トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

今を生きる

2021-04-20 10:27:51 | 日記

私は学生時代「将来こうありたい」とか、「今後こうなったらいいのに」とか、未来のことばかりに目を向けて考えていました。

勉強や仕事も将来の自分や社会のために行っていました。

 

ところが、病気になった時に未来が全く見えなくなりました。

いつ自分がこの世の中からいなくなるのかわからない。

逆に平均寿命まで、この体たらくではあるものの生きるかもしれない。

それは嫌だなあ。できれば寿命は短くていいから太く生きたい。

 

この時間軸の発想は、当たり前のようにあると思っていた未来が消えた瞬間からしばらくたって訪れました。

そして、なんと。今を生きるということができていないことに気づきました。

 

子どもの教育も、将来のため、受験のため、みたいな。

私自身も将来お家を買うために貯金して、とか。

常に未来に目を向けた視点だったのです。

 

ただ、友人に言われて思い出したことがあります。

子どもを産む時に、こんな世界情勢や環境にあって、我が子は生まれてきたことを後悔しないだろうかと考えたことがありました。

私のエゴで子どもを産み育てたいと思っていいのだろうかと。

安心安全な将来を全く約束できないのに、いいのだろうかと。

 

そして出した結論はその時その時を楽しんでもらおうということでした。

仮に小さいまま絶命したとしても、ああ楽しかったと言える人生ならよしと。

逆に長く生きたところで、ああつまらなかった、ああ疲れたという人生では意味がないと。

人生は長さではないと考えたのです。

 

この考え方は、私が病気になってからより加速して、私を包んだはずでした。

しかし、実際に生活していると

「勉強?将来、おつりを騙されたら馬鹿をみるのは自分だから、算数やりなさい」

みたいな感じで、将来、将来、そんな話ばかり出てくるのです。

 

もちろん今を楽しむことだけで生きていけたらそんな幸せなことはない訳なんですけれども 笑

なんだかバランスは難しいですが、今を生きるというのは私のテーマになっています。

 

それで、ひとつヒントになったのは常に当事者という意識でした。

例えば、子どもが宿題やってくれない、テストの点が悪い、という悩みは結局親の責任みたいに言われたりしますよね。

全てがそうではなくても、一理あると思うんです。

それと同じで、そこの道が汚れてるから綺麗にしたいなあとなれば自分で掃除してみようとか、子どもに挨拶をさせたかったら自分がやってみようとか。

行動って何か連鎖していく気がするんです。

そこにあるのは良き精神だと、尚よしなんですけど。

そんな具合で一つずつ。そして将来にとっては何になるのかわからないけれども、今楽しいこと、とかも楽しむようになりました。

これ無駄じゃない?というのはあくまでも将来から見た感想なんですよね。

今、楽しいんだからいいんだよ!ストレス発散という意味でね!と、楽しむこともたくさんしています。

 

子どもの老後のために「今」やれることをしたいなあとも思う、感情だけは忙しい私でした。


一体今、何が起きているんだ

2021-04-18 06:07:00 | 日記

あまり意識したことがなかったんですけれども、「何が起きているんだろう」とか「何が起こったんだろう」という疑問が一番解決されないんだよなあと気づきました。

 

意識すると、実はそんなことばっかり。

ジャーナリズムとかが近代日本において情報を発信し続けてくれたのかもしれませんが、今もってして、なかなか情報を得るというのは難しいことなんだなあと思っています。

 

今、一番気になっているのは、コロナウイルスワクチンはどうなっているのか、ということです。

夫は医療従事者ですが、実はまだ接種できていません。

接種の見込みも立たない状況なのです。

不安から「自分だけ連絡が来ていないのでは」と、近隣の病院同士で連絡をし合ってしまうほどだそうです。

1日でも早くして欲しいのは言わずもがなですが、何より情報がないということで不安な気持ちが拡大しているのは間違いないと思います。

 

私の病気も、実は何でこんなことになったのか、ということがわからないでいます。

病気ですから、原因なんてわからないのが基本かもしれませんが。

私はおそらく、出産時の大量出血が原因で病気になりました。

どうして大量出血したのか、大量出血のあとの処置でもう少し何とかなったのではないか、という点がどうしても引っかかって、苦しい思いを続けてきました。後悔もたくさんあります。後悔は私だけではありません。夫も、母も後悔し続けています。

調べても誰も教えてくれません。

何もわかりません。

出産時、分娩台に乗りながら一体何が起きているんだと思い続けました。

その疑問は今に至るまで、そしておそらくこのままでは未来にいたるまで、判然とすることはないと思います。

 

ですが、もう2度と、私のような人が生まれてほしくない、そう願ってもう少し頑張るつもりです。

出血は1000mlを超えた場合、体にとっては危険だということはぜひ知っておいてください。

そして、産科的にはよくあることだそうですので、その程度ではあまり対処しないとも聞きました。

出血が多かった産婦のその後を追ったデータはないのです。だから、大丈夫と言い切れないのに、現場は大丈夫となっています。

 

辛い状況かもしれませんが、何らかの処置をしてくれるように強く言った方がいいと思います。

ちなみに、何らかの処置が必ず病気から救ってくれるかは、わからないそうです。

例えとして、大量出血した話をします。

大量出血したら必ず病気になる、訳ではないので、結果なんらの病気にならなかったとしても、処置をしたから助かったのか、そのままにしておいても助かったのかははっきりしません。

だから、処置が病気を防いだのか、個人のポテンシャルなのかがわからない以上、有効な処置、というものがないのだそうです。

えー、うそでしょう、と私は思うのですが、そう説明されました。

ですが、何もしないよりした方がいいと思います。輸血は怖くても、輸液くらいは絶対した方がいいと思うのです。

少なくとも、私は後悔しています。

輸液の指示が出ているのに、現場が大混乱していて、結局点滴が私に施されることはありませんでした。

何度も顔をはたきながら自分を起こし、いつ輸液が始まるのか、何度も聞こうと思いました。

でも、はっきりとは聞けないままでした。

一度聞いた時、もうすぐじゃないですかね、と言われたことは覚えています。

もっとしっかり聞けばよかったと、何回後悔したか、わかりません。

今、点滴はなぜ施されなかったのかを聞いたところで、教えてくれる人はもういません。そしてもし、教えてくれる奇特な方がいらしたとしても、私の体がどうにかなるわけではないのです。

腐った臓器は元に戻ることはないのです。

一体何が起きているのか、めまぐるしく変化する分娩室で、その場の誰もが把握できていなかったのかもしれません。

退院するまでも、説明をしてもらえませんでした。

そして私に何が起こったのか、今も説明できるひとは誰もいないのです。

結局、私の精神的な負担のほとんどはここにあると考えています。仕方なく病気になったのではない、自分で防げたかもしれないことを、自ら放棄したこと、プロだと思ってお任せしたことへの後悔です。何度も頭の中では聞きなさい、口に出しなさいと警告していたのに。

主人は、あの状況では聞けなかったと私を庇います。むしろ自分が聞くべきだったと。それほど私は意識を飛ばしていました。

でも、意識がある時があったのです。なぜ、私は躊躇したのか。こんなことになるなら、あそこで声を荒げてでも、何が起こっているのか聞けばよかったとしか思えません。

 

自分の体は自分しか守れません。

私は聞くことが出来なかったことを、主張できなかったことを心底後悔しています。

どうかこんなことがもう2度と起きないで欲しい、安全に子どもを産める世界が広がってほしい、そう願っています。


私のようにならないで

2021-04-16 10:12:58 | 日記

常々思っていることが、私のようにならないでほしいということ。

私のような人がもうひとり生まれてほしくない、ということ。です。

 

でも、もしなったらどうしよう!とばかりに、

・医食同源

・運動はしっかりすること

という指導を娘にしています。

結局人を幸せにするにあたって、健康、元気な体に勝るものはなかなか見つからないので。

ぜひとも、娘には心身ともに健康優良児として大人になってもらいたいなと思っているのです。

 

ただ、やっぱり好き嫌いとか、つかれちゃったから運動したくないとかありますよね。

人間ですから。

散歩中もぐちぐちと疲れたー、もうやだーとか言ってたので

「お母さんのようになりたくなかったら、がんばりなさい。」

と説得していました。

 

でも、よく考えたら、この説得はすごく子どもにとってかわいそうだなと思い始めました。

だって、「お母さんのようになりたくない」という否定の感情を前提に置かれちゃうのは、ちょっと。。

「お母さんのようになりたくないでしょ!?」などとも聞いていた気がします。

そのままのママが大好き、と娘は言ってくれています。そうした娘の意識からこの上ない力をもらっているのは私なのです。なのに、真っ向から否定するようなことを言って、何をしているんだろうと、最近になって我に帰りました。

 

以前、障害者の方が道ゆく人に指を刺されて

「あんな風になりたくなかったら、お利口にしなさい」と、自分をしつけのダシに使われてひどく衝撃を受けたという話、を聞きました。

これは大変な話で、もちろん2度とあってはいけない話です。

 

あれ。しかし、程度の差こそあれど、このようなことを強いていないか。

と、さすがに反省しました。

 

でも、やっぱり私のようにならないでほしい、とどこかで思う自分がいます。ずっとです。

それは娘に限ったことではなくて、どなたでも。

だから、もし私のような人がいたら、何か私の実験が役に立てばいいなとか、経験が役に立てばいいのになとか、そんなことを思って過ごしています。

決して、自分を卑下しているだけではないつもりではあるのです。

だから、私のようにならない方法を。

 

一つは、健康的な生活を送って、何か病気になった時に対処できるだけの体と心にしておくこと。

一つは、何かが起こっているとき、何か疑問がある時には、勇気を持って口にすること。聞くこと。

一つは、自分の体も運命も、人任せにしないこと。信頼と丸投げは違う。

 

もうね、全部自分ができていなかったことです。

そして今もできません 笑

だけど、今、私ががんばっていることを文字にしてみました。

願っていると、どこかでご縁があったり、出会いがあったりして、自分は全然変わっていないしダメダメのままなのに、目的が達成されることもあります!

だから、もしよかったら、ご参考までに。

どうか、みなさまに、笑顔あふれる健やかな毎日が訪れていますように。


感謝感激と自己満足

2021-04-14 10:04:02 | 日記

先日、娘のお習い事の発表会がありました。

娘は新体操を習っています。

コロナ禍で、途中休校になったり、私の理由でもお休みしながら、なんとか続けられたお習い事。

発表会も延期になりながら、お教室の方でコロナ対策をいろいろと考えましたとのことで、ようやっとこさ実施してもらえました。

 

正直、私が驚くほどの感染対策をしてくれました。

1週間もの検温表の提出(観覧予定者全員分の検温表)。

生徒も観覧の保護者も、飲食禁止。

保護者も2名までに制限され、観覧席は市松模様座りでしたが、それも1列おきみたいな感じで、すっかすか。

会場も扉を開けっ放しです。

滞在時間も滞在人数も短く少なくなるように、発表会を3部に分けてくれました。

 

我が子のこうした発表会は大変に久しぶりでした。去年は運動会なども全部なかったので。

私は我が子の行事や発表会は今まであまりまともに参加できませんでしたので、今回は何かとっても楽しみにしていました。

 

最近は自分の体調が悪くなっても、対処に慣れてきました。

今回も、朝からまさかの具合の悪さを見せまして。でも薬足して、お風呂入って体温上げて万事オッケー。

今日見にきてもらえないかも、と不安そうに私を看護する娘に

「あー、大丈夫。これなら2時間後くらいには回復するわあ。」とか冷静に言っちゃう私。

なんかえらい進歩したな!私成長してるぞ!と、あとからふと嬉しくなりました。

 

夫も一緒に行けましたので、3人でのこのこ会場に行きました。

そして席が遠いので、夫と話すこともなく、ひとりの世界に浸って発表会を堪能しました。

他のクラスの発表も含めて、なんか見ていたらとても暖かい気分になりました。

 

このような習い事をさせてもらえる子どもたちはきっと幸せな子達なんだろうと思います。

でも、その幸せな境遇に甘んじることなく、頑張っていたり、楽しんでいたり。

少なくとも適当だったり、不貞腐れている子なんかひとりもいません。

先生たちも必死で、でも楽しみを見つけながら、とにかく愛情をもってお教室を運営してきてくださったのだろうと思いました。

 

そして我が子は、去年から比べてまた一段と成長しました。

私にとってはなんだかあっという間の、ばたばたしただけの1年間でしたが、娘はこんなに成長していたのかと驚きました。

思い返せば、私もいろいろあって変化の多い年でした。いろんな意味で死の淵から生還したような1年でした。

どうしてこんなに簡単に忘れちゃうんですかね!

 

変化というのは1日単位だと小さいですけれども、1年で見るとあったりなかったり。

こんな歳ですけど、もちろん子どもに比べたら小さな変化かもしれませんが、どこかは成長しているような気がしてきました。

そんなことも教えてくれる、発表会でした。

子どもたちから、先生方から、スタッフさんから、そして娘から、いろんなパワーと優しさをもらった素敵な発表会でした。

 

親の自己満足?

そうです。そうなんですけど、それでいいんです。

自己満足できるなんて、最高の幸せじゃないですか!

本当に感謝感激の発表会でした。


リハビリ(筋トレ)

2021-04-12 21:59:00 | 病気

筋トレ、と言っても、筋トレとは言い難いですけれども。

リハビリです。

 

スクワットができないので、足を鍛えようとした場合には横になって足を上げ下げします。

Y字バランスができるようになったらいいなあ、と思って、ストレッチも試みていますが、痛くてそこまで足が上がるようになるまでにも、ずいぶんと時間がかかりました。

ということで上げ下げって、ほんとにちょっとだけなんです。

 

そもそも腹筋も

ふんっ!

と言って微動だにしないところから始まりました。

今も、10回くらいしかできません 笑

それでも「やらないよりマシ」!

合言葉ですね。

 

しかし、どうしても階段の登り降りとかは辛い。そこで先生に相談してみました。

「先生、どうもまだ筋肉がつかないようです。効率の良い筋トレはありませんでしょうか。」

「はあ?こんな立派な足しておいて、何を言いますのか?」

先生、実に、大変に呆れておられます。めっちゃ笑っていらっしゃる。

「えー?いや、筋肉少ないって聞いたので、とにかく頑張ってるんですよ。」

「何を?」

「ですから、筋トレを。」

「もういいですよ、筋トレは!もう十分ですよ!」

「えー!?」

診察室の会話です。一応。

 

面白いですね。筋肉が破壊された時に出る物質の血液検査の値、私は低いんですね。そのために筋肉が少ないと、他の医療機関では指摘されました。

ところが、その値はその時々によってかなり変化するものらしく、あまりあてにならないらしいのです。また、神経系等の問題だったりすると筋肉そのものが存在していても意味がないと言いますか、そういうこともあるらしいのです。

●筋肉が衰えている訳ではない、したがって他に何か問題があると考える主治医の先生

●筋肉そのものに問題があって筋肉に問題を引き起こすステロイド薬の問題にする先生

と、私の病状は今もってしても真っ向から対立するような見解が出ることがあるのです。

 

セカンドオピニオンというのも頷けます。同じような検査データにもかかわらず、見解が真っ向から違います。また、一方から他方にこういう診断が出ていますと伝えたところで、それぞれ信念も根拠もあるらしくて、「だから?」という世界なのです。

患者は、どの先生がおっしゃっていることが正しいのかを知識や学問的に判断することはできないですから、この先生についていこう!と決めてついていくしかないのかなと思います。

できる限りの勉強を患者がしなければならない理由はここにもあるのかな、と思います。

 

ちなみに、本件はステロイド薬の減量も必要でしたし、他に問題もありましたので、両方必要でした!

なので、いずれも間違っていないですね。

 

話は戻しますが、私なりの筋トレ、とにかく、とりあえず、頑張ってます。

でも、外見上、全く成果が出ません!なんだこりゃ。

ちなみに、体重の増減と血液検査のデータってほんとにリンクしないです!

この間、こんな話題になりました。4キロも痩せたのに、去年の健康診断と全く結果変わりませんでしたーって話を聞いて、私は1キロも痩せてないのに血液検査の数値はかなり良くなりました、と。

血液検査って何なんだ〜?

健康って、外見って何なんでしょう〜?

疑問がいっぱいの中で、自己流の筋トレは続きます。