風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

たましひを 田中常矩(比歌句 15 左)

2018年03月25日 | 和歌

たましひを盗まれにゆく花見哉 田中常矩(たなか つねのり)

 

そうだったのか、思わず笑いながら頷いてしまった。

花見で酔っぱらっている私は、魂の抜け殻だったんだね。


世の中に 在原業平 (比歌句 15 右)

2018年03月24日 | 和歌

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(ありわらのなりひら)

 

「世の中に桜というものがなかったならば、うららかな春に、私の心はどんなにのどかになることだろうか。」

 

惟喬親王一行が鷹狩りに出かけ、「なぎさの院(親王の別荘)」に立ち寄った際に、桜の木の下で歌を詠むことになった。その時にお供として随行していた業平が詠んだ歌とのこと。

「世の中にたえて桜のなかりせば」と詠いだしたところで、その宴に居た人々は、きっと詠っている人に注目しただろう。「桜がなかったら、春の情緒なんかあったもんじゃあない。さわ、どう詠い次ぐのか。」

「春の心はのどけからまし」で、お見事とやんやの声援を送ったことだろう。

ユーモアと情感を上手に合体させて、桜に恋焦がれている気持ちを表現している。

 

ついでだが、業平はこういうきわどいユーモアが好きだったのだろう。

藤原基経の四十歳の算賀で

<桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに>

と詠っている。

「桜花散りかひくもれ老いらくの」で祝いの歌で禁句のような<老いらくの>と詠った時点で、その場にいた人々は、はらはらしたと思う。

<来ると聞き及んでいる道が分からなくなるまでに>で、ああそうかと納得したしたと思う。

<老いらくの>に意識が集中してしまっているところに、やっと、<桜花散りかひくもれ>が繋がったからだ。将に際どいユーモアだ。


天井(てんじょう)に 三ケ島葭子(比歌句 14 左)

2018年03月23日 | 和歌

天井(てんじょう)に手洗水(てあらいみず)のてりかえしゆらめく見れば夏は来にけり 三ケ島葭子(みかじま よしこ)

 

今では、トイレの近くに洗面所があり、そこで手を洗うことが常識となっているが、1970年代までは、トイレの入口に手水鉢を用意し、そこで手を洗い、側に吊るされている日本手ぬぐいで手を拭くということが、手洗いの一般な方法だったと思う。

芥川龍之介に<元日や手を洗ひをる夕ごころ>という句がある。元日の来客が帰った後に御不浄(トイレ)で用を足した後で、手水で手洗いをしている。(この句の味わいは、お客さんが帰って、寂しいようなほっとしたようなそんな夕方の心のありようを感じることにある。)

さて、本題の三ケ島葭子の歌だが、この手洗水が張ってあるのは、金盥だろう。

「トイレを出て金盥に入った手水で手を洗った。ふと天井を見ると、手水の照り返しが天上でゆらめいていた。そのゆらめきに夏がやってきたことを感じた。」

とても明るい。だが、あまりにもあっけらかんと明るく詠んでいるために、返ってある淋しさを感じてしまう。


ならさか の 会津八一(比歌句 14 右) 

2018年03月22日 | 和歌

ならさか の いし の ほとけ の おとがひ に こさめ ながるる はる は き に けり 会津八一(あいず やいち)

 

ネットで、古都をそぞろ歩きする“気分”を味わった。

例えば、グーグルで「奈良 石仏」で検索すれば、大勢の方が映像等をアップして下さっているので、その映像を楽しむことができる。そして、その映像からは、その写真を撮った方の石像に対する慈しみの心が伝わって来る。

この歌は、蕪村の<春雨や小磯の小貝ぬるゝほど>よりは、しとどに降る雨だろう。

石仏の顎から滴り落ちる雨に春を感じているのだ。そして、そこには、傘をさして遠い過去の古都の住人の心を探し求める人がいる。

 

「奈良の坂道に佇む石の仏の顎(おとがい)に小雨がしたたり落ちて、ここに春が降りて来ていることを感じています。」

奈良って中学校の修学旅行で行ったきりだ。(かれこれ五十年近く前)お金と時間的な余裕が持てたら、そぞろ歩きを楽しんでみたいと思う。


甘草(かんぞう)の 高野素十(比歌句 13 右)

2018年03月21日 | 和歌

甘草(かんぞう)の芽のとびとびのひとならび 高野素十(たかの すじゅう)

 

この句は、「草の芽俳句」として、非近代的だと批判されたと言う。私には、批判の理由が全く理解できなかった。植物の小さな法則性を発見した喜びをリズム良く詠っている。植物に対する愛情も伝わってくるし、この法則性を発見した時の作者の笑顔が浮かんでくるようだ。

この句の作者が、童心を持ち続けていることに憧れてしまう。(いや、童心を失わないように、自己研鑽しているのかもしれないが。)