「私はラブ・リーガル」(drop dead diva)という海外ドラマの法廷戦術の意外さや恋愛模様の多彩さがおもしろくて、dTVでずっと観ていた。さすがにシーズン6ともなると何年も経つのだろう、中央向って左のかわいいステイシーもすっかりお姉さんになってしまった。その最終話で日本の捕鯨を妨害したNPOの女性を主役のジェーンが、「捕鯨は世界一美しく賢い生き物を惨殺する」ものだと批判するのを聴いて、やだなって思った。ジェーンは日本の捕鯨をこれまで彼女が指弾してきた、深刻な副作用を秘匿する製薬企業や性同一性障害の生徒を追い出そうとする学校と同じように扱っていた。つまり条約や法律や校則といったものがどうであろうと、捕鯨船のスクリューにロープを絡め、船員にケガを負わせたって正義に反しないし、それこそが法廷において貫徹されるべきだというわけだ。そうシナリオライターは考えたし、それでアメリカでは多くの視聴者の共感を得られると信じたのだろう。相手が正義と信じ、常識だと思っていることに反論するのはむずかしいし、時間の無駄だ。それが「やだな」と思った理由のようなものだ。
ぼく自身が捕鯨の正当性や必要性を確信していれば不毛ではあっても議論の余地はあるのかもしれないが、そうではない。昔は家や学校給食で鯨肉ステーキやコロという皮の部分を食べさせられ、教科書で平頭銛の話を勉強させられ、大洋漁業はプロ野球球団を持っていたけれど、時代は移り変わり、今はほとんど食べないし、食べたいと思わない。この「日本とクジラ なぜ日本」という記事の言うように、必要性がないのに止めたくない、止める勇気がない集団があるから続いているのだと思う。調査捕鯨という名の遠洋捕鯨ではなく、「ザ・コーヴ」という映画で喧伝されるようになった太地町のようなイルカを含む沿岸捕鯨についても、日本全体の話として考えるような話ではないし、いずれ後継者不足でなくなっていくだろう。
したがって、理性や理屈の問題としてはジェーンに反対する理由はないが、鯨やイルカが美しくて賢いから特別扱いするという考え自体が自分には馴染めないし、ましてや押しつけられたくない。鯨だってオケラだってアメンボだってみんな同じ生き物じゃないか、それを「動物の権利」(英語版)とか名付けてヒエラルキーを作っているんじゃないか。権利という言葉を解しない動物のことを考える時間のほんの一部でも地球の裏側の人間のことを考えた方がいいと思う。アメリカやオーストラリアが強く捕鯨に反対するのは、先住民の権利どころか、人間扱いして来なかった歴史と無関係じゃないだろう。
そう遠くない将来に人間並みの知性や感情を持ったAIが開発されるだろう。その時には「ロボットの権利」や「アンドロイドの保護」が論じられるのだろうか。人間並みということは彼らは鯨やチンパンジーより賢いし、いくらでも美しくすることができるのだから。それとも自然や神によって創られたのではなく、単なる工業製品であって、よくできたプログラムによって感情を持っているように見えるだけだからそうはならないのか。…それは理屈や議論ではなく、その人がそのAIとどういうコミュニケーションをし、どう共感し、どういう価値観を持つに至ったかによるだろう。正義は個人や社会の感情から生まれるもので、常識と地続きといってもいいものだから。