ときぶーの時間

募金の受付先 東邦銀行 安積支店 普通0644994 名義がんばる福島
みなさんご支援宜しくお願いいたします。

3月の終わりに

2024-03-31 11:20:26 | 日記

みなさん、こんにちは。

今日で3月も終わりですね。

NPOがんばる福島では、新しく軽トラックを買うことを決めましたが、2月から探していてようやく3月4日に購入することができました。

 

松ちゃんちでは、キツネが出没し何やら合鴨を狙って来ているようでした。

松ちゃんの話では付近にはキツネが4~5匹くらいいるらしく、ある日の夜中に鴨たちの鳴き声がおかしいと急いで懐中電灯を手にし、駆けつけると尻尾の立派なキツネがさっと逃げて行ったので、金網で柵を覆い保護することになりました。

「あのキツネはこの辺の主だと思うな。あんな立派な尻尾見たことない」と松ちゃんは言ってました。

体格もキツネとしては優秀ないでたちなんだとか。

 

餌や水を与えるときに留め金を外し、上に持ち上げて終わったら戻して留める簡易タイプです。

 

これで安心したのか?雌の6羽が卵を産みだし、鶏舎は今、卵だらけになってます。(笑)

 

今回は28日から30日にかけて泊りがけで決算のことなど話をしてきたわけですが、29日は、前日の夜から台風のような強風と大雨の天気で午後2時まで作業ができない分、きっちりと話せたことは良かったかな。

大雨で滝ノ沢橋からすぐ入った場所の餌やり場が使えなくなってました。

まるで沼のようでしたね。

 

なので一番奥の水没していない、ぬかるみの少ない餌場に大量の餌を置きました。

午前の部の餌と午後の部を合わせると結構な量になります。

 

餌やりを終えて午後3時に保険屋さんとの契約、その後に東邦銀行と郵便局に回って、最後は叔母さんの家に顔出し。

 

僕もこのお二人には、本当に良くしていただいています。

おばさんが差し出してくれる総菜やごはんは本当に美味しくて毎回、感謝しかありません。

もうね、絶品の域なんですよ。

漬物はさすがに商売でやっていたので文句なし。煮物、炊き込みごはん、何でもおいしいんですよ。

この日も、いろいろといただいて帰ってきました。おじさん、おばさん、ありがとうございました。

その後は松ちゃんと別行動。

彼は夕暮れまで畑作業をやって帰ってきました。

この日は午後からの活動でしたので予定が目白押しになり、午後からハードな1日でした。

 

夕飯の写真です。

 

明日から4月。年度変わりですね。

皆さんには良い新年度を迎えられますよう祈って本日のブログとさせていただきます。

本日も、お付き合いくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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回想の続き

2024-03-14 05:06:45 | 日記

みなさん、おはようございます。

今日は松ちゃんが2014年3月に招待されてフランス、ドイツに渡欧した時のことを書きます。

まず最初にこのイベントは松ちゃんの友人、フランスのフォトジャーナリストのアントニオ・パニオッタさんが数か月かけてスケジュール等を組んでくれたのです。

ラジオ番組に出演 2014年3月 アントニオさん撮影

 

TV出演前のメイク中 2014年3月 アントニオさん撮影

 

スタジオ入りする前の松ちゃん 2014年3月 アントニオさん撮影

 

福島原発の事故後のヨーロッパでは、日本が起こした原発事故のことを大きなニュースとして取り上げていました。

旧ソビエト連邦(現ロシア)が起こしたチェルノブイリ原発事故は日本でも大きなニュースになりましたが、広大な国土を持つ大国ロシアと違って小さな国同士が隣接しあっているEUの国々にとって、そして自国で原発を有している国にとって日本の福島原発事故は他人事でないニュースだったと思います。

 

講演会  2014年3月 アントニオさん撮影

当時、ドイツのメルケル首相が福島原発事故後、2011年7月にドイツ国内の原発撤廃を決定しましたから、福島原発の事故はドイツで大きな波紋を広げていたようです。

ドイツのメルケル首相は自国の原子力発電所が陸続きのヨーロッパで事故を起こしたら、国が亡びるような大惨事になると考えたようで英断を下した。

その後、メルケル首相が日本に来日した時、当時の安倍総理に「日本は福島原発事故を起こしたのに何故、原発を撤廃しないのか?」と詰め寄った話は有名です。

 

 緑の党の議員さんとの記念写真 2014年3月 アントニオさん撮影

 

帰国後松ちゃんに、そのドイツの状況を聞いてメルケル首相がその決断をしたことに納得しました。

隣接するフランスの近くに流れるライン川のそばに原発があり、福島のような事故を起こせば隣国のフランスに損害賠償をしなければならない。

原発の近くにはフランスが誇る見渡す限り広大なブドウ畑があったと松ちゃんから聞いた。

事故を起こせばワインの名産地の賠償だけでもとんでもない金額を保障せざるを得ない。

 

核最終処分場前でのデモ行進に参加  2014年3月 アントニオさん撮影

 

打ち上げでしょうか? 2014年3月 アントニオさん撮影

 

ワインの知識を持ち合わせていない僕でも1本何百万円もするワインがあるのは聞いたことがある。

それはビンテージ物だと思うけど、何千円~何万円のワインでも大変だろう。

原発事故を起こしたら放射能汚染で生産地は何十年も生産できなくなるだろうから、その賠償額はとてつもない金額になる。

国の存続が危ぶまれるって、そりゃそうなるよなって思った。

日本は周辺を海に囲まれているから隣国と陸つづきのドイツとは大きく違うけど、日本も原発でなく海外で評価されている新型の高性能火力発電所に変えてもらいたい。

この新型の火力発電は大気汚染物質の90%を除去し、水を使わない排煙脱硫装置を導入し、SOx、NOxの排出量は主要先進国と比較しても、一桁低い極めて小さい値となっていて確か、以前の発電よりパワーアップしていてしかも省エネで世界トップクラスの石炭発電なのだと聞いた。

 

ドイツの首相が原発廃止に舵を切ったので、隣国フランスで反原発を訴えているフランスの政党 緑の党の方々が福島原発事故被災地で活動している松ちゃんを今回、反原発の騎士として招待してくれたのです。

このようなミニ集いの写真たくさんた~くさんありました。2014年3月 アントニオさん撮影

 

どこに行ってもマイクをもたされてますね。2014年 アントニオさん撮影

 

移動に次ぐ移動で電車に何回も乗ったと聞きました。2014年 アントニオさん撮影

 

松ちゃんは帰国後、分単位のスケジュールで滅茶苦茶ハードな遠征だったと言っていました。

その期間は約3週間でした。

アントニオさんの写真には現地の農家さんや蓄主さんとの交流、ワイナリーの当主さんとか、他にもたくさんの人たちとの交流写真がありました。

TV出演やラジオ番組収録、新聞の取材、数々の講演会と各地を回り、様々なスケジュールをこなしてきたのです。

EU連合会議にも出席したようなことも言っていましたから相当なものです。

 

2014年3月 アントニオさん撮影

唯一、観光した時間じゃなかったのかな?フランス パリの大聖堂に行った時の写真。

 

2014年3月 アントニオさん撮影

松ちゃんは「あれはものすごい時間をかけて建てられた建造物だった」って感心していました。

フランスにはいくつもの大聖堂があるんですね。パリの大聖堂しか知りませんでしたので勉強になりました。

 

松ちゃんは、新聞の一面に大きく報道されたり、TV放映されてから反響があって毎日、毎日、その地元の人たちが会いに来てくれたと喜んでいました。

アントニオさんが撮ったたくさんの写真を見て今回は、本当にハードなスケジュールだったと思います。

これだけ大掛かりなスケジュールを組むのに大変だったと思います。アントニオさんには本当に感謝したいです。

アントニオさん、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

2013年5月 アントニオさん撮影

松ちゃんが帰国してから被災地では灰色の町と変貌した生活が始まりました。

黒い袋の中身は放射能汚染物です。

 

2013年5月 アントニオさん撮影

2013年に除染作業が始まり、2014年以降は郡内以外でも本格的に除染作業が行われていた。

福島県内なら中通りの地区までは除染作業がなされていたと思います。

僕たちの双葉郡は国が除染、その他は各市町村が実施。

2013年5月 アントニオさん撮影

福島県内でなら、どこに行っても見られた黒い汚染物袋置き場

富岡の海岸でも、道路わきでも、兎に角どこにでもあり見慣れた光景でした。

あまり見慣れたくなかったですけどね。

しかし、本格的に除染されたので2024年の富岡町では、今も除染作業中の帰還困難区域以外に汚染物用袋の山があるところは見なくなりました。

未だに完全には除染が終わってないんです。

2013年5月 アントニオさん撮影

松ちゃんに保護されて落ち着いてきたのか、安心したのか?この年、初めて卵を産んだモモとさくら。

僕も興奮しました。

灰色の町の中でも、こんな嬉しいニュースに巡り合える。

 

2013年5月 アントニオさん撮影

保健所行きの一歩手前で松ちゃんに保護された2匹のうちの1匹 名前はシロ

来た時は目に病気があって汚い顔してたっけ。(笑)

 

2013年5月 アントニオさん撮影

人懐こくて可愛かったシロ。

お客さんが来ると必ず膝の上に乗って、お客さんが帰るに帰れないようにしてた。

人間大好きで愛嬌がメチャクチャありましたよ。

 

2013年5月 アントニオさん撮影

のちにシロさびとまつちゃんという写真集が出版されたのだけど、松ちゃんと散歩する2匹は本当に可愛かった。

ダチョウのモモ、シロとさび、ポニーのヤマ、みんな本当にアイドル的存在だった。

僕も動物たちに癒されて、この十数年生きてきたんだなと、ふと思う。

動物たちに感謝です。

 

2013年5月 アントニオさん撮影

軽いものでも200~300kgのわら餌をこのように体全体を使って運んでいたのだから、ついに松ちゃんの膝が悲鳴を上げたようです。

今、膝の具合が悪い。それも相当悪いようだ。

膝に力が入らず、階段や坂を上るときに辛いらしい。

 

去年あたりから二人でじじい談義をしている。

やれ、ここが痛いとか、まず体や健康のことばかり話すようになった。汗

まだまだ続くNPOがんばる福島の活動、これからも健康に留意して活動していきたいと思います。

今回、震災直後から2014年までの3年を、アントニオさんが撮った写真を見ながら振り返って書いてみました。

この辺で回想は閉じて、これからは2024年の今を書いていきます。

みなさん、今日も長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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回想の続き

2024-03-13 05:06:22 | 日記

みなさん、おはようございます。

今日は、動物の保護以外に松ちゃんが活動して来たことを書きます。

それは原発事故被災地の現状を伝える広報活動でした。

彼は毎日、海外メディアのスタッフさんに追いかけられるほど、当時は時の人だった。

それは一つの会見から更に顕著になった。

2012年2月28日 アントニオさん撮影

彼は強制避難区域の現状を話すということで東京丸の内にある日本外国特派員協会にて会見が開かれた。

彼はここで福島原発事故で強制避難区域となった現状を全世界へ発信した。

そしてこの時、各国の記者からいろいろな質問を受けた。

外国人記者からすれば彼の一挙手一投足 話したことは当時、値千金の情報だったと思う。

理由は日本のマスコミが強制避難区域の現状を一切報道しなかったため、動物を保護するためたった一人でそこに住む彼の貴重な生の声が聞けたからだ。

松ちゃんはこの頃、日本のマスコミが政府と東電に忖度して福島原発事故被災地のニュースを一切報道しないことに苛立ちを感じていたから、世界のメディアが頼みの綱だったかも知れない。

だからこのあと日本では無名だったが海外では有名になった。

海外のイメージは福島=放射能=墓場くらいに思っていたのかも。

それほど醜悪なイメージ(放射能=死)を持たれていたのも日本のメディアが鉄のカーテンをして報道しなかったからだと思う。

 

2012年2月28日 アントニオさん撮影

松ちゃんは会見中、かなり緊張していていたが多くの質問に答えた。

記者たちもノートを取りペンを走らせていた。

 

会見をすべて終えたとき、さすがの松ちゃんも「いやぁ~緊張して何言ったか覚えてねぇ~」って言ったから、変なこと言ってなかったよとフォローした。

しかし、この会見がきっかけで海外メディアの取材が殺到することになった。

それは本当に凄かったです。

ここの会見場には60人はいたと思う。記者がパソコンで松ちゃんの通訳が話したことを即母国に内容を発信していた人もいた。

福島第一原発は4基爆発したのだから、チェルノブイリ原発事故より大きな事故とみられていたのだろうと思った。

 

2012年2月12日 アントニオさん撮影

会見時間が終了しても彼の所には多くの外国人記者が寄ってきて、時間内に聞けなかったことについて聞いていた。

当然、青い目の方が多かったのだが日本人?と思っていたら、中国、韓国など隣国の方もいて、福島原発事故について真剣に聞き出していた。

 

話を変えて国内でもいい出会いがありました。

僕が何度目かの避難先でブログを通して「どうしても松村さんに会いたい。もしくは応援させてほしい」との連絡を受け、僕はその人に会った。

彼女は被災地の動物を救助するだけのためにハイエースみたいな大きなワゴン車を買い、ご主人と何度も原発事故被災地に入り僕らのふるさとの犬たちを保護してくれた人だった。

話をしてみると原発事故現場に近いところまで行って犬を10匹保護してきたとか、トヨタのあるところの前でとか聞いて、場所も僕が知っているところであり、本当にやってくれている人だとを確信しました。

50匹くらい保護して知り合いの動物ボランティア団体に、その子たちを預け面倒見ていただいた。

彼女の家に招かれたときにビックリしました。家の中に13匹の犬が居たんだ。僕は老犬の里親になって1匹だけで悲鳴を上げているのに、ほんとうに凄い人だと思った。

それで、それが縁で彼女Yさんが入っているNPO団体の協力を得て福島の今を知ってもらう活動と、被災地の動物のための募金活動をすることができた。

2012年2月12日 アントニオさん撮影

横須賀中央駅前広場にて写真展と募金活動

1年で3回行われているイベントに何度も参加させていただきました。

応援してくださった横須賀市民の皆様、イベント運営関係者の皆様に感謝しています。

本当にありがとうございました。

2012年2月12日 アントニオさん撮影

イベント最終日の松ちゃん。

このイベントを皮切りに静岡の知人からも応援していただき、画廊のオーナーさんが1週間無料で画廊を貸し出してくださり、ここでも何度も広報活動と募金活動を開催させていただきました。

ありがったです。

ラジオ番組の出演をさせられた記憶があるな。

本当に松ちゃんは人に恵まれていると思います。

画廊のオーナー様、本当にありがとうございました。

紹介してくれた知人にも感謝しています。本当にありがとうございました。

 

この後も名古屋でのイベントとかいろいろありましたが、NPOがんばる福島と代表の松村直登を応援していただいたことに感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。

次回は松ちゃんがフランスとドイツにへ行った時のことを書きます。

今日もお付き合いくださりありがとうございました。

 

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回想 

2024-03-12 05:14:14 | 日記

皆さん、こんにちは。

今日は前回の続きで牛の殺処分を止めた後のことを書きます。

国の指示で殺処分を行っている人の邪魔をしたということで大問題になり、この時、松ちゃんの強制避難区域での動物の保護活動に必要な入行許可証が取り上げられてしまったのです。

県や国の機関にまで話が行ってしまい、それはそれは本当に大きな問題に発展してしまった。

許可証がなければ強制避難区域に入れず、保護している動物たちの世話ができず死なせてしまう。なので、僕はブログで全国の皆さんに助けてくださいとSOSを発信した。

松ちゃんが保護した2羽(2頭)のダチョウ 2012年 アントニオさん撮影

 

あの頃、松ちゃんはまだ町に残っていた犬や猫たち、その他イノシシやダチョウも保護していたから、許可証がなければ間違いなくみんな死んでいたと思う。

前年度より全国の皆さんから支援金をいただいての活動だったから、許可証の取り上げだけは何としてもやめてもらいたかった。

これが本だった音です。

 

2012年 アントニオさん撮影

背の高いほうがモモコ。呼び名はモモ。とても人懐こくて誰にでも羽を広げて歓迎のあいさつをしてくれる本当に可愛いダチョウでした。突っついたり絶対しないので応援に駆けつけてくれたボランティアのみんなにも愛されたダチョウです。小さいほうはサクラ。少し神経質で気が弱い。それでもおとなしくて、この子も人間に危害を与えるような子じゃなかった。

 

話しを元に戻して殺処分を止めたことで国の省庁、環境省と農水省、県の官庁まで話が行ってしまったから大問題になって焦った。

あの時、横須賀のY先生を始め、SNSで拡散をしてくださった動物ボランティアのみなさん、そして全国の皆さんと海外から応援してくれたみなさんの協力で、各省庁、官庁、富岡町役場に電話とメールとFAXが入り続け、富岡町役場では3日間業務ができずにパンク。

この事態を重く見たのか、収拾を図るためなのか?松ちゃんの許可証が無事に戻され活動を再開することができた。

あの時に電話とメールとFAXで応援してくれた数万人の全国のみなさんと海外のみなさまに改めて感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。

後に当時の遠藤町長が松ちゃんに、山のように積まれたFAX用紙を見せて「これ、みんな松村君のだ」と笑って言われたと言ってました。

あの時は役場の皆さんには本当に迷惑をかけたと思っています。あの時の役場職員のみなさま、本当に申し訳ありませんでした。

 

それからいくつかの段階を踏んで本格的に柵を作り、離れ牛を餌で誘導し簡易であるけれども牧場を作って牛たちの飼養を始めた。

 

帰還困難区域の牧場 アントニオさん撮影

ここの牧場の牛たちは脱走したり、喧嘩して相手を傷つけたりと問題児が多かったと思う。

病気になった牛や怪我をした牛、それに子牛もいた。

 

元気のない子牛。 アントニオさん撮影

松ちゃんは、医者に診てもらうために子牛を軽トラで自宅に運び、僕の義父から譲ってもらった軽バンに乗せ換え獣医の元へ

 

雨が降って来たこの日、ぐったりとした子牛を毛布に包んで搬送 (アントニオさん撮影)

子牛は眠ったままの状態

 

獣医師さんの所で注射と点滴で少し元気になった子牛

帰還困難区域の中では、こんなことが日常茶飯事にあった。

だから本当に大変だったと思います。

 

牛を保護する松ちゃんには、何が起こっても受け止めることしかなかった。

もちろん牛たちにだって、震災が起こったことでのいきなりの環境変化だったから、体の大きな牛にだっていろいろとダメージがあったと思う。

餌だって自分で探さなきゃならなくなったわけだから。

 

病気の牛や怪我した牛ために治療を施すために、この牧場に来てくださった獣医さんにも感謝です。

放射線量の高い危険なこの牧場に来てくださったことに感謝いたします。

獣医さん、本当にありがとうございました。

 

2012年アントニオさん撮影

 

後に強制避難区域から名称が帰還困難区域になった牧場の空間線量7.34μシーベルと高い線量でした。

柵作りのための支援金を出してくださった横須賀の社長さん、ありがとうございました。

柵作りの応援に全国から駆けつけてくれたボランティアのみなさん、本当にありがとうございました。

おかげで帰還困難区域と松ちゃんちの家の下にある田んぼの2つの牧場を作れたことに感謝申し上げます。

松ちゃんの家の下の牧場 2012年 アントニオさん撮影

 

家の下の牧場の牛は老齢の牛が多く、畜主さんに「俺も歳で動けねぇ。頼むから俺の代わりに助けてやってくれ」と依頼された牛の半分以上が15歳を超えていたと、松ちゃんは言いました。

この牛の畜主さんは僕の義父の友達で、普通の畜主さんは10歳過ぎる前に廃牛として処分してしまうのだけど、彼は「牛にこれまでおまんま(ご飯の意)食べさせてもらったんだから死ぬまで面倒をみるのが当たり前だべ」と、絶対に牛たちを見捨てなかった畜主さんだった。

この話を聞いて僕は、さすが義父の友達だなぁって思いました。

廃牛としてハムやソーセージの材料や動物園の肉食獣の餌にされることを絶対にしなかったから、畜主仲間からは変人って思われていたことだろう。

でも僕はこんなじっちゃんが好きだ。

 

栄養のある配合飼料を与える松ちゃん 2012年 アントニオさん撮影

2012年から2013年は特に牛を助けるということで、松ちゃんは怒涛の日々を過ごしていたと思います。

頭数も多かったし餌の供給も苦労していたから、希望の牧場の方々やウィズキャトルの皆さんの協力を得てやってこれたことに本当に感謝です。

 

松ちゃんちの入り口に山積みされたロールわら餌。凄い数の餌でした。2013年 アントニオさん撮影

餌の手配に力を貸していただいたウィズキャトルの皆様には本当に感謝しています。

本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

そして全国の皆様のご支援で、今も餌を買うことができています。

支援してくださいました皆様、本当にありがとうございました。

 

畜主の経験もなく牛の飼養をする松ちゃんのでかさにいつも度肝を抜かされていた僕だけど、この頃の僕は不安ばっかりで心の中はいつもアップアップしていました。

犬や猫の保護と全く別世界でしたから。

それでも牛の目を見るときれいな目で牛に癒されている自分を素直に喜んでいましたね。

こうして松ちゃんは町に残された犬や猫、その他の動物たちの保護と牛の飼養をやることになった。

体力的にも牛の飼養は結構、重労働な時があったけど、何食わぬ顔してやっていた。

それだけでなく、この頃は反原発運動というか世界各国のメディアの取材がやたらと多く、1日で5件も取材を受けたりとか毎日取材詰めで大忙しの松ちゃんだった。

本当にタフな男です。

動物の保護以外に彼がやってきたことを次回、書きたいと思います。

みなさん、本日もお付き合いありがとうございました。

 

 

 

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13年目を迎えて 1

2024-03-11 05:50:03 | 日記

みなさん、おはようございます。

東日本大震災の日からまる12年が経ち、今日、13年目のスタートを切りました。

代表の松村が被災地に残された動物の保護を始めてから皆さんの温かいご支援により、今日まで無事に活動して来れましたこと心から感謝申し上げます。

みなさま、本当にありがとうございました。どうぞこれからも応援よろしくお願いいたします。

現在、震災から13年経って富岡町の人口は約2100人です。震災前は約16000人でしたので、原発で成り立っていた町の復興はとても厳しいものになっています。

今日はこれまでの13年を振り返って更新させていただきます。

写真は松ちゃんの親友?と思うほど仲の良い、フランスのフォトジャーナリスト アントニオ・パ二オッタさんです。今日は彼の写真を紹介しブログを更新させていただきます。

 

アントニオさんは2011年富岡町が強制避難区域に指定され住民が居住地域への立ち入りを禁止されてから、人のいなくなった富岡町でたった一人で残された犬や猫の救援活動をしていた松ちゃんと出会いました。

それから今も付き合いがあり何度も来日しては松ちゃんに会いに来てくれ親交を深めている松ちゃんの友人です。

 

2011年津波後の富岡の海岸 (アントニオさん撮影)

僕の町は海岸から200mくらい離れた場所に駅があり、駅前通りは瓦礫によって本当にひどい状態でした。

店も家屋も瓦礫とともにめちゃくちゃでしたね。家の中に軽トラックが入っていたり、家屋がそのまま流されて駅前に佇んでいたりと、想像のはるか上を行っていました。

2011年津波後の富岡の海岸 (アントニオさん撮影)

海岸に行ったときは拾得物を身内の方に届けられるように、ボランティア活動をしていた松ちゃんです。

 

震災直後、地震と津波と原発事故で壊滅的な町の惨状を憂いている場合でなかった松ちゃんは、日々、家に残された犬や猫たちの餌やりをし、朝から晩まで動いていました。

特に震災直後は、餌を確保するのが本当に大変だったと言っていた。

店がいわき市まで行かないと無い。富岡町から40km以上離れたいわきのホームセンターで餌を購入するも、次に餌を買いに行ったら棚が空っぽで入荷していないとか、こんなことが当たり前にあって本当に苦労したようです。

この頃は、放射能を恐れて社員の健康被害を考え配達を拒否していた配送会社がたくさんあり、商品の欠品が多かったです。ガソリンもいわき市まで出ないと購入できなかったから、それだけでも大変だったろうし、餌の確保に苦労したのです。

2011年残された家のペットたちの餌やりに同行したアントニオさんの写真 

2011年5月頃、松ちゃんは東京に出て来て青山にある動物愛護協会の理事長に直談判して、犬、猫、鳥用の餌を大量に用意してもらった。

あれがなければどうしようもない状況だったから本当に助かりました。あの時の若い理事長さんに僕は今も心から感謝しています。

2011年 アントニオさん撮影

彼はその餌で町に溢れた動物たちに餌を与えることができた。

それはイノブタやダチョウや、その他の動物たちを救った。

町の中を徘徊していたダチョウに餌を与える松ちゃん 2011年 (アントニオさん撮影)

ダチョウも15羽(15頭)くらいは檻から逃げ出して郡内の町を徘徊していました。

僕も目の前でダチョウを見たときは怖かったです。2m以上の高さで威圧感が凄かったし、本当に別世界いる感じ。

サファリに来たような異様な感覚を覚えましたね。

 

自分で買ってきた配合飼料で餌付けする松ちゃん。2011年 (アントニオさん撮影)

松ちゃんは犬や猫の世話は毎日続けた。真夏の餌やりは朝から始め正午くらいには暑さのせいで頭がボーとして体が動かなくなると、富岡川にすっぽんぽんで川に入り、30分くらい入って体が冷えてきたら活動開始。午後も暑さでやられそうになったら又、川に入って体を冷やしてから夕方暗くなるまでやっていました。

町には誰もいなかったから、すっぽんぽんでも問題なかった。

みなさんは、電気のない生活を想像できますか?一度、電気製品を使わない生活をしてみるとわかります。電気のありがたさが。

電気がなければご飯を炊くこともできないし、ましてや真冬は買って来たご飯を温めたくてもレンジが使えなくて冷えたままのガリガリご飯しか食べられない。

真夏は冷蔵庫が使えないから保存が利かない食べ物は買えないし冷たいものが飲めない。洗濯機も動かないから手で洗うしかない。お風呂も沸かせないから入れない。掃除機も使えない。照明もTVも何も使えないんです。

不便極まりない生活です。そんな生活を彼はしていた。

2011年 (アントニオさん撮影)

明かりはろうそくを使っていました。水は山の湧き水を使っていました。トイレは自然公園(林とか山の中)です。(笑)

冬は湧き水が凍って溶けるまで何もできなかった。

ダチョウは砕いた氷を与えると、そのまま口に入れて飲み込んでたけど、犬たちは溶けるまで待っていました。

兎に角、究極の生活でしたね。僕は呆然としました。僕にはできないと。。。。

離れ牛を撫でる松ちゃん 2011年 (アントニオさん撮影)

何月頃だったか国から要請があったのか、動物愛護協会が被災地のペットを救出した団体及び個人ボランティアに支援金を出すと発表し、全国からいろいろな動物ボランティアが入り、犬や猫の数が減って犬や猫の世話が楽になっていた。

この頃は、町に牛や豚、イノシシなどの動物が縦横無尽のように出没してました。住宅街に似つかぬ動物たちが徘徊していてカオスな状態。

上の写真の牛は畜主さんが餓死させたくないからやむなく放った牛なので、人なれしていて従順な牛が多かったと思います。

 

それに引き換え繋ぎっぱなしで避難した人もいた。

 

惨かった。許せなかった。  3枚とも2011年 (アントニオさん撮影)

酷すぎる 松ちゃんは原発事故の証人としてこの状況をカメラに収めた。

この牛舎には100体以上の亡骸があった。

この写真を見たとき、僕はこれが21世紀の日本にある光景なのか?と愕然とした。

 

松ちゃんは犬猫の世話で走り回っているときに、モ~モ~と元気よく牛の鳴き声が聞こえていたので、牛は元気にしてるんだなんて思っていたそうです。

犬猫の世話で1日が終わる余裕のない毎日を過ごす中で、ふと、あれっ牛の声が聞こえないよなと牛舎を見に行った時に、この状況と遭遇したのです。

松ちゃんは振り返り、犬と猫の世話だけでいっぱいいっぱいだった。一人では助けたくても体力的にも、とても牛のことまで手が回らなかったんだ。。。。と。

牛を飼ったことなんて無いずぶの素人だから、餌はどこから買えばいいのかも、何もわかっていなかったとも言っていた。

松ちゃんちの使ってない納屋に入り込んでいた牛 2011年 (アントニオさん撮影)

 

保護したダチョウの柵の餌を見て納屋から出てきた牛 2011年 (アントニオさん撮影)

 

肘を付けてダチョウの餌を食べる牛 2011年 (アントニオさん撮影)

夏場は、どこもかしこも草が生えていて牛の餌は潤沢にあったから、国道に出てきて車と衝突する事故だけ目立っていたが、秋から冬にかけて食べる餌がなくなり、民家の納屋にある味噌樽とか農家の米ぬかとかを狙って家々を壊して、さらに糞尿をまき散らしていたから役場への苦情が多かった。

僕の家の庭にも牛の糞があったことがあったので、自宅の柿を食べに来ていたんだとすぐにわかった。

当時、双葉郡内には1000頭を超える離れ牛がいた。

国は早い段階から全頭殺処分を決めていたが、ついに松ちゃんが殺処分現場を目の当たりにしてしまったのです。

 

帰還困難区域の松村牧場  母親と子牛の写真 2012年 (アントニオさん撮影)

上の写真ではないが、松ちゃんは牛の親子の殺処分現場を見て怒りを爆発させた。

前足と後ろ足の4本のうち3本を縛られ、立っているだけでやっとの親牛に筋弛緩剤注射を打って母牛が倒れて死んだ。子牛は母親が死んだことも知らずにおっぱいが欲しくて横たわる母牛の乳首を懸命に吸っていた。

その子牛の姿を見て、松ちゃんは我慢できなかった。

その子牛にも筋弛緩剤注射を打とうとしていたらしい。

そこで「お前らやめろ!」と筋弛緩剤で牛を殺している人間に「それをよこせ!」と殺処分を止めてしまったのだ。

松ちゃんは「それ1本をよこせ!お前に打ってやる。そしてもう1本は俺が打つ!だから早くよこせ」と、それは鬼気迫る本気の松ちゃんだった。そんな彼の顔を見れば誰でも怖いと思う。

職員さんとの押し問答で「じゃぁ、あんたが離れ牛の面倒を見るのか?責任とれるのか?」って言われて、売り言葉に買い言葉で「あ~、俺の町にいる牛は俺が面倒を見る」って言っちゃったんだ。

これが牛を保護することになった大きな要因です。

この行動はダメだと言われるかもしれませんが「牛たちは何も悪いことしていない。なんで罪のない牛が殺されなくちゃいけねぇんだ。全部人間が悪いんだ。この事故だって東電が起こしたんだから、東電が被災地の動物たちが死ぬまで面倒をみるのが筋だべ。」が彼の持論だったし、人間の都合で殺される動物たちを哀れに思う松ちゃんのことを僕は理解できた。

しかし国の指示通り殺処分を遂行する職員の仕事を止めたということで大きな問題になった。

これが本当に大問題に。。。。。

この後のことを次回、書かせていただきます。

今日は東日本大震災でお亡くなりになった方々へ哀悼の意を捧げたいと思います。

みなさん、本日は長々とお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

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