ときぶーの時間

募金の受付先 東邦銀行 安積支店 普通0644994 名義がんばる福島
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噂と事実 Part2

2011-11-30 08:00:00 | 日記
NO-14                                                           
今日は、昨日の続きを書くね。彼に金庫を拾わなかったのかと聞いたら、「冗談じゃない!俺は泥棒じゃないし、富岡に残っているのは、俺だけって思われているのに、そんな悪さ出来ねえべ!それに、拾って来てもすぐにばれるべ!」と。 
                                                                 

彼は、残された動物の世話でいっぱい、いっぱいでそんな事を少しも考えられなかったらしい。僕は下賎な想像をして、拾ってくれれば良かったのにと思った。おもしろい話題が一つ増えたのに。                                                                                                            

人が出来ない事をやってしまうのが、彼の真骨頂なのに、おもしろい事を期待した僕が馬鹿だった。僕にも、金庫を拾って来る度胸も勇気も無い。                                                           


この僕の貧弱な体で金庫を持ち上げたら、その時点でぎっくり腰になって、誰もいない浜辺で動けなくなって「誰か助けてくれー、このままじゃ被曝しちゃうよー」と一人で泣いてたかも?(笑)                                                                        

彼も僕も、どちらかと言えば正直者は馬鹿を見るくちの人間なんだと思う。この頃のいわゆる火事場泥棒は、めちゃくちゃ暴れまくっていて、僕の行きつけのお店の数々で、品物や金品を盗んで行った。                                                               

僕の勤めていた店(家電地域量販店)も、倉庫の液晶TVやプラズマTVなど約200台に、ブルーレイレコーダーなどきれいに盗まれたと、一時帰宅で帰った社員のN氏から聞かされたし、地元の大型ショッピングセンターからコンビニまで、お店というお店に泥棒が入った。                                                                           


 
僕の勤めていた店は、店頭の大きなガラスを壊し侵入されていて、同じ店舗内のゲオのDVDソフトは全部盗まれ、2Fに電気製品の倉庫を設けていたのだが、裏の社員専用の出入り口の扉を壊されて盗まれていたと聞き、5月の一時帰宅の時に僕も見に行ったのだが、本当に壊されていてがっかりした。                                                                                                                                                                
 冒頭にも話が出たが、ライバル店になるはずだったオープン直前の在庫を抱えていた一流家電量販店の被害は、数億円になったと思う。                                                                   


僕が良く行っていた時計屋さんは、店の裏口を壊されて侵入され、貴金属コーナーのショーケースを壊され、指輪やネックレスなどの金・プラチナ製品は全て持っていかれたという。                                                                                    

ある信用金庫のATMの機械は、建物をその部分だけ壊して機械を引き出し、駐車場?みたいな所で解体され無残にもお金だけ抜かれた残骸だけが、残されていたと僕は聞いた。                                                                                                     

銀行や信用金庫などのATMは、一箇所に2~3台くらいあるから、コンクリートの壁を壊せば全部取り出せちゃうのだから、コンビニのATM1台より割りに合う仕事になっただろう。                                                                                                                    

お金を引き出すATMの被害だけでも、数億円にのぼると新聞でも発表されたが、泥棒の被害はもっと大きかったのではないだろうか?僕の知り合いが勤めていた、大型ショッピングセンターのブランドショップも、ショーケースを割られて手当たり次第、バックや財布など根こそぎ盗まれていたらしい。                                                                                    

こんな事が、6町村のあちこちであったのだ。被害の大きさが分かる。町には電気が無いのだから、セコムや警備保障の防犯センサーも全く作動せず、泥棒にとっては、人もいないのだから、人目を気にせず簡単で安心でやり易い、彼らにとってはおいしい仕事だっただろうなぁ。                                                                      

僕の中では、この頃は自分でも放射能が怖くて、町に入って来る人は誰もいないだろうと思っていたから、こんな事があるなんて全く予想もしていなかった。                                                                                                                             やくざ屋さんの手下にしろ中国人の窃盗団にしろ、泥棒も度胸あるよ!放射能なんて気にせず、ここに入って仕事するとは驚いた。恐れ入った。というより悔しい!                                                                                                      
何で毎日コツコツ働いて真面目に生きている人達の財産を、労せず一瞬で持って行くんだ?こんな事されると、ほんと真面目にやってられないよなぁ。                                                                                                                               僕はこの年になって、初めて火事場泥棒なるものを知った。(泣)                                                                                                                                                                                                                                                                                                      
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噂と事実 Part 1

2011-11-29 06:35:25 | 日記
NO-13                                             一昨日は、正直疲れました。一日ブログを休ませて頂いて、少しリフレッシュ出来たか?と言うと、全然出来なくて、誤字の所を見つけて、がっくり来ました。一説じゃなくて一編と打てばよかったのに・・・恥ずかしい限りで本当にすいません。                                                                                 

それに、第一原発の吉田所長が、病気のため退任するニュースを知って「うそー!」と。事故後の原発の中で働く人達の司令塔として、人望もありとても残念だ。ショック。 
                                                  
気になる病気の話しだが、大きな病気でなければいいなぁと思う。今は、療養し早く病気を治して、第一線の世界に戻ってきて欲しい。

                                                 
吉田所長様へ、この事故であなたは、自分の命を顧みず先頭に立ち、多くの作業員に勇気と希望を、国民には安心感を与えてくれました。 
                                                         
福島県民の一人として、言います。「お疲れ様でした。今は、ゆっくりお休みいただき病気を治し、早く良くなって下さい。本当にありがとうございました。                                                                                        
福島県民には、大きなニュースだったから、びっくりしたけど気を取り直して書きます。今日は、避難所にいた時から広がっていった噂話の事を書こうかなあと思う。
                                                                         
あの頃は、何につけても噂なるものが横行し、色々な噂が飛び交い話題が豊富にあった。


話しの中にはには尾ひれまでついて、顔見知りの人の事だと、目くそ鼻くそまでついたような噂話しもあって、聞いてる僕も世間のおばちゃま状態であったのだが、その人がみんなの不便な避難所での生活の恨み辛みの吐け口にはなったのだと思うと、あまりいいものではなかった。


 
          
                                                  
本当かどうかわからないが、電力会社から一日一人100万円で、仕事を受注した大手ゼネコンが大阪の方から、日雇いの作業員を確保し、日給20万円支払って一日限りで被曝する仕事をさせているとか、どこかの町長は電力会社から賄賂を貰ってどうのこうのとか、津波の去った浜辺には何億円か入った誰それの金庫が見つかったとか、3月にオープン予定の一流電気量販店の店舗の何億円にものぼる在庫の品を、中国人の窃盗団が盗んでいったとか、銀行やセブンなどのコンビニのATMの機械を、集中的に盗んだのはやくざ屋さんの手下だとか、まあ本当にたくさんあって、そういう意味では飽きなかったし、反面おもしろかった。

                                                                   
噂は留まることを知らずに、その数も増えて大きくなっていったが、彼は別世界の廃墟の町で生きていたから、そんな話とは無縁であった。富岡町も津波の被害があって、震災後に海岸の浜辺にはたくさんの金庫が流されていたと言う。   
                                                  

                        
家や車は原型を留めていない状態であったが、金庫はさすがにそのままで発見されたようだ。僕の友人の一人で、郡山に避難している友人が「俺の親戚に、クレーン車で金庫を取りに行くのを手伝って、その金庫が見つかったお礼に、一億貰ったような事を言った」とか言わなかったとかで、僕はあながち嘘ではないのだろうと思いながらも、これも尾きれがついた噂の話しだからどこまで信用していいものだろうか?と。


                                                                 
僕はその金庫の話しをしながら彼に、海を見に行った時にどうだった?と聞いたら、「うん、そう言えば金庫はたくさん見たな」と。お金が入った金庫が、浜辺に散乱している状況で、富岡町にたった一人で残った男であり、いつでも手に出来た目の前にいる彼が気になって、僕は金庫を拾わなかったのか?と、すかさず彼に聞いたら、すぐに答えが返って来た。                                                                                             次回に続く。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      
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放射線治療?

2011-11-27 17:10:00 | 日記
NO-12                                             みんな、ごめんね!今日、朝3時に起きて4時に横浜を出て、福島の自宅へ一時帰宅で富岡町に帰っていたから、いつもの時間にブログ送れなかったです。

                                                                               
朝8時に富岡に着いてすぐ、避難区域の怪物君(松村氏)に電話をして、自宅で会ってたった今、横浜に帰って来ました。


でも、がっかりしたよ!自分の家は住宅地にあるのに、僕の家の庭に大きな牛の糞が5つもあって、俺の家まで牛が入って来たのかよーって・・・・・(泣)                                                                      

富岡の仮設役場に、住民からの苦情で牛の糞の問題が出ているのは、話しに聞いていて「ふんふん。」なんて感じで人の話しを聞いていたのだけど、僕の家には牛は来ないと思っていたから、これにはまじ、ショック!                                                 

                                                 帰ったついでに、彼の家まで行ってきたのだけど、彼の家の敷地内に牛が5頭もいて、にんにくを干してあった納屋の下にいた1頭が、吊るしてあったにんにくを全部牛が食べちゃって、それこそ僕の目の前で、平然と根こそぎ食べていた。人間に飼われていた牛は、逃げないね!ほんと。
                                                                                                                                                  「こいつら、あるもの全部食いやがる!全く、手を付けられねえよ!」と彼は言っていたが、もう12月に入ろうかという時期だもの、餌が無いのだから、何でも探して食べあさるよなあ!
                                                                                                                                                   もう笑うしかないような事なのだと、諦めた。お昼前に彼と別れたのだけど、その時に車を走らせ坂を上りきるかって時に、突然横から牛が出て来て、危うく牛とぶつかるところだったから、勘弁してくれよ!って僕は思った。                                                                                              

今日は、一時帰宅の話しではなくて、僕が今年の5月に彼と再会した時に、訊ねた事を書いてみたい。


今日と明日の分をこの一説で予定変更させて頂きたいので、宜しくお願いします。楽しみにしてくれている、みなさん本当にごめんね!今日はあまり寝ていないから、書き終えたら爆睡する予定!(笑)                                                                                                         

ある日、僕は彼に聞いた。「放射能が怖くないのか?」と、返ってきた言葉に唖然とした。「全然!少しくらい放射能を浴びてたほうが、癌にならないよ。                                                                        


毎日、病院に行って放射線治療を受けているつもりだから、心配してないし、52歳になってあと何年生きると思う?10年、15年、20年後に癌ですって言われたとしても、その時は自分の寿命か運命だと思うから大丈夫!                                                                                                

それに今、癌で死ぬのもちっとも怖くねえし、先生にも言われたんだけど、放射能より俺達が吸ってる煙草の方が、もっと悪いんじゃないか?」と言った。                                                                             

                                                 彼に言わせると、「俺が完全に被曝しているとしても、爆発した原発の構内で仕事をしている人より絶対に、被曝量が少ないはずだ。」と変な自信を持っている。                                                                          

                                                 確かにあの構内は、今でも防護服を着て入って行っても、場所によっては10分、20分、30分あるいは1時間、2時間、人によっては今日仕事したら明日からは、他の部署に回されて作業出来なくなる所もあり、まだまだ線量の高い場所があると聞いている。                                                                                  


彼は、自分でも内部被曝していると思っていると僕は思うが、食べ物には細心の注意を払い生活してる。夏の頃、彼と会った時に、今まで自分で釣った川魚をたくさん食べていたのだが、食べる量を減らしたので、僕は話しを聞いた。                                                                                           


後にも登場する、ある有名な研究所の博士と知り合い、これはどのくらい食べてもいいとか、色々な情報を博士から教えていただき、それを実践していたのだ。                                                                           

                                                 今年は鮎を獲りたいだけ獲り、たくさん食べていた彼だったが、一日で食べる量をすぐに軌道修正した。そんな彼を見て、僕もあいつなら心配ないだろうと思ったが、それでも正直、僕は、放射能が怖くて彼と同じ事は絶対に出来ない。                                         

                                                 

だからそんな事を、さらりと言い切る彼には本当に脱帽した。しかし反面、馬鹿か天才か、はたまた奇人か変人か?と正直思ったのも事実であった。(笑)普通の人ならそう思うよね!                                                                

                                            
彼には2人の子供がいて、2人とも成人し埼玉で暮らしている。彼は「二人とも自立したから、親父の俺は好きな事やるさ!」と言っていた。こんな状況でも楽しんでいて、なんとも愉快で豪快な男である。                                                                                                       今日はここまで、みなさん、あさってまた会いましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
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子供たちの苦しみ

2011-11-26 08:01:50 | 日記
NO-11                                             今日は、被災地の子供たちの事を書こう。被災地に残った彼は、毎日一人でくまなく町の中を歩き、地震で壊れた家や断裂した道路、屍骸だらけの牛舎や鳥舎、家々に残されたペットたちの姿を、デジタルカメラやムービーに収め歩いていた。(この映像や写真の一部は、地元のTV局で放映された。) 
                                                                                                                                                              その時に、電力会社の社員で保守点検のために富岡町で仕事をしていたH氏と出会った。それでH氏に「こんな所にいては危ないですから、早く避難して下さい!」と言われたのだが、突然見ず知らずのH氏に言われた彼は、カチン!と来てこう言い返した。                                                                                                                                  

「誰のせいで避難しなきゃならないんだ!いいか良く聞け!着の身着のまま逃げた子供の中には、今年入学する子もいて、爺ちゃんや婆ちゃんに買ってもらったランドセルを、楽しみにしていた子供もいたんだぞ!そのランドセルも置いて逃げて行った子供の気持ちを考えた事あるのか?おまえら3万人以上の会社なのだから、一人千円でも寄付を募って、その子供たちを何とかしてやれ!」と一気にまくし立てた。
                                                                                                                                                            この時の彼のクレームは、間違いなく電力会社の本店に届いたのだが、何もしてくれなかった。今回の震災で精神的に傷ついている子供たちを、僕は他にもたくさん知っている。

                                                                                                                                                                     
ある小学生の話だが、大熊町の住民は町ぐるみで会津に避難したのだが、全員という訳ではなかった。県外に避難した家族もあれば、他の市町村に避難した家族もいて、大熊町は会津に仮設の小学校を作ったのだが、この時すでに半分の児童しかいなくなっていて、大熊町は2つの学校を1つにして仮設の小学校を、会津町に開設したのだ。                                                                                                                                             

その子の友達の親が、この震災で仕事を失い会津で仕事を探すも、会津では仕事を見つけられず、新しい仕事をいわき市とか仙台市に見つけ、家族と共に友達が一人、また一人と次々に転校して行った。                                                                                                         

その子は、4歳の頃からの仲の良い複数の友達との別れに、驚愕し悲しみに暮れていた。自分の力ではどうする事も出来ない大きな問題に、毎日押し潰れそうになりながらも学校へ行き、友達との別れをして帰って来る。                                                                                                                                                 

会津に避難して来た時に、同級生が半分になっているのに、そこから次々に転校して行く友達。話題は今度、誰が転校して行くか?なんて話ししか無かったのか?その深刻さと不安が良く分かる。                                                                                                            

こんな状態で勉強なんて、普通に出来なかっただろうし、その子のお母さんは「急に学力が落ちたのと、集中力が無くなったの。他の家の子も表情は暗いし、落ち着きが無くどこかおかしいのよ」と言った。

                                                                                                                                                        その子にとっては、大人には分からない辛い日々、それでなくても大熊の自宅にいた時は、自分の弟みたいに可愛がっていた犬と、この震災で別れたばかりで、がっくり来ていた彼は、更に心の拠り所を失い絶望の淵にいた。                                                                                               

今度の会津の借り上げ住宅では、犬が変えないという事で他に預けてきた訳だが、この状況を分かる大人と分からない大人の差が出るところなのだが、小学3年生くらいでは思いっきり辛かっ事だと思うよ!                                                                                                       

毎日仮設の学校に通うその時に、ポツリと彼が自分の母親に言った言葉が「お母さん、もう僕、この学校でいいや」と投げやりに、また憂いの表情で、避難先の学校でない地元の小学校をさして言ったのである。                                                                                                     

もう友達の転校は見たくない!最後に残るのは、どうせ僕だけかも知れないから、こんなに辛いなら、いっそ他の学校に行って新しい友達をたくさん作りたい!という事なのだ。                                                                                                                     
この子だけじゃなかっただろう。友達の転校やその話しに不安や焦りに怯えて暮らす日々。お母さんはこうも言った。「子供の中には、学校に行きたくない!と、ごねる子供が多いの」だと。                                                        

こんな事から子供の心の叫び!に悩む親が多い事と思う。今日は、この家の話しをしたが、小学3年生や4年生くらいの子供にも母親にもきついよ、これは。                                                                                              
この子たちは、親友って言える友達を作る事が出来るのだろうか?と真剣に考えてしまう僕だった。こんな訳で、大人以上に悩んでいる子供たちが、今回の震災でこの東北にはたくさんいる事を、みんなに知って欲しい!                                                                                                

自分の事ばかり考えて、子供の事を等閑にしている大人が多いこの時にあって、松村氏は、そこら辺の大人より子供の気持ちが分かる男だと、その時強く思った。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    
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親友のアキ

2011-11-25 08:40:50 | 日記
NO-10                                             昨日、僕はとても有意義な一日を過ごして、今日は気分のいい朝を迎えた。元社長のTさんを紹介して頂いて、少し乗りすぎちゃった感じもするけれど、自分の素を出して相談も出来たし、知らないことを色々と教えてもらい、ほんと久々に嬉しいを実感する一日を過ごし、気分良く今日も書くね。                                                                                                

                      
今日は、強制避難区域に一人で残る彼を、癒してあげている彼の親友の事を書こう。彼の今の親友はアキと言う名の犬だが、アキは5月に出産したが、出産後具合が悪くなり、子供の面倒を見ない、育児放棄のダメ母犬になってしまった。

                                                                                                  後に原因がわかり、手術をして治したのだが、その時の彼の行動が、またおもしろかった。アキは病気で自分の子供にミルクをあげないでいて、このままでは、子犬が全部死んでしまう!と彼は、早くミルクを探さねばと一人焦っていた。                                                                                    

人間の赤ちゃん用粉ミルクも、ペット用のミルクも廃墟の町富岡町には、どこにも売っているお店が無くて、困った彼は代用ミルクを考えに考え、牛の乳を選びメス牛を探しに出かけたのだが、放し飼いになっている牛は、なかなか決まった場所にいないので、捕まえるにも大変だから、牛舎の中で生きている牛を探した。                                                                                                    

   
その頃は、国が決めた牛の殺処分に反対していて、彼の友人でもあり僕の義父の舎弟文だぞ!と言っていたH氏も30頭飼っていて、避難しないで牛の面倒を見ていた人もいたからだ。(後にH氏も牛を全頭放し飼いにし、富岡町をあとにし避難所に入る)                                  


                                    
ようやくメス牛を確保した彼は、牛を引いてきて乳搾りを始めるのだが、和牛は肉用牛なので、乳が搾れない。

                                              
30分40分乳を揉んで、ヤクルトの小さな容器に、やっとの思いで半分搾ったのに、まさかのまさか、その家の番犬であった大きなセントバーナードが、「牛舎の柵の中に隠れて、何やらもそもそと動いている変な奴がいるぞ?」と近寄って来て、彼の背後から「ワン!」と大きく吠えたものだから、乳搾りに夢中の彼は、びっくりしておもわず両手で握っていた牛の乳を、ギュッと強く握りしめ固まった。                                                                        


牛の方も、強く握られた乳房が痛かったのか?それともあの犬の大きな鳴き声に驚いたのか?足をばたつかせたものだから、苦労してやっと搾ったお乳が入った小さな容器を倒して、全部がこぼれてしまい、また最初からやり直しに、「えっ、嘘だろう!」と思い落胆した彼であったが、気を取り直してまた30分から40分かけて乳絞りをして、本当にやっとの思いで、小さな容器に半分搾ったのだ。                                                                          

和牛は肉牛なので、乳牛と違って乳が出ないのだって、それに僕らの地方は肉牛としては双葉牛という良い牛が生産されていて、乳牛を飼っている人がいなかったみたいだ。                                                                                                                  

これには、彼も毎日こんな事やってられない!と思ったらしく、とにかく大変だったって言っていたけど、分かるよなあ!自分でもこんな大変な事やるの考えたくない!(笑)次に、ビニール手袋を用意して、手袋の指先に針で穴を開け、指先部分をはさみで切り取り、搾ったミルクを入れて子犬に飲ませるのだが、これが驚くほど喜んでゴクゴクと一気に飲んだらしい。


                                                                                                  子犬が4匹もいたのだから、毎日2時間以上は乳絞りをさせられていた計算になるので、僕にも彼の疲れ方が良く分かるよ。だって餌を各家々に配り疲れて帰って来てから、この仕事が待っている訳だから。                                                                                                  
 ミルクも大変だったけれど、おしっこさせるのも大変だったと言っていた。母犬は子犬の排尿を促すのに、普通ならペロペロと舐めて、おしっこしなさいと子犬に教えるのだが、病気のアキはやらないから子犬がおしっこしない。                                                                                          

これも大変だぞ!と彼はティッシュペーパーで、子犬たちの小さなおちんちんを何度も刺激して、何とかおしっこをさせたが、毎日時間のかかる事ばかりで、さすがの彼もこれにはうんざりして、本当に参った様子だった。(笑)この子犬達は、里子に出されて今は幸せに暮らしていますので、ご安心して下さい                                                                                                              
でも、彼には本当に感心するよ!こんな時はどうしようとか、困ったことがあっても、その時の状況に合わせて、それなりに工夫してやってしまうし、色々な事とかこんな事まで知っているの?ということが多くて、びっくりするよ。

僕が、あまりにも無知だからかも知れないが、いつも驚かせられる。子犬のおしっこの事は全然知らなかったから、僕が子犬を見ていたら病気にしてしまったかも。                                                                                                                                                                                                                                                                               
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病気と習性

2011-11-24 08:13:58 | 日記
NO-9                                              避難してから、もう8ヶ月を過ぎたというのに、この頃やっぱりっていうような自分の出不精なるものに支配されて、予定の無い日は一日中家の中にいても、それが苦痛に感じないのだから、ちょっとまずいな!って思っている。                                                                                             

朝起きて、今日何を書こうかな?とパソコンに向かい、あれこれ考えて書き終えるのが、11時頃でその後も校正したり、書くべき事追加したりで、予定が無い時はパソコンに向かっているから、昨日は腰が痛くて参ったよ。                                                          

ブログだけじゃなく、ネットでニュースを見たり、何かを検索したりで完全にオタク予備群か?仕事していないっていうのが、最大の問題かも。マイホームを福島に残したままで、何から何まで置いてきていて、一時帰宅や立ち入りや賠償問題の事とかあって、こんな状態じゃ仕事どころじゃないよなあって、思っちゃう。(泣)                                                          

避難している人の中で、まだ仕事出来ないでいる人がたくさんいるみたいで、僕も落ち込む。今日は予定があるよー。厚木に出て人を紹介してもらうから、少しワクワクしてる。  何でも、元社長で今は遊び人なんだって。                                                             
遊び人って聞いて、興味津々!楽しみだなあ。さて今日は、松村氏が数千匹の動物たちの餌を、ある団体から手配してもらってからの話で、その時に出会った犬の事を書くね。                                                                                                      
動物愛護団体の事務局長から、動物たちの餌を用意してもらってからは、雨の日も風の日も、今年の夏の炎天下の日も、もろともせず、とにかく一軒一軒家をまわり動物たちを生かすために、彼は軽トラックに餌積んで、今でも動物たちと強制避難区域の富岡町に、たった一人で暮らしている。                                                       

彼が餌を与え続けていたから、その後に何とか団体の人達が入ってきて、鎖につながれた犬や家人のいない家に住みついた猫などを、保護する事が出来たのだ。彼がこの事を、喜んでいたのは僕も知っている。                                           

何故なら、この団体の人たちのおかげで、餌をあげ続けていても、獣医ではないから病気の面倒まで見ていてあげられなかったからだ。一ヶ月を過ぎた頃から、疥癬とか血種とか色々な病気にかかっている犬が増えていた。                                                                                 

ちなみに疥癬は犬がとても痒がり、毛が抜け出していたら要注意!これは、顕微鏡で覗いて見てわかる、小さなヒゼンダニが引き起こす病気だ。                                                                      

このダニは表皮を餌に生活するダニで、メスは表皮の中に2mmから3mmのトンネルを掘って、その中に卵を産み付ける。その卵は3~10日以内に成長し、メスならまた新しいトンネルを掘って、産卵するやっかいなダニだと言う。                                                                                          

ひどい犬は鼻先から胴体や足などにまで広がり、半身毛が抜けている犬もいて、とても痒かったのでは?と思う。                                                                                                

また血種は、犬同士の喧嘩によるものが多いと聞いたが、傷ついた皮下に血液を含んだ水癌が出来る病気で、特に耳に多いと聞いたのだが、これもひどいと耳を切除したりと、手術が必要になるのだと。                                                        

この事があって、彼のボランティアがどれだけ楽になったことだろう。一時はペットの数が多すぎて、本当に回りきれないほど大変な仕事だったからである。                                                                                 
それでもまだ、町内には犬猫が残されているのだが。(彼の話では今は猫の方が多いと)この事について、彼は僕にこう言った。「犬は本当に餌のやりがいがあったよ。今は、尻尾を振って迎えてくれる犬が減ってるから、少し寂しいよ」って。                                                                                      ペットも精神的な病気になると本で読んだことがあるが、置き去りにされたあの犬たちは、食べるものも無く何日も飼い主を待ち続け、本当に辛かっただろうと犬を思った。                                                                                 
人間と同じで、へこたれる犬もいるだろうし、僕みたいにいじけて、皮肉れる犬もいるだろうなあと、勝手に想像しいてそれってあるよなあと感じた。                                                                                            
その他にも「犬は猫より、狩猟本能が落ちるよ」と彼は話した。犬は餌を自分で獲る能力が猫より劣るのだと。野犬ならともかく、飼われていた犬では狩猟は絶対に無理だよと、僕も思った。                                                                                    
彼がいつものように、猫に餌をあげに行った時、猫が何やら長い紐のようなものを、銜えてやって来たと言う。よく見ると彼のごつい親指より太い蛇で、1mの青大将だった。                                                   
猫は青大将の頭をがぶりと噛んで、完全に蛇の息の根を止めて、引きずってきたのだ。この青大将という蛇は、当然彼らの餌になる。                                     

                                                 猫は蛇までも餌にして生きているのに、犬は蛇を見て逃げて行くか、かまうけど餌までしないというか、蛇以外のものにまで難なく逃げられてしまうらしい。                                                                                         
僕も小学生の頃、タマとミケという2匹の猫を家で飼っていたのだけど、しょっちゅうその2匹の猫に、手をガリッとひっかかれていた。                                                           

この頃から猫の気持ちが分からない人間で、猫が気分のいい日か悪い日か?全くわからないでいたけれど、動物は可愛いものだといつも思っていた。                                                                                             
そんなある日、学校から帰ってきて何気なく、部屋に入り自分の勉強部屋のごみ箱の中を覗いたら、そこには首を噛み砕かれ、血管とか筋みたいなものが飛び出ていて、首を真っ二つに折られた血だらけの、真っ白な鳩が入っていて、当時の僕には言い表すことが出来ないくらいのショックで、声も出せず真っ青になって固まった。                                                                                           

まだ、小学3年生くらいだったから、気持ち悪かったのと、怖かったのと、そのごみ箱はそれ以来触れず、当分見られなかった。ほんとに泣きそうだった。                                                                                            
自分の家の猫が獲って、ここまで運んで来たのだとすぐにわかったのだけど、あの時の衝撃と言ったら無かった・・・・あれ以来、猫はどうしても飼えなくなった。                                                                                      
動物の屍骸に、かなり反応する自分が情けないが、どうしてもダメだ。屍骸があるとわかっているなら、対処出来それなりに見る事ができるのだが、突然、現れる屍骸にはぞっとして固まってしまう。                                                              
あれだけは、駄目だ。僕のトラウマ?かも知れない。話がそれてしまったが、そんな訳で猫は少しくらい餌が無くても、大丈夫だろうと思った。                                                              

今日は、自分の小さい頃の話までしちゃって、みんなごめん!男のくせに情けない奴と笑ってくれればいいです。それでは、また明日。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            
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一本の電話

2011-11-23 11:30:27 | 日記
NO-8                                                                                               都会はいいね!田舎に戻る事ばかり考えている僕だが、かみさんはもう田舎に帰りたく無いみたいで、色々と大変だよー。

美味しいものにも出会えるし、洋服だって種類が多いし、何にしてもスピードが早いし、とにかく便利だね。都会はいいやねえー、志村けんの世界だな、こりゃ。                                                                          

ゆっくりとした福島のリズムじゃ、都会の生活はやっぱダメだわ。都会の人は歩くのも早いし、夜は遅くまで飲み歩き、次の日の朝は栄養剤飲んで仕事行くし、田舎っぺの僕には、まね出来ません。(笑)                                                       

今日は昨日の続きで、原発が爆発してからの彼の事を話そう。その頃の彼は、自分が知らない所で、新聞のある一面の記事の中に、毎日掲載される人間になっていた。地元有力紙の新聞の行方不明者の公示の欄に、氏名を掲載されていたのである。                                            

役場の職員さんは、3月12日に地区別に住民を体育館などに誘導して、その誘導先の体育館で住民に氏名や家族の人数などを、書いてもらい住民の安否を把握しようとしていた。                                                             

僕も小野町の体育館に行ってすぐに、自分とかみさんの名前を書いたのを思い出す。そんな時、彼は富岡町に居残っていたのだから、行方不明者になっているのは当然だった。                                                           

ある日、運がよく彼に一本の電話が入る。彼の親戚のおじさんからの怒りの電話である。                                                          

「おまえは、今まで何処にいて、いったい何をやっているのだ!」と、かなりきつく叱られたと彼は言っていたが、新聞で毎日行方不明と報じられていて心配し、何度も連絡しようと電話をし、なかなか連絡が取れずにいて、おじさんは怒っていたのである。                                            

このいきさつを聞き彼は、「これは、まずい!」とすぐに思い、この件に関しては必死だった。「俺は死んでいないし、こうして生きてるから、行方不明者のリストから外せ!」と新聞社に文句を言って、何としても止めてもらわなくてはと、郡山の新聞社に行くつもりでいた。                                                                       

そんな時に、面倒を見ていた年寄りの友人が、「そろそろ俺のところも、何も無くなってきたから、避難所に入ろうと思うんだけど」と、打ち明けられた彼は一石二鳥とその友人を、車に乗せ避難所に送ってあげるのと、自分の行方不明者扱いを止めるため、約1時間かけて避難所へ向かう。                                                       

到着して避難所に入るや否や「俺はこんな所にいられないな!」と直感し、二日だけ避難所に泊まったが、入所希望の友人を置いて、避難所を担当していた役場職員の呼び止めを無視し帰ってしまった。                                             

それから、新聞社に文句を言ったのだが、新聞社の人に「それは、警察の方から指示が出ているので、警察に直接言ってくださいよ」と。これには彼もお手上げだった。                                                              

この日は仕方なく「とにかく俺は生きてるんだから、掲載するのはやめてくれ!」と頼んで帰って来たのだが、次の日もまた次の日も掲載されていたらしく、何度も文句を言ってようやく止めてもらった彼がいた。                                                  

富岡町に戻ってからの彼は、すぐに20km圏外のホームセンターを軒並み回り、自分のお金で犬、猫、鳥用の餌を買いあさった。3月12日からずっと、各家々のペットの世話をしていて、集めた餌が少なくなっていたからだ。                                                                            
ホームセンターで買った餌で少しの期間、動物たちに餌を与えられるが、これも時間の問題だと、次の方法を模索していた。


何故なら当時、いわき市などの避難準備区域(人が住める場所)でも、放射能が怖いからと言って、品物を届けない運送会社もあって、コンビニの店頭もどこもかしこも、陳列棚に商品は無く、品切れ状態が続いていたのだ。                                                                                               

ペットの餌だって、一度にまとめ買いするが、次に買いに行くと品物が入荷しないでいた。おまけにガソリンも品不足で、いわき市のガソリンスタンドでは、毎朝5時前から車が並び出し、開店時間ともなると200台から300台くらいの車が並び、ひどい所は信号機が作動しているにもかかわらず、右折も左折も、また直進も出来ないような道路になるほど混むスタンドもあり、これには僕とかみさんも驚いたことを思い出す。                                               

この頃の福島の各地のスタンドは、入荷するガソリンがとても少なくて、1台につき10Lという制限を設けて、ガソリンを販売していたから、毎日混みあってしまうのは仕方がなかったと思う。                                                             

田舎での暮らしは、車が生命線であって車が無いと生活するのにも大変不便である。東京のみたいに、電車が2~3分おきに走る山手線のような路線でも張り巡らせているなら、問題もないけど一時間に一本しか電車は無く、都会のようにたくさんの路線も無いから、車は本当に自分の足になっている。                                                            

だから、通勤に毎日往復40km50km走る人なんて、当たり前のようにいるし、それ以上走って通勤してる人もいるから、10L補給して一日で半分以上のガソリンを消費してしまう人もいて、毎日スタンドに並んでガソリンを入れに来る人がたくさんいた。                                                                                  

道路の真ん中で、ガス欠で立ち往生するなんてカッコ悪くて、絶対に嫌だから僕だって、朝早起きして朝5時前から並ぶよ。僕ら避難者にも、ガソリンの心配は大きな問題であり、避難所を一緒に出て来た友人の車屋の社長も、横浜の親族の家に向かうのに、ガソリンが少ししかなくて、本当に決死の思いで家族を乗せて出て来た。                                                                                                

避難所の近くのスタンドで、毎日並んで10Lづつ給油してタンク半分くらいになったから、出るか出ないか?出る時に途中で給油出来なかったらどうしようか?と悩み迷いながら敢行したのだ。                                                  

都会の人には分からないかも知れないけれど、大変だった。(泣)あの頃は、全ての意味で震災を感じて、みんなが生活をしていたと思う。                                               

そんな生活をする中、4月22日に避難指示が強制避難命令に変わり、彼の父母は静岡県に住む彼の姉夫婦が「こんな、放射能で危ない場所に親を置いておけない!」と、父母を引き取っていった。                                                 

彼の父母も、自分の娘が迎えに来てくれて嬉しかっただろうし、彼にとっても姉が見てくれる事を、安心で何よりも心強く喜ばしい事であったに違いない。                                                                      

彼も姉さんが両親を見てくれて、本当に助かったのだと思う。餌の話に戻すが、彼は個人的な予算ではとても生かしてあげられないと一人単身で上京し、ある動物愛護団体の事務所に向った。                                                             

そこで熱く、残されたペットたちの事を語り、餌を用意して欲しい!と陳情するのだが、どこの馬の骨だかわからない人間の話を、最初は全然聞いてもらえない様子だったと言った。                                                                 このままでは、らちがあかないとその事務所の電話を借りて、事故を起こした電力会社の本社に電話をかけさせた。                                                                                               そこで、「こんな事、俺がやる事じゃないだろ!事故を起こしたおまえらの会社がやる事だろ!」と、それは罵声と怒号と聞こえは悪いが、本当に喧嘩をしているような口調と言葉で文句を言ったのだ。                                                                     
愛護団体の事務局長も自分の目の前で、約1時間も大声を出して、本気で怒っている彼を見てこれは徒事ではないと。彼の話から、強制避難区域にたくさんの動物たちが、残されている事をその場で知ってくれたのだと思う。                                                                        
そんなこんながあって、ようやく理解を得た彼に犬用400ケース、猫用400ケース、鳥用400袋の餌が、彼の名前でいわき市の役所に届けられるようになった。                                                                                          
ペットを飼っている人には、一ケースに缶詰めがいくつ入っているか、お分かりいただけると思うけど、各400ケースだから相当な量だったと。しかも、一度だけじゃなくその後も、何度も用意して頂きどれだけの数の動物の命を、救う事が出来たであろう。                                                                     
この場を借りて、動物愛護団体の事務局長のYさんに僕からもお礼の言葉を、述べたい。事務局長のYさん、本当にありがとうございました。深く感謝いたします。今後もどうぞ、宜しくお願い致します。                                                                    
この時の彼には、本当にびっくりしたよ。放射能の汚染に晒されて生活しているだけでも凄い事なのに、動物たちの命を守るべく一人で、東京まで出てきて、愛護団体に行き餌を調達してしまったのだから。                                                                                                       同じ避難者なのに、あの彼の行動力には驚いた。この頃は、仕事を失った人や住む場所を失った人は、次に何をしたら良いのか?分からずに途方にくれ、鬱になっている人も多くみんなが困っていた。                                                    

そんな時だから、彼の行動力はみんなには眩しかったと思う。僕が一番に驚いていたかも?そんな訳で、長々と書いてしまったが、今日はここまで。また明日会いましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    
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2つの理由

2011-11-22 07:55:00 | 日記
NO-7                                              昨日の夜、横浜の友人から突然「今年いっぱいで解雇される事になった。」と電話がきて、「えっ、嘘だろー!」とそのあとの言葉が、なかなか見つからなかった。                                                             
円高に苦しみ、体力の消耗が激しい日本の企業の一面を覗いた感じだが、友人の部署の全員が解雇を言い渡されたようで、友人はマンションのローンもあと20年くらい残っているから、「最悪は自己破産して、生活保護で・・・・」なんて言い出した。                                                                                彼の子供も立派に成人し、二人とも結婚してそれぞれに幸せに暮らしているから、気が抜けちゃったのか?それくらいショックだったのだろう。震災で僕も仕事を無くしたから、良く分かる。                                                             それでも何とかなるから心配するなと声をかけ、近いうちに会う約束をして電話を切った僕だったが、中高年の就職の厳しい現実を知っているから穏やかでいられなかった。                                                           
明日が見えない不安があると、人は消極的になってしまうのだけど、相変わらず積極的に動く彼の事を今日も書く。   
                                                 みなさんも、何故、強制避難区域で放射能汚染の脅威に晒されながら彼が富岡町に残ったのか、知りたいと思うのでここで彼のあの日からの事を振り返ってみたい。                                                                         震災直後、富岡町の町民が避難指示を受け、みんなが一斉避難する中で、彼ら一家は富岡町を避難しなかった。驚くのは、彼の親戚や友人達の一部の人も避難しないでいた事だ。これには本当に驚いた。                                                       放射能が怖くなかったのだろうか?改めて聞きなおしたいと思った僕であったが、言葉を変えてストレートに「何故、避難しなかったの?」と聞いてみた。                                                           
彼は、少し間を置いてこう言った。81歳になる彼の母が、「あんな所に行きたくねえ!あんな所に行ったら、おら死んじまう。もうこの歳になって、どこにも行きたくねえ!おら、ずっとここに居たい!」と言ったという。                                                                                            彼はその言葉に、母の気持ちを汲んで出来るなら、少しでも報いてあげたいと思ったのだと。僕から見ても、彼には避難所生活は無理だろうと感じてはいたが、彼は正直悩んでいた。                                                       
自分の年老いた両親の事を考えると、年も歳だし避難所の方がいいのかもと迷っていた。その時に、母親からのその一言で、思いっきり方向転換した彼であった。                                                               
母の思い通りにしてあげようと決意し、自分だけ逃げることは絶対にしないぞ!と。彼はここに残っていたいと言う父母を、自分が絶対に見ると心に決めた。                                                            
そして彼は僕に「うちのおふくろは、体が丈夫じゃないんだ。」と言った。それが、富岡町に残る理由の第一番目であった。それでも僕には、自分の母がここに残りたいと言ったら、一緒に残れただろうか?・・・                                                 
みんなはどうですか?放射能で被曝するかも知れない場所に親と一緒に住めますか?小心者の僕には出来ないことだと思う。僕は彼の決断がとてつもなく、ゆるぎない芯の入った信念の元に行動したのだった。                                                
次の日から、町は廃墟の町になるのだが、彼は前日まで大手建設会社に、仕事で出入りしていたが、その日仕事場に行ったら、当然ながら無人の仕事場になっていた。                                                              
仕事は無くなり、家路に向かう彼であったが、町を車で帰ってくる時に、あちこちで「ワン、ワン」と犬の鳴き声が聞こえてくるではないか。

この時に、ペットたちがたくさん残されているのを知り、このままではみんな死んでしまう!と餌を配る事を決意したのだった。                                                                                         これが彼が町に残った2番目の理由だ。一番目の理由と二番目の理由が、彼の中でがっちりと絡み合い、被曝する事よりも責任感みたいなものの方が、大きくなっていったのだろうと思う。                                                             
僕自身、この事故は2~3日で収まり、すぐに家に帰れると思っていたくらいだから、町のみんなももそう思ったに違いない。いや、全員がそう思っていた。避難所で出会った人達が僕と同じ考えでいたのだ。                                                     だが、それは大間違いであり、こんなひどい事になるとは、誰も予想しなかった。原発が爆発するかも知れないから、町民全員で避難しますという話だったのに、まさかの原発の爆発!僕らはこれで、決定的に家にも町にも帰れなくなる。                                                                                         僕の家は、爆発した原発から10kmしか離れていない。彼も、ペットを置き去りにしたみんなの事を、ひどい事する奴らだと思わなかった。                                                                                    僕も含めて全員がすぐに帰れると思っていただろうし、本当に原発でこんな爆発事故が起きるなんて、僕らには青天の霹靂だったし、とても信じられなかった。                                                                    
彼は、この日から本格的に、犬や猫、鳥や豚などの生き物たちの世話をする事になる。そして、この頃は友人の買い置きしたペットの餌を貰い集めながら、ペットに餌をあげていたと言う。                                                              僕はあの時に、彼の父母やそのほかに何人かの人間がいたなんて、信じられなかった。僕も、あの原発が爆発した時に自宅にいてボーンという大きな爆発音を聞いた人間だ。                                                           
あの時の大きな音が、原発の爆発だなんて僕は夢にも思わなかったね!本当に。その時は、電気も無くTVも見れなかったから、原発事故が起きた事を知らなかったのだが、僕はずっとサラリーマンをしながら、養蜂にも取り組んでいて4月の桜の花の開花前の、みつ蜂の管理をするために、その爆発した時間に外で作業していた。                                                                                       
水も出ない、電気も無い、情報も入らないという3悪状態の2日目。風呂は入れず、ご飯も炊けず、トイレのロータンクの水も無くなり、2日目ですぐに生活困難に陥り「もう、だめだ!」と避難所に向かったのだが、一回目の避難所は人で溢れていて入れなかった。                                                                        それから、郡山の避難所を目指すが、その途中にある小野町の町民体育館に、縁あってかどうにかその場所に、身を寄せる事が出来た。その避難所に着いて、僕はおなじみのお客様であったカットサロンのIさんに「昨日でなくて、何で今頃来たの?あんた、絶対に被曝しているんじゃないの?」と言われたのだ。                                                                                
そう言われて一瞬ドキッとした僕であったが、そんな状況の時、彼は親とともに故郷、富岡町にいた。彼は山から出ている湧き水を、料理と飲料用と洗濯に使っていて、プロパンのガスボンベがあり、ガステーブルが使えたので、飲食には困らなかったという。                                                                                         
夕方には、友人たちを「困っている時は、お互い様!」と自宅に呼び毎日、食事をさせていたと言うから、本当に面倒見がよい男である。ほんとに彼は、開けっぴろげのいい性格だよ。文筆に疎い僕だからそれをうまく表現出来なくて申し訳ないと思っている。                                                                               今日はここまで、また会いましょう。                               
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もう一つの怒り

2011-11-21 11:11:21 | 日記
NO-6                                              この頃、少しおかしいよな?って感じている事があるのだけれど、11月の後半だというのに何で汗かいて生活しなければならないのだろうか?特に昨日の暖かさには驚いた。                                                                     

半そでのシャツ一枚で平気でいられるなんて、東北の福島県民には、この都会の暖かさがびっくりである。                                                  

寒いよりは暖かい方が好きだし、着の身着のまま避難した僕とっては、持っている洋服が少ないので、今一気に寒くなったら確かに困る。                                                                  

今月の27日に、一時帰宅の許可が下りたから、その時に富岡の自宅へ帰るまでは、今ある洋服で凌がなきゃならないので、それまでは我慢しなければ。                                                                               

かみさんは女だから、洋服が欲しければ安価なものを、その時々に買っているのだが、男の僕は買い物があまり、好きではなくて持っているアイテムが少ない。(泣)もう少し27日までは、暖かい日になりますように祈って、今日も書く。                                                                                         

ここまで、強制避難区域に残されたペットや牛の事など書いてきたけれど、あの時の彼に、一つだけ怒りが増えていた事を話そう。                                                                

3月11日の事故から、残されたペットたちの面倒を一人で見てきた彼は、牛舎を覗きその惨状を見て、生き残っている牛の餌や水やりまでは、たった一人ではどうする事も出来なかったと言った。                                                          

牛の餌が無かったのと、水をやるといっても大量の水が必要で、電気も水道も完全に止まっている町で、川から水を汲んで来る事も考えた彼であったが、各家々に残された犬や猫や鳥に豚まで、ようやく見ていたのだから、どう考えても一人では出来なかっただろう。                                                                        

彼はいつも事故を起こした電力会社が、牛の面倒を見るべきだ!と本気で怒り悔しがった。5月に東京で彼と再会した時に、相変わらず彼は憤慨していた。                                                    

町に残されたペットの事や、牛舎でつながれたまま餓死した数百頭の牛の屍骸の事、まだ生き残っている牛の事、国や電力会社の後手になる被災者救済のあり方とか、復旧のめどの立たない町の現状を、真剣に危惧し怒り心頭の様子だった。                                                                                    

彼はこの日僕に、この原発事故による一斉避難で祖母を亡くした事を話してくれた。彼はこの怒りを、ずっと抱えて生活していたのだ。                                                                   

町にあった大きな病院から、環境が全く違う病院に移動させられて、その移動先の病院で亡くなったと話したが、葬式は当然地元富岡町では出来ず、遠く離れた郡山で葬儀を済ませたのだが、葬儀屋の手配からお坊さんの手配など、知っている人もいないし全く知らない土地での葬式は、とても大変だったと。                                                        

特にお墓の問題が大変だったと彼は言ったが、富岡にお墓があるのにどうしたのだろう。後で紹介する獣医W氏のお母さんも、避難先でお亡くなりになり、葬儀も落ち着いたら正式にやるので今回は密葬にしたと聞いたが、W氏もお墓が富岡にあるから、お母さんをお墓に入れてあげられないので、本当に困っていると思う。                                        

僕のかみさんの友達も、この震災で夫とお母さんを亡くしていて、お骨をまだ納骨出来ないでいるのだ。他にも随分と、避難先でお亡くなりになられた方がいると聞いている。                                                

お墓参りも僕ら、原発被災者は出来ないでいるのだが、いつになったら供養しに行けるのだろうか?新しいお墓を買えばいいじゃないかと言われると、立つ瀬がない。                                                             

買うと言っても、最低で200万円位はかかるだろうし、先祖代々のお墓があるのだから、そんな事出来ないだろうし、それは、家も土地も捨てろと言われているのと同じだ。                                                          

特に、都会の人には信じて貰えないかも知れないが、僕の住むこの地方では、お彼岸の時に必ず家族揃ってお墓参りをする良い風習が残っていて、これには横浜から福島に行った僕が、最初に驚いた事だった。                                                     

日本人にとっては、お墓はとても大事で蔑ろに出来ない問題だから、電力会社はこの事を被災者の側に立って、真剣に考えなければいけない。                                                                

彼は「避難しなければ祖母は死ななかった。病院には入っていたけれど、普通に元気でいたのに」と言葉に力を入れて僕に言った。                                                                     

この頃は、首都圏でも計画的停電が実施されていたと思うのだけど、彼の祖母の避難先は電気も足りないような、部屋はとても寒い病院だったと彼から聞いた。                                                               

その病院に入れられた事を、彼はとても怒っていたし、ほんとに僕は気の毒に思った。どんな状況であれ、身内との別れは辛いものだと思う                                                                 

彼は、この事故のせいで、祖母は亡くなったのも同じだ!と、電力会社に詰め寄ったのだが、この時の彼の怒りはすざましい怒りだったのだ。                                                                

彼も怒りをぶつけるところが、そこにしか見い出せ無かったのだと思う。時期が時期だけに、彼の気持ちが痛いほど分かった僕だった。                                                                    

避難しているだけでも、辛いのに家族を失うなんて僕には想像できない。だから、宮城県や岩手県の大津波で、家族の中に亡くなられた方がいらっしゃる人には、同じ被災者である僕からも、一緒に頑張りましょうと声を掛けたい。                                                                                        

僕は震災後、一ヶ月半位鬱状態で暮らしていたが、ある日、このままで終わるものか!と気持ちが入った。TVで三陸の方や宮城の方の映像を見て僕より、辛い思いをしているのに、立ち上がって頑張っている人がいるじゃないか!と勇気をもらったからで、僕は、東北の復興を信じてこれからもやっていこうと思う。                                                                                                  
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
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助けられた2頭の牛

2011-11-20 07:10:38 | 日記
NO-5 牛の話 (後編)                                      昨日、僕の先輩のA氏と会うために、厚木市へ出向いたのだが、街を彩るイルミネーションが点灯されていて、もうすぐクリスマスだなあと思いながらも、僕はあの日から被災者になり、今年はそれを楽しむ心の余裕がない。                                                            
こうしてブログを始めたが、3月11日以前の生活に戻れれば、いつものクリスマスを迎えられるのにと思った。                                                 

おそらく、僕と同じく生活の基盤を失った人や、今でも不便で慣れない生活をしている人たちは、同じ思いをしているのではないだろうか?今の僕に出来る事、それはあの日からの彼と友人の事などを、こうして書き続けるのだと自分に言い聞かせて、今日も書こうと思う。                                                                     

強制避難区域の富岡町に一人で残り、残された動物たちの世話をしている松村直登氏が、餌を配りながらその日2頭の牛をある所で見つけたのだが、それは今までの動物の世話の中で唯一の大仕事になった。                                                      

人間たちが一斉避難したために、牛舎の中で殆どの牛が死んでいったと思われているが、牛を飼っていた人達は水も餌もあげられないなら、せめて牛には自由に草を食べて生きて欲しいと、放し飼いにした牛が原発復旧のため、夜間ひっきりなしに走る大型トラックに、跳ねられて死んだ牛も数頭いた。                                                            

実は彼も薄暗くなってきたからその日の餌やりを終えて、家に戻ろうとしていた夕方に、道路の前方に数頭の牛がいたため、停車して牛が去るのを待っていたのだが、土手の下の暗がりから大きな牛が、いきなり飛び出して来て、車に体当たりして彼は車を壊された。                                                                        

道路の脇の土手には、草が伸びていて全く牛の姿が見えなくて、そこから突然飛び出してあの大きな頭で、車にぶつかって来たから、びっくりしたそうだ。                                                                             

車は軽傷であったがライトがプラプラ状態で、当然車のボディはへこんだ。「これも、電力会社に弁償して貰う」と、彼はそれを笑いながら僕に話したが、あの大きな牛を跳ねていったトラックは大丈夫だったのかな?いくらトラックが、鉄の塊とは言え、かなり凹んだのではないだろうかと思った。            

                                               
他にも水田用の水路深さ約1,8m幅は約2mくらいのところに落ちて、餌が無く出られずに餓え死んでいった牛もいた。彼も水路で死んでいたその牛の姿を見たと言った。                                                         

そんな事があって、彼は他の水路にも気を配りながら残された動物たちに餌やりをしている時、水路に落ちて出られなくなっている2頭の牛と遭遇した。                                                   

彼はすぐに建設業をしている友人に事情を話し「クレーン車と手を貸してくれないか?」と頼み、友人も快く答えを出してくれて、二人は急いで水路に向かった。                                                                         

その中の一頭は約2ヶ月間出られないで、その水路で生きていたという。水は水路の下を少しだけ流れていたから、水は補給出来たのだが餌は地上から垂れ下がって、水路の中に入ってくる僅かな草しか無く、それだけを食べて生きていたという。                                          

伸びて水路に入ってくる草を食べてしまうと、また伸びてくるまで餌が無い状態が続くわけだったのだが、それを繰り返しその牛は良く生きていたと思う。                                                  

もう一頭は落ちてまだ一週間くらいで、肉付きも良く太った牛だったと言っていた。彼は駆けつけてすぐ、水路に降り牛の腹に二本のベルトを巻きつけて、友人に操作してもらって、クレーンでつり上げて救出したのだが、牛はおとなしく彼らのやる事を嫌がるそぶりも見せず、その身を委ね作業させたと彼は言った。                                                     

ただ、慣れない仕事で生きている牛に、ベルトを掛け吊り上げる事が、初めての経験だったからかなり緊張したらしい。ガリガリにやせ細った牛は、よほどお腹が空いていたのだろう。                                                   

彼らに助けてもらったお礼もせずに、一目散に生い茂る草むらに向かったという。彼は、自然児で動物の言葉が少し分かるのか?牛にモー(助けてくれてありがとう)と声を出して欲しかったのだ。                                                          

彼に言わせると、無視して行かないで挨拶ぐらいちゃんとしろよ!って事だと思うのだけど。それなのに、わき目もふらず草に向かい声を出さずに去っていった牛にクレームを付けた彼を、おもしろいと思った僕だが無理も無い。                                                           

これが本当に牛?と思うくらい悲壮感たっぷりの姿だったと彼は言っていた。また、友人はその時撮ったクレーンで吊り上げられ、骨と皮だけになりながら生きていた牛の写真を、家に帰って奥さんに見せたそうだが、奥さんは、その写真を見るなり「この牛、助かってほんとに良かったね」と、涙を流して喜んでくれたそうだ。                                               


やさしい奥様である。痩せこけた牛の姿は色々見てきたが、その牛は骨だけが以上に目立つ、あちこちでこぼこの異様な体つきだと聞いた。牛の骨は大きくてゴツゴツしていて、おしりの前の背骨の骨なんか凄く出っぱって気持ち悪いよ。                                                                            

肉付きがいい時は、背中が平らなんだけど、痩せてくるとその骨が突き出て背中の真ん中あたりが、へこんでくるから、見た目にも変な感じがする。その牛に限らず痩せすぎると、皮も弛んで来るそうだ。                                                       

あれから、水路に落ちた牛の話しを聞いていないから、多分、今のところ水路で死んで行く牛はいないと思うのだが、これからも無いとは限らない。                                                             

それにしてもこの原発事故で僕らの町を含む6町村にいた牛たちは、どれだけ死んでいっただろうか?前編の子牛もその日死んで、放たれた牛の中にもこうして死を迎える牛がいるのが現実だ。                                                   

動物愛護の観点で僕は、今、声に出して言いたい。誰が責任取るのだ!と。                                                                                                                                                       
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牛舎に残された牛

2011-11-18 12:03:53 | 日記
                                                 NO-4 牛の話 (前編)                                                                                       強制避難区域の富岡町で、放射能の危険にさらされながら、人間たちが置き去りにしていった動物たちの面倒を、見続けている松村直登氏。 彼は牛の話もしてくれた。

                                     
牛の話はもっと悲惨だったし、本当にひどく辛い話だった。震災後彼が、犬や猫、鳥や豚と世話をして回り出して、数週間が過ぎた頃、目に止まった牛舎があり覗いて見た時、その牛舎でつながれていた牛は殆ど餓死していた。
     
                                  
死んだ牛の目や鼻、口からは蛆が這いずり強烈な腐敗臭の中、屍骸を覆う無数のハエ。牛舎の悲惨な光景を目の当たりににした彼は、他の牛舎も見に行ったのだった。                                 
                                       
飼い主が避難する時に、餌と水を多めに給餌して行ったその牛舎の牛は、数頭だけ生き残っていたのだが、餌も食べつくし水も無くなっていた牛舎に、生き残っていた母牛と子牛の話は胸を締め付けられるものだった。       

母牛は餌が無くなって殆ど食べていないから、骨も浮き出てやせ細り、もう、ろくに乳も出ない。子牛はお腹が空いて母牛のおっぱいが欲しくて吸いに行くのだが、母牛も自分が生きるのに精一杯。                       
         
出なくなった乳房を吸われると痛いのか?それとも、乳が作れたとしても、それを吸われたら自分が弱って死んでしまうことを、本能的に知っていたのか?人間の僕には分からないことだが、おっぱいを求めてくる子牛をあの太い足で蹴り、子牛を寄せ付けない。                                    

子牛は何度も、それこそ何度もお乳が欲しくて母牛の元へ行くのだが、その度に母牛は子牛を蹴り、寄せ付けないでいた。立つのもやっと、歩くのもやっとの子牛が、ついに母牛の強烈な一撃をくらい、牛舎の床に蹴り倒されてしまう。

                                    
子牛は腹ばいになり、たった今、目の前で何があったのか?分からずにきょとんとしていた。しばらく頭をもたげていたのだが、さすがにこれでおっぱいを諦めたようで、母牛から離れておぼつかない足とりで、よろよろと歩いて牛舎の隅へ歩いて行った。
                                                     
彼が心配して子牛を見に行くと、よっぽどお腹が空いていたのだろう。牛舎の柵に牛を引く時に使う縄が垂れ下がっていて、その縄の端の部分をお乳に見立てて、ずっとしゃぶり続けていたと言う。 

                                        
赤ちゃん牛にとっては、この時どれほど苦しかったであろう。彼は、どうしてもその子牛が気にかかり、次の日見に行ったのだが子牛はついに、目と口開き倒れていて餓え死んでいたそうだ。

                                               
あまりにもひどく、本当に子牛が可哀相で残念だった。こんな事が強制避難区域では、日常茶飯事にあったのかと、この時は子牛の姿が頭から離れなかった。
                                                                                                  僕のかみさんの実家は農業を営んでいて、義父は数年前まで牛を飼っていて、実家に寄る時には僕も牛に餌をやったりして、あの大きくて可愛い目に癒された事があったものだから、この話は辛かった。                                                      

子牛はいつからお乳を飲んでいなかったのだろうか?と ふと僕の脳裏をよぎった。人間が、餓死すると言ったら、それがどれだけ苦しいものなのか?僕には理解し得ない。                                                 

食べるものが豊富にあり、病気になった時くらいしか食べられないなんていう事が無いからだ。僕は、養牛業者の人に聞いた事がある。子牛の母が何らかな事情で死んだりいなくなったりすると、他の母牛はその子牛に自分の乳を与えることは普通にあるのだと。                                                 

牛も助け合いをする動物だと聞いた事を思い出し、この牛舎には餌も他の母牛もいなかったのだから、仕方がなかったのだと。しかし、母牛が子牛を寄せ付けないでいた事を、信じられなかったのだが、ふと僕が小学生の時の担任の先生から、言われた事を思い出した。                                                     

「みなさん、人間だけおっぱいが心臓のすぐ近くにあるのです。動物は腹とか、もっと下のほうにありますよね。これは人間だけに心があるからで、心の無い動物を畜生といいます。みんなも、人間らしく動物のようになってはだめですよ。」と、そんな事を昔言われたことが甦ってきた。                                                 

人間の母親なら、自分を犠牲にしてでも子供に食べ物を与えるから、この時の母牛の事はどうしてもやはり信じられなかった。それでも今の時代、親が子供を殺したり、子供が親を殺したりする事件が多いので、これを考えると人間にも畜生と同じで心の無い人がいるよなあと思った僕がいた。。                                                        

特に子供の虐待が多いよね!これにはほんとに考えさせられる。                                                                                                                                                                            次回牛の話(後編)                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
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鎖で繋がれたままの犬

2011-11-17 07:00:30 | 日記
彼と再会し、最初に聞かされたのは、避難指示が出てから人間だけが逃げ出し、置き去りにされた動物の話だった。


鎖につながれて何日も、餌も水もない日々を過ごして来た犬の話だが、狂犬病かと思うほど怒り狂い噛み付いてきたそうだ。                                            

本当に、噛まれそうになったらしく、痛い思いをするとこだったと彼は話した。誰かが犬に餌を置いて行ったらしいのだが、あまりにも吠えるのと、憎悪むき出しの噛みつきに、恐怖を感じたのであろう。                                            

その鎖で犬が行動できる範囲、そう犬の鼻先の距離から、約1m先に袋を破って餌を置いて行き、犬にはさらに過酷な地獄の苦しみを与えて行った馬鹿な奴がいたと。                         

犬は餓えに餓え、水も無く数日間を生き抜いていて、体力を振り絞って目の前に置かれた餌に飛びつくのだが、鎖が首に掛けられているから届かない。                                

何度も何度もダッシュして餌に向かうが、その度に首輪と鎖に体を止められ、ひどい時は体が反転するほどで、グッゲホッと声にならない声を出し、苦しみもがいている。                       

犬の目の外輪は完全に充血していて見開き、口の中はカラカラに乾き、よだれも出せずに舌を出し、ゼイゼイヒーハーと息を苦しそうに、荒げながら必死に餌を求めていた。                      

前足も後ろ足も伸ばしきって何とか餌に向かうのだが、その姿を見た彼は、あまりにも可哀相で見ていられず、犬が食べられるようにと、餌に近づいて食べさせようとするが、よけいに興奮し暴れて、うかつに近づけない。


犬が疲れて動けなくなるまで、様子を見ようとしていたら、何日ももがいただろう?犬が、何と餌に頭を向けていては食べられない事を、ついに学習したのか?体を後ろ向きに変え、後ろ足をめいっぱいに伸ばし、後ろ足一本で待望の餌の袋を、たぐり寄せて、やっと餌にありついた。                      

この犬の行動にはかなりびっくりした僕であったが、彼もさすがに驚いていた。数日も餌にありつけなかった犬は、狂ったようにガツガツと食べ口の中に入るだけ、僕の表現的にはほおばれるだけほおばるのだが、人間と同じでのどにつかえるのかゲホッゲホッと、口の中に入れた餌を全部吐き出して、口に入れては、また食べるその繰り返しだった。                         


人間なら完全に脱水状態で乾いた口に、これまた乾燥タイプのドックフード。唾液も出なかっただろうし、食べるにも食べづらかっただろう。

彼は犬を思いやり、結局その日はたっぷりの水を与えて帰ったのだが、次の日、彼の車のエンジン音を聞いて犬が「昨日はごめん」と、おとなしく尻尾を振って。近寄って来たと言う。僕は、やっぱり犬は可愛いと思った。                                 


犬には、昨日彼が与えたたっぷりの水が、命の水になったのだろう。人間の心と、人間の言葉を話せない犬の魂が、交わる瞬間があったのだと僕は思った。やはり犬は従順で付き合いやすい動物だと、痛感した。                         

他の犬も、彼の車のエンジンの音や気配を感じると、喜んで迎えに出て来るという。彼も餌をあげ続けている苦労が、一番報われる瞬間だと言った。  


しかし、見つけるのが遅くなり、事故から一ヶ月もたってから見つけた犬もいて、水も食べ物も一切口にしていなかったのに、骨と皮だけになって歩けなくなってはいたが、生きていた犬もいて、動物の生命力には彼もびっくりしていた。                                           

それでも、全部の犬を助けられた訳でではなく、残念ながら犬小屋の中で、息絶えた犬もいて、「全く、ひでえよな!」と、ある種の怒りを、抑えながら餌を配り回り続けた彼であった。                

しかもたった一人で、回りきれる件数ではなかったため、犬に与える餌を何日分か置いて行こうと試みるが、犬は一度食べる分をお腹に入れると、満足してしまうのか、餌をそのままにしておくから、その餌を今度はカラスが狙い、ほとんどカラスに食べられてしまい彼のスケジュールを台無しにされてしまう事もあり、最初の頃は、本当に大変な作業であった事に間違いなかった。                            

骨が浮き出るほどに痩せこけた、犬や猫などの動物を、彼はどれほど助けた事だろうか?富岡町の一時帰宅で家に戻った飼い主が、何日も何週間も餌をあげられずにいたのに、自分の犬がふっくらしていて「おまえ、餌もなかったのに、こんなに元気でいて何を食べていたの?」と、言った人がいたと一時帰宅の立会いをした役場職員から僕は聞いた。                                          

また、その後その家々の人から彼のところに、涙ながら「本当にありがとうございました」と、お礼を言いに来た人がたくさんいたと聞いて、僕は嬉しく思った。                                               

次回は牛舎に残された牛の話                                                                                                                       
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約束通り今日から書くね!

2011-11-16 08:48:24 | 日記
昨日の夜に、人生初めてブログに参加したけれど、アクセスしてくれた人がいてくれて、嬉しかった。原発事故の避難民になり、ぽっかり穴が開いたように生活していたから、何かをするという意味では、少し前進したと思うさて、本題に入ろう。

昨日、僕が書いてみたいと言った男の物語だが、東京で再会した時から書いてみる。ある日、彼から僕の携帯に電話が入った。折りしも3月11日の東日本大震災から、約2ヶ月経とうとしていた頃のことである。

僕には、それがあまりに突然だったため、驚きの何ものでもなかった。彼から「明日、東京へ出て行く用事があるんだけど」と。これは、会ってくれ?の意味だなって思ったし、避難生活してまだ二ヶ月しか経ってないのに、僕にはその二ヶ月がとても長く感じられて、彼の事をなぜなのか懐かしく感じ、僕も会いたいと思ったのだ。

その時は、同じ被災者の恨み辛みを語るわけでもなく、同郷のよしみで酒でも飲めたらいいなと、軽い気持ちで翌日、上野で待ち合わせをして、彼と会った。その時、あの大津波で僕らの足である常磐線が富岡駅からいわき駅まで運休していたのを、すっかり忘れていて今までの感覚で上野って言ってしまい彼には迷惑をかけてしまった。

僕が東京に出る時は、常磐線一本で出てくるのが通常の事だったから、彼が最終到着駅大宮駅の高崎線で来ていて、彼にとって僕が避難していた新宿の方が近く、早い待ち合わせ場所になったのだ。

ちなみに僕も、当時は福島の避難所から東京の娘の所に二次避難中で、新宿の7畳のワンルームに親子3人で暮らし、それは仲良し親子といっても、なかなか大変な生活であった。僕らより娘の方が大変だったと思う。

一人娘で僕らが福島の避難所に入っていた時に、放射能で危ないからそんなところにいないで!と泣かんばかりに言われて、避難所を出て来たわけだが体育館にしろ親族の家にしろ、プライバシーとか何とか言ってられない状況が続く中で、彼と再会し、その暮らしぶりを聞いてびっくりした。

彼の名は松村直登52歳。インターネットの検索で、富岡町まつむらなおとで検索すると松村直人で出てしまう。名前が違って報道されているが、まぎれもなくその男の正体は、松村直登(本名)である。

彼も同じ福島県の原発事故による避難民で、放射能汚染により強制避難地区に指定された富岡町で、避難勧告を無視し、たった一人で町に残って生活している人間である。このまま聞けば人は、彼のことを馬鹿な奴で、どうしようもない人間だと思うのが妥当だと、僕も思う。

しかし実際に彼は、鎖につながれたまま餌も与えられずに、飼い主を黙って待ち続ける犬や、家人のいなくなった家に残された猫や、鳥小屋から放たれた鳥や、家畜である豚などに、たった一人で餌を与え続け、電気も水道も無い廃墟の町で、今も暮らし続けている男なのである。

僕も最初は彼の口から、強制避難区域の富岡町に住んでいると聞いて、なんて無茶苦茶なことをしているのだと、めちゃくちゃ驚いた。それと同時に、何で避難しないのだ!放射能で被曝するぞ!と少し怒りにも似たものが込み上げ、何としても彼を止めなくちゃと強烈に思ったのだが、彼の話を聞き、彼がとても大変でとても大切なことをしている気がして、その日から彼への偏見を僕は捨てた。

今日はここまで、明日から本編に入るからね。明日は鎖に繋がれたままの犬の話を書きます。僕はありのままを書きますので、避難所の話やその他色々な事など嘘なしの直球で書きますのでみんな宜しくね。
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ありがとう。全国のみんなに会えるぜ!

2011-11-15 20:49:52 | 日記
みんな、元気してる?元気じゃない人も、暇してるなら今日初めてブログに参加した、おやじの泣き言聞いて!
僕は、福島の原発被災者で、今は、3回目の避難先の横浜からブログ送っているのだけど、つい最近やっぱり逃げている事(避難している事)に疲れてきちゃって、全国のみんなに力もらいたくて書いているよー。

今年の3月11日に原子力発電所が爆発するかも?と町民に一斉避難指示が出てから、家にいたら本当に原発が爆発しちゃって放射能で被曝しちゃうからまずいので2日目には、逃げなくちゃ!っていうことになり、1回目はほかの町の体育館にお世話になっていたのだけれど、そこも事情があって3日で出て、新宿にいる娘(専門学校に通学中)の1ルーム7畳にかみさんと逃げ込み、3ヶ月暮らしてようやく横浜の団地に入る事が出来た。

今までの恨み辛みを書こうとも思ったのだけど、それはやめた。都会に住んでいるみんなには、被災者の話っておもしろくも何もないと思ったので、普通に書こうと思う。

普通に書いたらおやじの泣き言にならないか。それでも、やっぱり自分が経験した事などみんなに聞いてもらいたいから、これから時間のあるかぎり書いていくねー。僕ってさあ、一応横浜出身なんだけど、20年も福島にいたからめちゃくちゃ、なまっているからそこのところは、かんべんしてほしいんだけれど宜しくお願いするね。

僕はみんなに、まずありがとうって言いたい。今年の東日本大震災でたくさんの人達が、募金やボランティアしてくれて、嬉しかった。ほんとうにありがとうございました。まさか自分が、毛布に包まり体育館で生活するとは、夢にも思わなかった。

本当に青天の霹靂だったよ。(がっくし。)淡路大震災があった時、募金はしたけれどまさか、自分が同じ思いをするとは思わなかったし、信じられなかった。

都会にいるみんなには、避難所の生活は分からないかも知れないけれど、めっちゃくちゃつらいぞ!このおやじにもきつかったのだから。僕の町の駅は大津波で無くなり、マイホームを建てる前に住んでいた住宅は、跡形も無くなった。

津波だけなら、すぐに復興の道もあったのだろうけど、原発の爆発で目に見えない放射能との戦いが始まったのだ。今は水も電気も無い強制避難区域になっている僕の町、福島の富岡町で、今でも放射能の恐怖の中で戦いたった一人で暮らしている男と、同じ被災者である僕たちの暮らしぶりをこれから書いていこうと思うので、よろしく!

放射能汚染で、すぐに帰れない土地を故郷に持つ僕らの恨めしさや苦しみなどを、書いてみたい。また、たった一人で町に残った男の事を深く掘り下げて書いてみたい。彼は、日本でより海外で有名になっている男です。インターネットで富岡町の松村なおとで検索してみて下さい。世界でも有名な放送局AP通信とかBBC放送で取材された記事が出てくると思います。今日は、挨拶だけして、明日から書きますので宜しく!
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