私は学生時代「将来こうありたい」とか、「今後こうなったらいいのに」とか、未来のことばかりに目を向けて考えていました。
勉強や仕事も将来の自分や社会のために行っていました。
ところが、病気になった時に未来が全く見えなくなりました。
いつ自分がこの世の中からいなくなるのかわからない。
逆に平均寿命まで、この体たらくではあるものの生きるかもしれない。
それは嫌だなあ。できれば寿命は短くていいから太く生きたい。
この時間軸の発想は、当たり前のようにあると思っていた未来が消えた瞬間からしばらくたって訪れました。
そして、なんと。今を生きるということができていないことに気づきました。
子どもの教育も、将来のため、受験のため、みたいな。
私自身も将来お家を買うために貯金して、とか。
常に未来に目を向けた視点だったのです。
ただ、友人に言われて思い出したことがあります。
子どもを産む時に、こんな世界情勢や環境にあって、我が子は生まれてきたことを後悔しないだろうかと考えたことがありました。
私のエゴで子どもを産み育てたいと思っていいのだろうかと。
安心安全な将来を全く約束できないのに、いいのだろうかと。
そして出した結論はその時その時を楽しんでもらおうということでした。
仮に小さいまま絶命したとしても、ああ楽しかったと言える人生ならよしと。
逆に長く生きたところで、ああつまらなかった、ああ疲れたという人生では意味がないと。
人生は長さではないと考えたのです。
この考え方は、私が病気になってからより加速して、私を包んだはずでした。
しかし、実際に生活していると
「勉強?将来、おつりを騙されたら馬鹿をみるのは自分だから、算数やりなさい」
みたいな感じで、将来、将来、そんな話ばかり出てくるのです。
もちろん今を楽しむことだけで生きていけたらそんな幸せなことはない訳なんですけれども 笑
なんだかバランスは難しいですが、今を生きるというのは私のテーマになっています。
それで、ひとつヒントになったのは常に当事者という意識でした。
例えば、子どもが宿題やってくれない、テストの点が悪い、という悩みは結局親の責任みたいに言われたりしますよね。
全てがそうではなくても、一理あると思うんです。
それと同じで、そこの道が汚れてるから綺麗にしたいなあとなれば自分で掃除してみようとか、子どもに挨拶をさせたかったら自分がやってみようとか。
行動って何か連鎖していく気がするんです。
そこにあるのは良き精神だと、尚よしなんですけど。
そんな具合で一つずつ。そして将来にとっては何になるのかわからないけれども、今楽しいこと、とかも楽しむようになりました。
これ無駄じゃない?というのはあくまでも将来から見た感想なんですよね。
今、楽しいんだからいいんだよ!ストレス発散という意味でね!と、楽しむこともたくさんしています。
子どもの老後のために「今」やれることをしたいなあとも思う、感情だけは忙しい私でした。