なんか、頑張れる気がする言葉です。
かの、渋沢栄一先生がおっしゃっていた言葉だそうです。
まあ、間の言葉も端折っていますし、もちろん成功してこその生活もあるでしょうから、成功なんかどうでもいいという意味ではありませんけれど、「成功」を目指して頑張ってはいけないという意味ではあるようなのです。
高い志をもって、それを目指して歩く、その努力の中に楽しみが見出され、その途中で成功があるかもしれない。
その成功など、高い志をもったものにしてみれば努力の過程で結果的に生み出されたカスに過ぎないのだから、そうあれこれと気にしないこと、ということだそうです。
私が渋沢栄一という方を知ったのは結構遅くて大学生の時でした。
先生に「日本人は、渋沢先生を忘れ去っている。なんと嘆かわしいことか、なんと貧しいことか。」と言われました。
多少大袈裟な語り口に聞こえましたので、結局のところ授業ではほとんど扱われなかったのに、妙に気になりました。
「経済や政治、社会と道徳を一致せしめんとして」とお話になったと記憶しています。
私などとても爪の垢もいただけないような人間ですけれど、勝手にいつも思い出しては、自分が押しつぶされそうになる時に「道徳を、道徳を」と唱えて励みにしていました。もちろん自分の都合の良いように解釈している部分は往々にしてありますが笑。ビジネスも政治も、私の住んでいるような地域社会や医療福祉社会を生きるにしろ、道徳をないがしろにしてはいかんと、そこを根本にしていろんなつらいことも耐え忍んできたように思います。
次の1万円札の方ですから、より一層心してお金を大切に使おうと思っています。
私は一方的にお金を使うばかりで稼ぐことはほぼできていません。
それは、病気になる前に稼げると思っていた方法がほぼ全て途絶されたが故で、いかに狭い中で生きてきたかを痛感させられます。
しかし、あらゆる可能性を考えながら生きないといけないことに少し疲れてきました。が、疲れてうなだれている時間も余裕もありません!
私には志はあります。
みんながもっと優しく、自然体で助け合い支え合える社会を。
無理したり、誰が誰を助けるとかそういうことを意識しないのに、なんか助け合ってる?なんとなく楽しくない?私たちの生活、くらいの自然な感じで助け合いがなされるような、そんな世界が広がったらいいのになあって思ってます。
友人の言葉を借りれば「私が生きている限り、誰かひとりでも幸せになれたら」ということの体現でもあるかな?なんて思ったりして。
別の友人の志ですが、相談室を開くぞ!と頑張っています。
しかし普通に想像される相談室ではなくて、話を聞きたいけれど、相談を受けるというつもりはない、と言っていました。
言葉にするとちょっとまどろっこしいのですが、井戸端会議のように、あの人もこの人も話役であり聞き役であり、相談する側であり相談される側であり、という立場がコロコロ変わるけれど、その場にいたみんながなんかちょっと楽になったねーという場所をオンライン上に作るんだ!と頑張っています。
そういうのはすごくいいなあって思います。
そのオンライン上の空間は、はっきり言ってビジネスにはならないので、成功しないんですよね。失敗でもないけれど。
先生の言葉で、そうか、こういうことは志の途中にあるものだからいいんだ!と勇気づけられました。
友人よ!ともに頑張ろう!
さあ、私も、私の志を掲げて、踏み出す時です!
・・・ということで、明日からまた、病気に関するコラムを書きますね 笑
真面目な内容は、なかなか思い出すのがしんどくて。すみません。