夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

マグダラのマリアとは何だったのか?・上

2006-10-15 | art

 「マグダラのマリア」(岡田温司著)という本を読みました。ノリタンw(我に触れるな)の記事を書いていて気になっていたことがかなりわかってすっきりしました。その私の問題意識を中心に紹介しようと思います。

 まずマグダラのマリアはしばしば娼婦だったのがイエスと出会って自らの生き方を深く後悔し、付き従うようになったと思われていますが、そういう記述は聖書にはないということです。つまり彼女が娼婦だったというのは簡単に言えば誤解か混同です。そのもとになったのはルカ福音書の次のような記述でしょう。

「その町にひとりの罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(第7章第37-38節)

 そして、イエスはこの女の罪を赦し、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言います。新約聖書の中でもとても印象に残る、感動的な場面ですが、この罪の女がマグダラのマリアだとは一言も書かれていません。ただこの箇所のすぐ後にイエスに付き従った者の名前を挙げていて「7つの悪霊を(イエスに)追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と記されています。これらを材料として教皇グレゴリウス1世(在位590-604、グレゴリオ聖歌の名前の由来となった人物です)が『7つの悪霊=邪淫その他の7つの大罪』としてマグダラのマリアを罪の女と同一視したわけです。

 さらに、グレゴリオ1世はマリアのイメージを膨らませます。ヨハネ福音書第11章と第12章に出てくるベタニアのマリアが「主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった」とされていることから罪の女と結び付けられるわけです。このベタニアのマリアの兄弟がイエスによって死から蘇ったラザロで、その奇跡がイエスを信じる人を増やすことにもなり、またそのことがイエスを敵視していた保守派の祭司長たちの憎しみをかうことになりました。

 つまりイエスの生涯をドラマとして考えれば別々のキャストで演じられていた魅力的な役柄を一人の女性にまとめてしまうことで、さらにおもしろさを増したわけです。これを元に例えばヨハネ福音書の第12章第1-8節を私が勝手に脚色するとこうなります。……かつて娼婦だったマリアはイエスに出会い、今は正しい穏やかな生き方をしている。イエスはさらに兄のラザロを死から救ってくれた。感謝の気持ちから今夜は自分たちの家にイエスを食事に招いた。マリアはとても高価な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐう。家は香油の香りでいっぱいになった。しかし、イスカリオテのユダはこうつぶやく。「無駄なことだ。この香油を売れば貧しい人を救うことができるのに」これを耳に留めたイエスは言う。「いや、これでいいのだ。私はいつまでもみんなと一緒にいることはできないだろうから。おまえはわかっているだろう。しかし、マリアもそのことはよく知っているのだ」その言葉どおりユダはイエスを裏切り、マリアはイエスの死と復活を見届けることになる。……

 ノリタンの記事を書いている時も、マグダラのマリアがしばしば壷のような持っているので、これは香油の壷のようだけど、だとすると罪の女やベタニアのマリアのエピソードと混同していることになるなと思っていたんですが、確証が持てませんでした。この点がすっきりしたわけですが、さらに筆者によると聖書の外典においてマグダラのマリアは位置づけがはっきりします。現在の聖書はローマ教会によって行われた何回かの公会議などを経て編纂されたもので、その方針に反するものは偽典・外典として排除されていきました。つまり新約聖書はイエスとその弟子たちの言行録そのものではなく、ローマ教会が公認・作成されたものなのです。

 ところが2世紀のグノーシス主義の影響下に生まれたいくつかの外典では、言わば反主流派の考えがかなり生々しい形で残されています。その中ではマリアは幻の内にイエスを見る能力を持ち、男の弟子たちを励ます存在として描かれています。これに対し、イエスの一番弟子を自認し、初代ローマ教皇でもあるペテロは自分たちがマリアに服従するようになることを恐れ、反発します。マリアは泣きながらペテロに抗弁し、これを他の弟子が応援する。……これは他の聖書の記述と同様に歴史的事実として考えるよりは、イエス亡き後(昇天後でもいいんですが)の初期キリスト教徒たちの間の主導権争いだと考えた方がいいでしょう。その結果はペテロ側の勝利であり、女性を男性より低く位置づける立場が大勢を占めたということです。

 じゃあ、マグダラのマリアがその後の歴史の中で排除されたかというとその反対で、彼女のイメージはどんどん付け加わっていきます。その最大のものが上述したグレゴリウス1世によるものですが、聖書の枠を出て5世紀に実在したエジプトのマリアという、12歳から17年間娼婦を続けた後、回心して47年間砂漠で純潔を守りながら苦しい修行を行った女性のイメージが重ね合わされ、全身を髪の毛でくるまれた隠修士として描かれるといったことが起きます。さらに、ローマ帝国の迫害を受けたマリア一行がマルセイユにたどり着き、異教徒に布教した後、マルイセイユ郊外の洞窟で禁欲的な瞑想と苦行に余生を捧げたという新たな伝承ができあがります。……こうしたマグダラのマリア像を完成し、その後の美術(ノリタンはその一つです)に大きな影響を与えたのが13世紀にドミニコ会修道士のヤコブス・デ・ウォラギネが書いた「黄金伝説」の中の「マグダラの聖女マリア」だったようです。これには今まで述べた様々な伝承がすべて盛り込まれ、さらに隠遁生活の中で天使たちに導かれて空中を浮遊するといったエピソードや福音書家のヨハネと結婚までしたという話が言及されているそうです。ヨハネはノリタンを4福音書の中で唯一記し、マリア寄りの記述をしたのでこういう説が生まれたのでしょう。

 フロイトは男というものは女性を母親タイプか娼婦タイプかのどちらかを選ぶと言ったそうですが、その意味からは聖母マリアとマグダラのマリアがキリスト教の中に生まれたことは必然でもあり、彼女たちの存在はその布教に大きな力を発揮したのかもしれません。「聖なる娼婦」というのはもちろん矛盾する存在ですが、それだけに魅力的でしょう。文芸の世界でもドストエフスキーの「罪と罰」のソーニャを始めとして、バタイユに至るまで、この矛盾に深く魅せられた作家は数多くいると考えられます。娼婦に身を落とさざるをえなかった女性がかわいそうだからなんていう人道的・社会的な理由だけで、彼らがヒロインにしたりするはずはありません。

 画像に掲げたティッチアーノの「悔悛するマグダラ」は崇高さと官能性の同居を理想的に表現したものだと思います。単にセクシーな体だけど、心は清らかなんていう薄っぺらなものじゃなく、その目を見ても宗教的でもあり官能的でもあるエクスタシーを見ることができるでしょう。……しかし、中世の終わり頃に完成したマグダラのマリアのイメージが16世紀のルネサンスの巨匠によって完璧に表現されるようになるまでの過程はまた次回にしましょう。



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5 コメント

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なるほど… (ぽけっと)
2006-10-16 09:01:33
マグダラのマリアはドラマに不可欠な存在として、さまざまな思いや、願いや、思惑やら、意図やらがどんどん付加されていったということですね。処女マリアの方はそれ以上ふくらませようがないでしょうしね。
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そうなんですよ (夢のもつれ)
2006-10-16 17:55:08
まあ出会いや画像がない時代だから妄想の対象としてはいろんな役割を期待されたんでしょうね。



聖母マリアさんの方ですが、元のヘブライ語の「若い女」って意味の言葉をギリシア語に訳す時に「処女」って誤訳してしまったせいで処女懐胎になったという説をつい最近読みました。……ありゃまって思いました。

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ええええ~! (ぽけっと)
2006-10-17 00:26:54
誤訳?!

そしたらシューベルトのアヴェマリアに何回も出てくるJungfrauとかVergin,tutto amorっていう歌とかみんな間違い?こりゃえらいこっちゃ。



でも確かに処女懐胎なんて私でさえ「うそでしょ」と思うものね、まだクリプトン星からやってきたとか、顔洗ったら神様産まれました、の方が信じる気になるかも。
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そ、、 (いちご)
2006-10-17 10:13:46
そうだったのですか★

私もぽけっとさんと同じく誤訳にびっくり!

メカラウロコです。。

個人的に処女懐胎って好きだったのにな・・・言葉が。

でも人って許されたい生物なのでしょうか
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処女懐胎って (夢のもつれ)
2006-10-17 14:58:23
女性も興味シンシンだったんですねw。。でも、キリスト教の教えの大きな柱が揺らぐのを心配してるのか、奇跡自体に興味があるのか、…まあ、後者ですよねw。



この問題はいずれ報告したいと思います。えへへ
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