「すべてがデータになる前に」は昨年の春にここでブログを始めた頃に連載していた物語です。今ではHPにも載せていますが、まあ、我ながら下手と言うか、何が言いたいのかさっぱりわからない独りよがりなものです。発想としては今の世の中、どんどん人間が生の感じから離れて、データ化しているなあってことでした。ヒトの遺伝子情報がすべて解明されたことから始まって、インターネットなどの発達でコミュニケーションも物の売買もなんでもPCでできるようになり、一日中パソコンの中に首を突っ込んで、向こう側に生身の人間がいるのか、いないのかわからないようになっている。……つまりなんでもデータっていうものに還元される時代だという認識があったわけです。
それは単なる批判や風刺ではありません。我々自体がそうした状況に適応していくようになっている(変化とか進化とか言ってもいいんですが)だけでなく、それを望んでいるんじゃないかなって思います。例えばブログではいろんなデータが出ていますし、日々のブログを読んでいればいろいろと趣味や家族構成などがわかってきます。自分はこういう人間なんですよと表わしたがっていると感じることも少なくありません。
これがデータを好んでいるということですが、もっと簡単な例を挙げると、私がたまにチャットに入ったりすると必ずと言っていいほど年齢を訊かれます。答は「年齢不詳です」なんですが、それは年齢や性別などのデータで判断されたくないからです。データ化社会に無力な抵抗を試みるドン・キ・ホーテみたいなもの、蟷螂の斧に過ぎませんが、リアルの世界と違って年齢や容貌や社会的地位と無関係にコミュニケーションできるネット世界を狭くしているように感じます。
もちろん訊かれる方は悪気もなく、あいさつ程度のことなんだろうと思いますが、ひねくれ者の私はサルのやっているマウンティングのようなあいさつだなっていう感想を持っています。……だいいち私はリアルの世界でも人の名前や顔やましてや経歴のようなことは、まるで記憶できません。関心がないからでしょう。会った時にどんな会話、コミュニケーションができるかがすべてだと思っていますから。一期一会なんて手ずれのした言葉は嫌いですけど。
ちょっと脇道に入りますが、ネットの世界でコミュニケーションしていると、鶴の恩返しや雪女のお話を想起します。仲よくなって、個人的なデータを訊かれます。それは自然なことなので、仕方なく伝えると関係はやがて途絶えます。そんなことはない、オフ会だって楽しかったという人はいっぱいいるでしょう。うらやましい限りです。私はそういう人たちと違って、リアルでもネットでもどこかはずれたところで、生きているんだろうと思います。
「おまえは自分がデータ化されるのを嫌がりながら、なぜブログに書くのか?」という質問がありそうです。コンピュータの中のものである以上、ブログの記事もデータそのものですからね。……本当は私はできれば自分をデータに変換したいのかも知れません。今は学校でも社会でもデータで人を評価する時代なわけで、それを拒否なんかできないなら、こっちから自分を丸ごとデータ化してやろうと。だから、こんなにたくさん記事を書いているんでしょう。まだ1年にならないのに300本近く書いてきました。これらすべてを合わせて浮かび上がってくるものが私です。まぎれもなく。プロフィールなんかよりよほど私という人間を表わしています。ただ、それで全部かと言うと、書けば書くほど書きたいことが出てくるので、なかなか終わりそうもありませんが。
最初に触れた物語のタイトルを自分で下手な英語にしました。“Get it just before data swallows up you”「データに呑み込まれる前に何かをつかめ」itがなんなのかはもちろんわかりません。自分というデータが更新されることがなくなるとき、つまり死ぬ前にと言い換えてもいいんですが、それまではじたばたいろんなことをして、いろんなことを書いていこうと思っています。
芸術家と作品など、見れば明らかで、人は何を認識しているのか解りません。
どちらかを解った積もりになっても、どちらも怪しい。
私は手応えとか実感というのが大事だと思ってはいますが、それがリアルの世界でも、ヴァーチャルの世界でもどちらでも感じられればそれでいいように思います。いい加減って言えばいい加減なんですけど。。