中国では、
大変な尊敬(そんけい)を集めている、
大指導者、
周恩来(しゅうおんらい)総理の名前は、
歴史などで、知っている人も
多いと思う。
その周恩来総理は、
1972年、日中国交正常化を
実現させた。
日中国交正常化というと、
日本では、表面上は、
その時の総理だった、
田中角栄氏が実現させたように
言われているけれど、
実情(じつじょう)は違っている。
田中角栄総理は、
お膳立(おぜんだて)が、
すべて整(ととの)えられて、
最後に調印(ちょういん)にサインしたと
いうことだけで、
実際(じっさい)は、
日中国交正常化のために
努力してきた人たちが、別にいる。
その日中国交正常化に尽力(じんりょく)した、
大功労者(だいこうろうしゃ)が、
創価学会インターナショナル会長である、
池田大作先生だと、言える。
当時、中国の周恩来総理は、
民間交流の着実(ちゃくじつ)な
積(つ)み重(かさ)ねの上に、
国家関係の改善(かいぜん)を
図(はか)ろうとしていた。
『民(たみ)を似(もっ)て、
官(かん)を促(うなが)す。』
それが、周恩来総理の
外交哲学(がいこうてつがく)であった。
そして、その哲学は、
対日政策(たいにちせいさく)にも
適用(てきよう)された。
周総理は、
「大衆の中に基盤(きばん)を持つ団体」として、
「創価学会(そうかがっかい)」に
早くから注目していた。
1960年代前半のことである。
それは、池田先生が、
創価学会第3代会長に就任(しゅうにん)し、
日本を左右する社会的勢力(せいりょく)へ、
大発展する時期である。
周総理は、対日政策(せいさく)の関係者に、
創価学会の研究を指示(しじ)した。
また、そのころ、
相次(あいつ)いで訪中(ほうちゅう)した、
中国との友好を志(こころざ)す、
松村謙三氏、高崎達之助氏が、
周総理に、
創価学会を好意的に紹介した。
一方、SGI(創価学会インターナショナル)会長の
池田先生は、1961年、
東京・両国支部の結成大会で、
中国の国連復帰(こくれんふっき)を提唱(ていしょう)。
1964年の11月、
公明党結党にあたっては、
「創立者からの唯一(ゆいいつ)のお願い」として、
日中国交正常化への
努力を促(うなが)した。
1966年5月には、
作家の有吉佐和子氏を介(かい)して、
『中国にご招待(しょうたい)します。』
との周恩来総理の伝言が、
SGI池田会長に伝えられる。
そして、周総理の信頼を
決定づける出来事が起った。
1968年9月8日、
東京・日大講堂で、
池田先生は、
1万数千人の青年を前に、
『日中国交正常化提言』を行った。
当時、反対勢力(はんたいせいりょく)もあり、
日本と中国の関係は、
厳(きび)しいものがあった。
そういう意味で、
国交正常化を提言(ていげん)することは、
自分の身に危険がおよぶ
可能性もあった。
その中での提言である。
日中国交正常化を望む、
友好の先達(せんだつ)である
松村謙三氏は、
『百万力の力を得た!』
と語っています。
そして、1972年、
日中国交正常化は、実現していく。
そして、後に、
1974年、
池田先生と周恩来総理は、
会見する。
その当時、
周恩来総理の病状は、
大変悪化していて、
きびしい状態にあった。
1974年12月5日、
場所は北京(ぺきん)の305病院。
周総理の入院先は
機密事項(きみつじこう)で、
池田SGI会長は後に、
そこが病院だったことを知る。
その日の午前、
池田SGI会長は、
トウ小平(とうしょうへい)副総理に会っている。
中国側が
池田SGI会長を最大に
遇(ぐう)した表(あらわ)れだが、
同時にそれは、
総理自身には会えないことを
意味していた。
しかし、12月5日夜の
答礼宴(とうれいえん)の席上、
中日友好協会の廖承志(りょうしょうし)会長が、
そっと告(つ)げた。
「池田会長、
周恩来総理が、待っておられます。」
それは、周総理自身の
強い意向(いこう)であることは、
明らかであった。
SGI池田会長は、
総理の健康を心配し、
いったんは固辞(こじ)するが、
「それでは2、3分だけ。
ひと目お会いしたら、失礼をさせてください」
と、車上(しゃじょう)の人となった。
実は、その時、
周総理は、
『会見するなら命の保証(ほしょう)はできない!』
と医師団に、
猛(もう)反対されていた。
だか、総理は、
『どんなことがあっても会わねばならない!!』
と譲(ゆず)らない。
「周恩来同志(どうし)がそこまで言うのなら・・!」
というトウ頴超婦人(とうえいちょう/周総理夫人)の
進言(しんげん)によって、
『5分だけ』
との条件付きで、
認められたのである。
会見上には、
池田SGI会長と香峯子婦人(かねこ/池田会長夫人)
だけが入った。
総理を疲(つか)れさせないよう、
SGI会長が、
そう希望したのである。
「池田会長とは、
どうしてもお会いしたいと
思っていました。
お会いできて本当にうれしい。」
「池田会長は、
中日両国人民の友好関係の発展は、
どんなことをしても必要である
ということを、
何度も提唱(ていしょう)されている。
そのことが私にはとてもうれしい。」
池田会長は、答える。
「中日友好が今日まで発展できたのは、
私たち双方(そうほう)の
努力の成果(せいか)であり、
そして、私たちは、
その努力をこれからも
続けて行くことを希望します。」
時に総理76歳、
SGI池田会長46歳。
「あなたが若いからこそ、
大事に付き合いたいのです。」
総理は言った。
語らいは終始、
和(なご)やかに進んだ。
「そろそろお休みください。」
と書かれた医師団からの
メモが総理に渡された。
総理は、メモを制(せい)して
話しを続けた。
「ご出身はどちらですか」
「東京です」
とSGI会長。
香峯子夫人も
「東京です」
SGI会長が
「二人で一人前です」
と付け加えると、
呵々大笑(かかたいしょう)する総理であった。
だか、中日の未来について語る時、
その目は鋭(するど)かった。
「中日平和友好条約の
早期締結(ていけつ)を希望します。」
「20世紀の最後の25年間は、
世界にとって最も大事な時期です。
お互(たが)いに平等な立場で、
助け合い、
努力しましょう。」
池田SGI会長は、それを
総理の『遺言(ゆいごん)』
と受け止めた。
医師団が、5分だけと
条件をつけて認められて会見は、
周総理の意向(いこう)によって、
30分に及(およ)んだ。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
会見の後、池田SGI会長が、
日中のために
最も心血(しんけつ)を注(そそ)いだのは、
青年交流だった。
創価大学に、
国交正常化後初の国費留学生を受け入れ、
その後、
創大に学んだ留学生の中から、
友好を担(にな)う
多くの指導者が育った。
創大と中国の各大学との
教員・留学生の交換(こうかん)、
全青連(中華全国青年連合会)と
創価学会青年部の相互交流(そうごこうりゅう)。
・・・その池田会長が築(きず)いた
『金の橋』を渡(わた)って、
無数の若い友情が生まれた。
思えば周総理も、
日本に遊学(ゆうがく)し、
青雲(せいうん)の志(こころざし)を
燃やした一人である。
「五十数年前、私は、
桜の咲(さ)くころに
日本を発(た)ちました・・・」
会見で総理は、日本留学の日々を、
懐(なつ)かしそうに振(ふ)り返った。
周総理の来日は大正年代。
中国人への強い差別(さべつ)にさらせれ、
抗日(こうにち)運動にも
関(かか)わっている。
だが、その後の総理の
日本へのまなざしには、
鋭(するど)い分析(ぶんせき)の一方で、
温かいものが通(かよ)っている。
その感情の源(みなもと)には、
日本の庶民(しょみん)との
触(ふ)れ合いがあった。
異国(いこく)から来た
貧(まず)しい周青年に、
何かと世話(せわ)を焼いてくれる
下宿(げしゅく)のおばちゃんがいた。
「お腹(はら)がすいてるでしょう?」
と、いつも、
ご飯(はん)をごちそうしてくれた。
「とくに、その中の
豆腐(とうふ)を使った料理が、
じつにおいしかった。」
「下宿に帰って、
そのあばちゃんと話すとホッとした。」
周総理が、日本の友人に
語ったエピソードである。
人間と人間との、
温かな触(ふ)れ合いのひとしずくが集まって、
やがて国と国の
友好の大海へと注(そそ)ぐ。
凪(なぎ)の時も、
嵐(あらし)の時も、
そのひとしずくに思いをはせたい。
大衆の中で、大衆とともに - - -
周総理が残し、
池田SGI会長が受け継(つ)ぎ、
広げてきた、
友好の、
永遠の基盤(きばん)である・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
大変な尊敬(そんけい)を集めている、
大指導者、
周恩来(しゅうおんらい)総理の名前は、
歴史などで、知っている人も
多いと思う。
その周恩来総理は、
1972年、日中国交正常化を
実現させた。
日中国交正常化というと、
日本では、表面上は、
その時の総理だった、
田中角栄氏が実現させたように
言われているけれど、
実情(じつじょう)は違っている。
田中角栄総理は、
お膳立(おぜんだて)が、
すべて整(ととの)えられて、
最後に調印(ちょういん)にサインしたと
いうことだけで、
実際(じっさい)は、
日中国交正常化のために
努力してきた人たちが、別にいる。
その日中国交正常化に尽力(じんりょく)した、
大功労者(だいこうろうしゃ)が、
創価学会インターナショナル会長である、
池田大作先生だと、言える。
当時、中国の周恩来総理は、
民間交流の着実(ちゃくじつ)な
積(つ)み重(かさ)ねの上に、
国家関係の改善(かいぜん)を
図(はか)ろうとしていた。
『民(たみ)を似(もっ)て、
官(かん)を促(うなが)す。』
それが、周恩来総理の
外交哲学(がいこうてつがく)であった。
そして、その哲学は、
対日政策(たいにちせいさく)にも
適用(てきよう)された。
周総理は、
「大衆の中に基盤(きばん)を持つ団体」として、
「創価学会(そうかがっかい)」に
早くから注目していた。
1960年代前半のことである。
それは、池田先生が、
創価学会第3代会長に就任(しゅうにん)し、
日本を左右する社会的勢力(せいりょく)へ、
大発展する時期である。
周総理は、対日政策(せいさく)の関係者に、
創価学会の研究を指示(しじ)した。
また、そのころ、
相次(あいつ)いで訪中(ほうちゅう)した、
中国との友好を志(こころざ)す、
松村謙三氏、高崎達之助氏が、
周総理に、
創価学会を好意的に紹介した。
一方、SGI(創価学会インターナショナル)会長の
池田先生は、1961年、
東京・両国支部の結成大会で、
中国の国連復帰(こくれんふっき)を提唱(ていしょう)。
1964年の11月、
公明党結党にあたっては、
「創立者からの唯一(ゆいいつ)のお願い」として、
日中国交正常化への
努力を促(うなが)した。
1966年5月には、
作家の有吉佐和子氏を介(かい)して、
『中国にご招待(しょうたい)します。』
との周恩来総理の伝言が、
SGI池田会長に伝えられる。
そして、周総理の信頼を
決定づける出来事が起った。
1968年9月8日、
東京・日大講堂で、
池田先生は、
1万数千人の青年を前に、
『日中国交正常化提言』を行った。
当時、反対勢力(はんたいせいりょく)もあり、
日本と中国の関係は、
厳(きび)しいものがあった。
そういう意味で、
国交正常化を提言(ていげん)することは、
自分の身に危険がおよぶ
可能性もあった。
その中での提言である。
日中国交正常化を望む、
友好の先達(せんだつ)である
松村謙三氏は、
『百万力の力を得た!』
と語っています。
そして、1972年、
日中国交正常化は、実現していく。
そして、後に、
1974年、
池田先生と周恩来総理は、
会見する。
その当時、
周恩来総理の病状は、
大変悪化していて、
きびしい状態にあった。
1974年12月5日、
場所は北京(ぺきん)の305病院。
周総理の入院先は
機密事項(きみつじこう)で、
池田SGI会長は後に、
そこが病院だったことを知る。
その日の午前、
池田SGI会長は、
トウ小平(とうしょうへい)副総理に会っている。
中国側が
池田SGI会長を最大に
遇(ぐう)した表(あらわ)れだが、
同時にそれは、
総理自身には会えないことを
意味していた。
しかし、12月5日夜の
答礼宴(とうれいえん)の席上、
中日友好協会の廖承志(りょうしょうし)会長が、
そっと告(つ)げた。
「池田会長、
周恩来総理が、待っておられます。」
それは、周総理自身の
強い意向(いこう)であることは、
明らかであった。
SGI池田会長は、
総理の健康を心配し、
いったんは固辞(こじ)するが、
「それでは2、3分だけ。
ひと目お会いしたら、失礼をさせてください」
と、車上(しゃじょう)の人となった。
実は、その時、
周総理は、
『会見するなら命の保証(ほしょう)はできない!』
と医師団に、
猛(もう)反対されていた。
だか、総理は、
『どんなことがあっても会わねばならない!!』
と譲(ゆず)らない。
「周恩来同志(どうし)がそこまで言うのなら・・!」
というトウ頴超婦人(とうえいちょう/周総理夫人)の
進言(しんげん)によって、
『5分だけ』
との条件付きで、
認められたのである。
会見上には、
池田SGI会長と香峯子婦人(かねこ/池田会長夫人)
だけが入った。
総理を疲(つか)れさせないよう、
SGI会長が、
そう希望したのである。
「池田会長とは、
どうしてもお会いしたいと
思っていました。
お会いできて本当にうれしい。」
「池田会長は、
中日両国人民の友好関係の発展は、
どんなことをしても必要である
ということを、
何度も提唱(ていしょう)されている。
そのことが私にはとてもうれしい。」
池田会長は、答える。
「中日友好が今日まで発展できたのは、
私たち双方(そうほう)の
努力の成果(せいか)であり、
そして、私たちは、
その努力をこれからも
続けて行くことを希望します。」
時に総理76歳、
SGI池田会長46歳。
「あなたが若いからこそ、
大事に付き合いたいのです。」
総理は言った。
語らいは終始、
和(なご)やかに進んだ。
「そろそろお休みください。」
と書かれた医師団からの
メモが総理に渡された。
総理は、メモを制(せい)して
話しを続けた。
「ご出身はどちらですか」
「東京です」
とSGI会長。
香峯子夫人も
「東京です」
SGI会長が
「二人で一人前です」
と付け加えると、
呵々大笑(かかたいしょう)する総理であった。
だか、中日の未来について語る時、
その目は鋭(するど)かった。
「中日平和友好条約の
早期締結(ていけつ)を希望します。」
「20世紀の最後の25年間は、
世界にとって最も大事な時期です。
お互(たが)いに平等な立場で、
助け合い、
努力しましょう。」
池田SGI会長は、それを
総理の『遺言(ゆいごん)』
と受け止めた。
医師団が、5分だけと
条件をつけて認められて会見は、
周総理の意向(いこう)によって、
30分に及(およ)んだ。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
会見の後、池田SGI会長が、
日中のために
最も心血(しんけつ)を注(そそ)いだのは、
青年交流だった。
創価大学に、
国交正常化後初の国費留学生を受け入れ、
その後、
創大に学んだ留学生の中から、
友好を担(にな)う
多くの指導者が育った。
創大と中国の各大学との
教員・留学生の交換(こうかん)、
全青連(中華全国青年連合会)と
創価学会青年部の相互交流(そうごこうりゅう)。
・・・その池田会長が築(きず)いた
『金の橋』を渡(わた)って、
無数の若い友情が生まれた。
思えば周総理も、
日本に遊学(ゆうがく)し、
青雲(せいうん)の志(こころざし)を
燃やした一人である。
「五十数年前、私は、
桜の咲(さ)くころに
日本を発(た)ちました・・・」
会見で総理は、日本留学の日々を、
懐(なつ)かしそうに振(ふ)り返った。
周総理の来日は大正年代。
中国人への強い差別(さべつ)にさらせれ、
抗日(こうにち)運動にも
関(かか)わっている。
だが、その後の総理の
日本へのまなざしには、
鋭(するど)い分析(ぶんせき)の一方で、
温かいものが通(かよ)っている。
その感情の源(みなもと)には、
日本の庶民(しょみん)との
触(ふ)れ合いがあった。
異国(いこく)から来た
貧(まず)しい周青年に、
何かと世話(せわ)を焼いてくれる
下宿(げしゅく)のおばちゃんがいた。
「お腹(はら)がすいてるでしょう?」
と、いつも、
ご飯(はん)をごちそうしてくれた。
「とくに、その中の
豆腐(とうふ)を使った料理が、
じつにおいしかった。」
「下宿に帰って、
そのあばちゃんと話すとホッとした。」
周総理が、日本の友人に
語ったエピソードである。
人間と人間との、
温かな触(ふ)れ合いのひとしずくが集まって、
やがて国と国の
友好の大海へと注(そそ)ぐ。
凪(なぎ)の時も、
嵐(あらし)の時も、
そのひとしずくに思いをはせたい。
大衆の中で、大衆とともに - - -
周総理が残し、
池田SGI会長が受け継(つ)ぎ、
広げてきた、
友好の、
永遠の基盤(きばん)である・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・