プラス思考で考えなきゃならない
今日涛音寮のこのみちゃんと電話で話した。
こうしなきゃならない
こうあるべき
確かにそれらは正しいし当然なのですけど
人間弱るときもありますから
そんなときは
ボーッとして
うまくいかないなあと開き直り
悶々とする日があってもいいですよと
今日言ってしまいました。
人の素晴らしい体験とか教えとか
それらを聞いて納得してこうあるべき。と想うことは誰しもあるけど
結局は自分の体験したこととか、やってきたことだけしか積めない。
どんなに教義教理理屈や理想を、語っても
自分がやってぶつかって痛い想いしたり苦しかったり辛かったり
泣いたり文句言ったり
それじゃあだめだとまた乗り越えたり。
失敗したりそこから立ち直りまたやるか〜。って想ったり。
そんなことから学んだりできるのかなぁと時々想います。
あまりにも自分を縛るようにするとしんどくなるし
たまに緩めながらしなきゃなあって想います。
私は創作作業は必死でやりますし全力だけど
これは気を抜くと工作機械は怪我をするからです。
けど
そこから離れたら少しぼーっとします。
出張先で何気ない景色眺めたり
お散歩は歩数稼ぐために運動のために、というのは正論だけど
正論では義務になるから
歩きたいときに歩けるだけ。にします。
無理な制限かけたりするとしんどくなるし。
かえってストレスかなぁと考えます。
抜けてるなあ。くらいが丁度いいけど
お仕事で抜けると困りものなので
そこは立て分けないといけないですね。
今日涛音寮のこのみちゃんと電話で話した。
お互い「あらまし」な性格だねえと。
あらましってどーいう意味?と聞きました。
京都弁なら、「およそな性格」
だろうか?
ええかげん
かなあ?
大ざっぱかなあ?(笑)
作家同士、納期あったり難しかったり
うまくいかなかったり乗らなかったり。
コンスタントに精神なんか持っていけない。
いいときもあるし良くないときもあるし。
でも、そこをいい塩梅で進めていくことを経験というものだけが教えてくれる。
経験が全て。
これは理屈ではどうにもならない。
場数を踏む
ということなのかもしれません。
作家同士の目線で話して
それでいて抜くところは抜いて。
彼女も私も
突拍子もないとよく言われますが
そんなことはホントはないです。
心のなかで葛藤しながら
こうしたらどうか
ああしたらどうか
毎日毎日創作のこと
必死に考えます。
でも
表はそれを出さないだけだ。
馬鹿なこと話して大笑いして
ナンセンスな行動に出たりして。
みんな笑うけど
それもホントはよくわかってる。
結局は自分の中で
いい塩梅を見つけるしかなくて
人にあれこれ言われたり
人に教えを請うのは安心感はあるけど
本当はそれよりも
とにかく動いて見る
やって見る
そのほうが即効かもしれませんね。
ダメ元で動いて動いて。
私は2〜3年甘えた気持ちに傾いてしまいとんでもなくなりそうでしたが
何とか元に戻して歩いていけるようになりました。
こんな失敗も実のところやってみなきゃわからないし
失敗して申し訳無さや情けなさを心に傷跡みたいに刻み込まないとちっともわからなかったかもしれません。(迷惑な話だ)
だからこそ
今感謝して
ぬけぬけだけれども何とか歩いています。
そりゃいつ
何が起こるかなんてわからないけど
それでも今しか生きられない。
今を生きて行くしか人はできないのだなあと
なんとなくわかってきて
叱ってくださる皆さんのありがたさもわかってきて。
人より遅いかもしれないけど
遅くても今気づいて
今精一杯生きていけばいいかなあとなんとなく歩んでます。
こんなことを書くのは
あまりにも自分を追い詰める友と話したから。
今は何にも考えないで
ゆっくりしてほしいと想ったから。
もうひとりの友が
ギュッと抱きしめるような
と言ったとき
私はその意味がよくわかりました。
私も苦しいときは
別に理屈なんか要らない
ギュッと抱きしめてほしい
というような
原始的な欲求がでてくるもので
そうしてそれは
人として
誰しも想うことなのかもしれません
自分を認めるために
肯定するために。
そうしてまた
難しい課題に向かって
歩いていけるのかなぁと
そんなことを想いました。
大好きなお友達のために。