あたたかな雨が降るなり枯葎 正岡子規(まさおか しき)
明るい伸びやかな句だ。何とア音の多いことか。上手い句かというと、そうでもないよねと思うのだが、心に残る句だ。枯葎にはこれから新緑が萌え出すだろう。
この句は、芸術的でも、生活実感もない。私はこの句から童心を感じる。
幼稚園児たちに、この句を歌って貰うととても良いように思う。
あたたかな雨が降るなり枯葎 正岡子規(まさおか しき)
明るい伸びやかな句だ。何とア音の多いことか。上手い句かというと、そうでもないよねと思うのだが、心に残る句だ。枯葎にはこれから新緑が萌え出すだろう。
この句は、芸術的でも、生活実感もない。私はこの句から童心を感じる。
幼稚園児たちに、この句を歌って貰うととても良いように思う。
春雨やぬけ出たまゝの夜着(よぎ)の穴 内藤 丈草(ないとう じょうそう)
このずぼらさが良い。まだ、春が浅い頃だろう。春雨を眺めるたいのだが、うすら寒いので(また蒲団にもぐり込みやすいように)蒲団からそっと抜け出た。春雨を眺めていると、はい出した蒲団の中に春が音連れているような感じがした。
天 蕪村の<春雨や小磯の小貝ぬるゝほど>を芸術的と評すれば、この句からは、生活実感が漂っている。云わば、リアリズムと詩の融合作品だ。
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 与謝 蕪村(よさ ぶそん)
春雨とはどういう雨か?という質問に対するベストアンサーのような句だ。
降りみ降らずみ、温かさを感じさせる雨。「小(こ)磯の小(こ)貝」とオ音を重ねてしめやかなリズム感を出している。
この貝は、貝殻なのか?私の解釈は以下の通り。
「ああ、穏やかな、霧のような春雨が降ってきた。静かな磯の水面に雨が優しく当たり、海面に水泡(みなわ)が出来ては消え、出来ては消えている。水面下の小さな貝が揺らぐように見えるほど、優しい水泡だ。」
毎年よ彼岸の入りに寒いのは 正岡子規
子規は、母親の話し言葉をそのまま俳句にしてみせた。まずは、母親にこの俳句を披露しただろう。(妹にも)この句の背後には、母親との仲睦まじさが感じられ、ほのぼのとした感じになる。この、言葉には表されていない明るい雰囲気がこの句の命だ。
子規の句や歌、そして文章には、病気を感じさせない、更に言えば、病気に負けていない明るさがある。
この土手に登るべからず 警視庁
宮城のお堀端に掲げられた高札だという。
寺田寅彦の随筆に、友人が来て今日、俳句を見つけたと言ってきたのが、「この土手に登るべからず 警視庁」だということが書かれてあった。(題名は忘れた。)
俳句でないものを俳句だと惚けたおかしみがある。
また、ある欧州人が来て、俳句を作ったから見てくれという。
それが、「鎌倉に鶴が一匹居りました。」だったという。
その欧州の友人にどう応えて良いものやら対応に困ったとのこと。
私事ですが、とある正月休みに公園を散歩していたら、連凧が青空に揚がっていた。
うむとばかり、「連凧や龍の如くに舞ひ上がる」と詠んだ。
すると、中年の女性がやはり連凧を見上げて、「すご~い!まるで龍みたい。」と仰った。
連凧は、誰でもが龍であると(龍が想像上の生きものだとしても)連想するものであることを思い出した。ということは、「連凧や龍の如くに舞ひ上がる」という句は、全く独創性のない駄句であることに気づいた。
いやあ、自分で言葉を発見することは難しい。
寺田虎彦の欧州の友人の句は、ただの報告、私のはありきたりの比喩だということだ。