夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

歓喜天とガネーシャ神~宗教とセックス

2012-05-11 | review
この本を読んだ動機は、宗教とセックスとの微妙で密接な関係を考えてみたかったからだ。
歴史の古層において、宗教行事や祭礼の目的は子孫繁栄や農耕・牧畜の豊穣を祈願することであり、生殖行為が直接又はシンボリックに表現されていたはずである。日本の神道やその深層の土着的神事にはその気配が濃厚である。

ところが、キリスト教に典型的に見られるように「聖なるもの」が純化されていくにつれ、セックスは排除されていく。聖母マリアは処女懐胎し、娼婦であったマグダラのマリアが悔悟するというのがその一例である。

日本においても正統的な仏教においては性的なものは排除されているのだが、それはおそらく時々の国家体制に取り込まれていったこと密接に関係があるだろう。奈良仏教が(東大寺、国分寺などによって)律令体制の根幹に据えられ、最澄の天台宗や空海の真言宗が加持祈祷によって平安貴族に厚く信仰されたことが典型的だ。
比叡山延暦寺は京の守護のためのものであり、東叡山寛永寺がその江戸版であることは言うまでもない。空海の戦略はもっとしたたかで、高野山に拠って政権から超然とし、「聖なるもの」としての地位を高めながら、教王護国寺(東寺)により京を宗教的に押さえようとした。

鎌倉仏教は貴族ではなく、直接民衆に訴えようとしたというのが教科書的な説明だが、日蓮には元々国家鎮護的志向が強いし、禅宗の多くは武家政権に近づき、室町期の五山制度において体制に組み込まれた。
独自の宗教国家を目指すとも見えて、織田信長によって凄惨な弾圧を受けた浄土真宗も、徳川幕府の檀家制度によって最終的に他の宗派とともに体制に組み込まれた。
こうした過程において、性的なものが排除されていくのは当然である。
昔も今も政治は性の公然化を嫌うのである。

密教である真言宗は、理趣教など性との関係が深く、その一派と見られる立川流は淫祠邪教の代表のように思われているが、この本では宇宙は男性的要素と女性的要素の合体そのものだという世界観を持ったものだという見方を提出していて、興味深い。

歓喜天はなじみがないかもしれないが、実は民衆レベルでは広く信仰の対象になっており、富と性、特に豊作との関係で性力がその特色である。極めて卑近な現世利益なのだが、病気や家庭不和のような人の不幸に付け込むような新宗教やスピリチュアリズムなんかよりよほど明るく、肯定的だろう。

歓喜天自体は象の頭の男女が抱き合うというものが多い。そのためか、秘仏とされて見ることが極めてむずかしいらしい。象頭だからインドの諸神の影響が強いことは明らかで、同じく象頭のガネーシャ神が伝わったものと著者は見ているが、正面から抱き合ったものはなく、単身であるようだ。この点は、歓喜天とガネーシャ神の関係だけでなく、セックスをどう表現し、信仰の対象とするかという重要な点なので、十分な論考がされていないのは物足りない。



ガネーシャも民衆的な神で、そのため性格も位置づけも多様である。人気があればあるほど多くの希望が託されるのであろう。しかし、ヒンズー教の中では必ずしも高い位置を持っていないところも歓喜天と共通している。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。