強烈(きょうれつ)な、差別意識!
ここから、さまざまな争(あらそ)いが、生まれ、
ここから、あらゆる不幸が、生まれる。
人間に競争心は、必要だ。
けれど、『差異(さい)への、こだわり』という、
抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
ささっているかぎり、
人間に、安穏(あんのん)と幸せを、
もたらすことは、できない!のも、
事実だと、思う。
このアニメの魔法使いは、
「人と比(くら)べるなんて、最低!」
と、言った。
考えてみたら、
もし、人と比べなかったら、
まったく、卑屈(ひくつ)になる必要は、ないはずだ。
卑屈の原因は、
人と、比べることにある!
これが、『差異への、こだわり!』だと思う。
では、人間に、突(つ)き刺(さ)さった、
「差異(さい)への、こだわり」という、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くためには、
どうしたら、いいのだろうか?
ここに、重要な問題がある!
差異への、こだわりを、
協調(きょうちょう)に変え、
差異への、こだわりを、
個性を、尊敬しあう、
尊重(そんちょう)の心に、変えていく。
口で言うのは、簡単だけれど、
実際にやるのは、難(むずか)しい。
なぜなら、それができていたら、
戦争は、無くなっていたし、
戦争は、起こらないはずだからです。
人間は、いまだ戦争を、続けている。
それは、いまだに、
差異への、ごたわりに、
執着(しゅうちゃく)しているからだと思う。
差異への、こだわりは、
おそらく、人を否定(ひてい)するのみならず、
自分自身も、否定してしまう。
なぜなら、差異に執着するかぎり、
心が、安まることはないし、
そこから生まれるのは、
破壊(はかい)しかないからです。
差異へのこだわりは、
卑下(ひげ)の心を呼び、絶望を生む。
差異へのこだわりは、
嫉妬(しっと)をもたらし、憎しみを呼ぶ。
差異へのこだわりは、
敵対心(てきたいしん)をもたらし、争いを引き起こす。
自分に対しても、人に対しても、
破壊は、永遠に続く・・。
なぜ?そうなってしまうのだろう・・・。
それは、自分が、本来、
『根源的(こんげんてき)に、最高に素晴らしくて、
最高に偉大(いだい)で、最高に魅力があり、
欠(か)くことのできない、
大切な尊(とうと)い存在なんだ!』
ということが、わかっていないからだと思う。
自分の尊厳性(そんげんせい)が、わからないから、
人の尊厳性も、理解することが、できない!
それが、
『差異への、こだわり』だと思う。
この自分の、
あるいは、人間の、
究極(きゅうきょく)の尊厳性を、
本当に理解することを、望むならば、
方法は、一つしか、ない!
それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。
これ以外、絶対にない!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
創価学会の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』・・・。
この、『南無妙法蓮華経』は、
すべての人間の中にある、
最高に偉大で、最高に尊(とうと)い生命であり、
また、南無妙法蓮華経は、
人間の最高最大の、尊厳性(そんげんせい)を、
無限に凝縮(ぎょうしゅく)した
エネルギーのようなものだと思う。
人間の中にある、
最も偉大な、生命エネルギー・・!
心と体から湧(わ)き上がる、
無限の勇気と無限の希望、
無限の歓喜(かんき)・・!
無限の知恵と無限の幸福!
どんな困難(こんなん)も
撥(は)ねのけていける輝(かがや)きを
持った生命であり、
心の状態(じょうたい)・・!
それが、『南無妙法蓮華経』だと思うけれど、
その、最高に尊(とうと)い生命である、
『南無妙法蓮華経』は、
すべての人の中にある・・!
だから、自(みずか)ら、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
南無妙法蓮華経が、
人間の尊厳性を、無限に凝縮(ぎょうしゅく)した、
エネルギーであるがゆえに、
自分の中から、
偉大なる生命の尊厳性が、開花し、
また、自分で、
自分の生命の偉大さと、尊厳(そんげん)を、
感じることが、できるようになる。
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分で、自分の生命の尊厳と偉大さを、
感じることが、できれば、
当然の結果として、
人の中にも、生命の尊厳と偉大さを、
感じることができ、
また、見ることができる!
そうなれば、結果として、
争(あらそ)いは、なくなっていく!
自分も、他の人も、
同じように、尊厳と偉大さ、
あふれる生命だからです!
それが、自分の生命で、
わかるようになるから、
南無妙法蓮華経は、すごい!!
だから、創価学会は、
世界192ヶ国に、ひろがり、
世界中に、平和の和を、広げ、
幸福を、もたらし、
世界中の有識者たちから、
絶大な共感(きょうかん)と期待をもって、
絶賛されている!!
そこには、
「差異への、こだわり」は、無い!
世界を、一つに、つなぐ、
共感と歓喜(かんき)の和が、ひろがるだけだ!
だから「差異への、こだわり」という、
人間に、突き刺(つきさ)さった、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くには、
どうしたら、いいかと言えば、
生命の次元(じげん)から見ても、現実生活から見ても、
結果として、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
以外には、ない!!!と、
明確に、断言(だんげん)することが、できる・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
「魔法使いに大切なこと」という、
アニメを見ました。
このアニメでは、
魔法(まほう)という手段が、
一般的に認(みと)められていて、
国として、公的に、
魔法を使う機関(きかん)があって、
魔法使いが、公務員として、
働いているという設定になっています。
区役所みたいな、公的な場所には、
魔法課(まほうか)という課があって、
そこに行って、
魔法を使ってほしい!と頼(たの)み、
正式にお金を払うと、
その人の望みの魔法を、
魔法士が、かけてくれるという、
仕組みになっています。
だから、魔法は、
かってに使ってはいけないことになっていて、
正式に国家の試験を受けて、
魔法士として、認定(にんてい)されないと、
魔法を、使えないという、
仕組(しく)みになっています。
それで、主人公たちは、
魔法士になるために、
正式な魔法士の仕官(しかん)に付いて、
研修(けんしゅう)を受けるという話しです。
その中で、
試験に合格できなくて、
正式な魔法使いになれなかった、
魔法使いが、出てきて、
その落ち込んだ、卑屈(ひくつ)な姿を見ていて、
同じ魔法士の研修を受けている、
主人公の友達が、
「人と、比(くら)べるなんて、最低だ!!」
と、言っていた。
実力がないのが、最低なのではない。
『人と、くらべる』のが、最低だ!
と、言うのだ。
ちょっと、スルドイ!と思った。
自分にベストを、尽(つ)くして、
なんで?卑屈(ひくつ)になる必要が、ある?
なんで、人と比(くら)べてしか、
ものごとを、判断できないのか?
そこに、人間の持つ、
ある種の弱みが、あるような気がした。
釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]、ブッダ)が、
残した名言がある。
釈尊は、言った。
『私は、人の中に、
抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
刺(さ)さっているのを、見た!』
その抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)とは、
『差異(さい)への、こだわり』です。
差異(さい)への、こだわり!
すなわち、人と自分との違(ちが)い。
人と自分を、比(くら)べてしまう。
人と自分とを、比べる、
強烈(きょうれつ)な、差別意識!
ここから、さまざまな争(あらそ)いが、生まれ、
ここから、あらゆる不幸が、生まれる。
人間に競争心は、必要だ。
けれど、『差異(さい)への、こだわり』という、
抜(ぬ)きがたき一本の矢(や)が、
ささっているかぎり、
人間に、安穏(あんのん)と幸せを、
もたらすことは、できない!のも、
事実だと、思う。
このアニメの魔法使いは、
「人と比(くら)べるなんて、最低!」
と、言った。
考えてみたら、
もし、人と比べなかったら、
まったく、卑屈(ひくつ)になる必要は、ないはずだ。
卑屈の原因は、
人と、比べることにある!
これが、『差異への、こだわり!』だと思う。
では、人間に、突(つ)き刺(さ)さった、
「差異(さい)への、こだわり」という、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くためには、
どうしたら、いいのだろうか?
ここに、重要な問題がある!
差異への、こだわりを、
協調(きょうちょう)に変え、
差異への、こだわりを、
個性を、尊敬しあう、
尊重(そんちょう)の心に、変えていく。
口で言うのは、簡単だけれど、
実際にやるのは、難(むずか)しい。
なぜなら、それができていたら、
戦争は、無くなっていたし、
戦争は、起こらないはずだからです。
人間は、いまだ戦争を、続けている。
それは、いまだに、
差異への、ごたわりに、
執着(しゅうちゃく)しているからだと思う。
差異への、こだわりは、
おそらく、人を否定(ひてい)するのみならず、
自分自身も、否定してしまう。
なぜなら、差異に執着するかぎり、
心が、安まることはないし、
そこから生まれるのは、
破壊(はかい)しかないからです。
差異へのこだわりは、
卑下(ひげ)の心を呼び、絶望を生む。
差異へのこだわりは、
嫉妬(しっと)をもたらし、憎しみを呼ぶ。
差異へのこだわりは、
敵対心(てきたいしん)をもたらし、争いを引き起こす。
自分に対しても、人に対しても、
破壊は、永遠に続く・・。
なぜ?そうなってしまうのだろう・・・。
それは、自分が、本来、
『根源的(こんげんてき)に、最高に素晴らしくて、
最高に偉大(いだい)で、最高に魅力があり、
欠(か)くことのできない、
大切な尊(とうと)い存在なんだ!』
ということが、わかっていないからだと思う。
自分の尊厳性(そんげんせい)が、わからないから、
人の尊厳性も、理解することが、できない!
それが、
『差異への、こだわり』だと思う。
この自分の、
あるいは、人間の、
究極(きゅうきょく)の尊厳性を、
本当に理解することを、望むならば、
方法は、一つしか、ない!
それが、
創価学会が実践(じっせん)している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。
これ以外、絶対にない!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
創価学会の人たちが、
日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』・・・。
この、『南無妙法蓮華経』は、
すべての人間の中にある、
最高に偉大で、最高に尊(とうと)い生命であり、
また、南無妙法蓮華経は、
人間の最高最大の、尊厳性(そんげんせい)を、
無限に凝縮(ぎょうしゅく)した
エネルギーのようなものだと思う。
人間の中にある、
最も偉大な、生命エネルギー・・!
心と体から湧(わ)き上がる、
無限の勇気と無限の希望、
無限の歓喜(かんき)・・!
無限の知恵と無限の幸福!
どんな困難(こんなん)も
撥(は)ねのけていける輝(かがや)きを
持った生命であり、
心の状態(じょうたい)・・!
それが、『南無妙法蓮華経』だと思うけれど、
その、最高に尊(とうと)い生命である、
『南無妙法蓮華経』は、
すべての人の中にある・・!
だから、自(みずか)ら、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
南無妙法蓮華経が、
人間の尊厳性を、無限に凝縮(ぎょうしゅく)した、
エネルギーであるがゆえに、
自分の中から、
偉大なる生命の尊厳性が、開花し、
また、自分で、
自分の生命の偉大さと、尊厳(そんげん)を、
感じることが、できるようになる。
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
自分で、自分の生命の尊厳と偉大さを、
感じることが、できれば、
当然の結果として、
人の中にも、生命の尊厳と偉大さを、
感じることができ、
また、見ることができる!
そうなれば、結果として、
争(あらそ)いは、なくなっていく!
自分も、他の人も、
同じように、尊厳と偉大さ、
あふれる生命だからです!
それが、自分の生命で、
わかるようになるから、
南無妙法蓮華経は、すごい!!
だから、創価学会は、
世界192ヶ国に、ひろがり、
世界中に、平和の和を、広げ、
幸福を、もたらし、
世界中の有識者たちから、
絶大な共感(きょうかん)と期待をもって、
絶賛されている!!
そこには、
「差異への、こだわり」は、無い!
世界を、一つに、つなぐ、
共感と歓喜(かんき)の和が、ひろがるだけだ!
だから「差異への、こだわり」という、
人間に、突き刺(つきさ)さった、
抜(ぬ)きがたき矢(や)を、抜くには、
どうしたら、いいかと言えば、
生命の次元(じげん)から見ても、現実生活から見ても、
結果として、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
以外には、ない!!!と、
明確に、断言(だんげん)することが、できる・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・