私は70歳。その私が子どもの頃の話である。
物心がついた時の記憶。町にはまだ負傷した兵隊さんが白衣を纏い路上にて物乞いもしていた。
赤線地帯と言われるところもあった。
それらは あっという間に姿を消した。
なぜか赤線のお姉さんからかわいがってもらい、頂いた鼈甲のかんざしは宝物だった。
負傷した兵隊さんについても、あの人たちは路上であのようなことをしていることが変なのよとも大人の会話で聞き及んだ。
私が10歳の時に 東京オリンピックが開催されそのころにはすっかりその様相は見えなくなっていた。
私は小学校低学年の頃は(多分) 城下町の川で紺屋さんが染物を洗い流していた。
私の遊びは城下町の探検。寺や染物屋さん、お屋敷などなど 犬や猫のように人の通れない小路などを抜けて縦横無尽。
そんな ある時 出会ったおじいさんのはなし。
怖い大声で家族を呼びつけている。
声のするほうに目を向けると 布団の上に浴衣姿(寝巻)で座っている。目が合う。
今でいう 住居不法侵入だ。
怒られると思った。
意外なことにおじいさんはたくさんの話を聞かせてくれた。
また 来たら 話してやるよって。
私にどこの家の子だいって聞いてくれた。そして あだ名もつけてくれた。ピーちゃん。
(この所以についての詳細は書いたらどこの娘でどこのおじいさんか 見る人が見たら分かるので割愛しよう)
おじいさん(おじさんかもしれない)は一本足。
その足も見せてくれた。
戦争で爆弾で足の付け根から吹っ飛んで無くなったって。
家の人に聞いたら、とっても偉い(階級の高い)軍人さんだったのよって。
おじいさんに「うちの人に聞いたら とっても偉い人だって」と言うと
『偉いもんか。今じゃ何にもできないんだ。戦争でいっぱいいっぱい悪いことをしたからな』
「お国のために頑張った人だって」
おじいさんは その日 戦争の話はしない。
私がお姉さんからもらった宝物の鼈甲のかんざしを見せてあげたら
『ピーちゃんはいいねぇ そうやって好きなところにどこでも行けるんだ。』
町の探検で見たままのことをおじいさんに話すことも楽しくなってきた。
そして 私が帰ると また 家族を大声で怒鳴って呼び出している。さっきまではあんなに優しいおじいさんだったのに。
時には本当の剣を見せてくれた。(当時は銃刀法などはなかったのかな?)
昔の新発田の様子も教えてくれた。
そして、とうとう 戦争に行っていた時のことも。
おじいさんは 戦争なんかしちゃいかんってはっきり言っていた。
なぜだとかどうとかは言わない。
とにかく 戦争は絶対にしちゃいけないって。
子ども心に、理由は考えない、大好きな一本足の兵隊さん、おじいさんの言いつけを大事な約束事のように覚えた。
備忘録にいつか書いておこうと思っていた。
やっと 書いた。
新発田観光協会ホームページから借りた写真です。
どこも私の遊び場でした。
お城の本丸、二の丸近くに昔は図書館や公民館があった。今は蕗谷紅路記念館。
殿様のお庭。清水園。昔は自由に入っていた。近くには寺町があって たくさんのお寺が並んでいた。
足軽長屋が川向にある。
新発田城。
城は無い。でも城跡には門が残り、昔はもっともっと自由に出入りしていた。
そして、お城。あやめ城。この水面にあやめがたくさん咲いてくれる。
城には、いや城の後ろには 新発田自衛隊駐屯地があって、水害の時には自衛隊の人に助けてもらったし、
日中の過酷な練習の様子を見ているから飲み屋さんで出会う若い自衛隊さんたちにはつい優しくなった。
一本足の兵隊さんは戦争は絶対しちゃいかんって。