私の持病の治療が、コロナ感染に基づく様々なからみで、滞ることになりました。
私にとっては命の綱のようなもので、ここが突然途切れるというのは、予測していたことではありますが、実際に起きると少しばかり動揺しています。
神経質であると思いながらも私は診療を続けてもらいたかったし、主人にも診療を続けてほしかったので、必死に頑張ってきました。
今まで、暗いニュースや陰鬱とする気持ちを吐露することは、頑張っている人たちの心に水をさすようで嫌でしたので、このブログでも書くことを控えていました。
でも、先日、友人によく生きてくれたね、と連絡をもらいました。
そして、もうこれ以上苦しんでほしくない、コロナのワクチンだけでもせめて早く、と驚くほどあたたかい言葉をもらいました。
このことを反芻するうちに、私は気を遣う先を間違えていると気づきました。
頑張っている人にとって、私が頑張ろうということは「神経質な発言」にはならないのです。
頑張っていない人にとってだけ、耳の痛い発言になるのだろうと。
そして、耳の痛い発言だという人からの中傷を受けたくなくて、私も口をつぐんでいた、馬鹿者なのです。
病気は人の人生を一変させます。
軽症で済めばいいですが、重症化するかはもはやくじ引きで、日頃の行いなんか誰も見てくれてはいません。
もし病気を避ける方法があるのに罹患したならば、苦しむだけ、ただの損にしかならないのです。
ならなければわからない。
でも、なった私だからいいます。
こんな生き地獄は他にありません。
どうか、自分の体と命と、他の方の命も助けてあげられるような行いをしませんか。
オリンピックも、人の命を危険に晒してまで行うものではありません。
人の命に勝るほどの価値のある事物は何ですか?私は知りません。
みなさん、隣で笑っている人が明日灰になってしまうとしたら、考えてみてください。
誰かを批判することは簡単ですが、それで生き返る命はないのです。取り戻せる健康もないのです。
どうか。どうか。