
こういうふうにお上品な会話を続けて、栄子の監視網をかいくぐりながら、かき氷を3人一緒に食べるくらいまでにはなったが、「懇ろになるにはお月見くらいまではかかるな」との友人の見立てに、宇八としても頷かざるを得なかった。
ところが、思わぬところから救いの手は差し伸べられるもので、栄子が忙しくなってしまったのだ。と言うのも、栄子、達子、光子の三姉妹にはこれまでもちょくちょくあったことなのだが、姉妹ゲンカを始めたのだった。きっかけはいつもつまらないことだ。
彼女たちの実家、上川家の跡取り息子である兄の正一から、5年ほど前に亡くなった父の保の遺品を3人に形見分けするという連絡が少し前にあった。鷹揚と言うか、粗雑と言うか、金張りの時計と鼈甲のメガネとオノトの万年筆の3つを適当にわけろと言って、栄子一人に取りに来させた。父の遺愛の品であるから、金銭的価値を云々してはいけないと3人とも思ったのがいけなかった。我々は質屋ではないので正確なことはわからないが、金銭的価値から言えばたぶん時計、万年筆、メガネの順であろう。しかし、亡父の思い出という面から言うと、メガネはいつもかけていたものであり、時計は改まった外出時くらいにしか身につけておらず、万年筆に至っては使っているところを娘たちが見たことはない。
そうしたことが絡み合って、3人の思惑でぐちゃぐちゃになり始めたのを、更に光子の夫の薫が万年筆を自分が使ってみたいものだから、「そりゃお義姉さんから順番にお義父さんの思い出の濃いものを取ってもらうのが筋だ」とか口をはさみ、達子の夫の片山幸三が妻たちがああだ、こうだ言うのが煩わしくて、「本家の考えをきちんと訊いて来なかった義姉さんが悪い」とか言い出し、関係者が増えて収拾がつかなくなった。……
実は、亡父に対する愛情が強いのは我々の目からすると光子、栄子、達子の順で、先の2人は自分こそ父の最愛の娘と自負していた。つまり達子は、少しばかりの物欲(そんなものは一週間も電話の応酬やら、いさかいをしていれば消えていくものだ)を除くと、結果はどうでもよかったので、次第に姉の側に立った。
しかし、光子側は執拗だった。それは栄子は長姉だから立てるところは立てなければならない。だが言いたくはないが、いつぞやのこと(もちろん夜逃げしてころがり込んだことである)を忘れたのか。あの時少しでもいやな顔をしたか? お義兄さんに晩酌を欠かしたか? 輪子ちゃんにつらく当たったりしたか? ……いやな顔の一つや二つはしたし、晩酌も酒が自分の前にないと宇八が要求するので結果的に欠かさなかったということにすぎないような気もするが、客観的事実よりは相手の痛いところを突くという点では目的は達成しているのだろう。
しかし、こうした言い草を黙って聴いている栄子ではない。彼女も三姉妹の頭としてプライドも高く、口も負けずに達者なのである。今は形見分けの話ではないか。過ぎてしまったことを恩着せがましくねちねち(こういう細部の表現が戦場を一層燃え立たせる)と持ち出すなら、光子たちが父親の反対を押し切って結婚した当時、風呂代にも事欠いてぴいぴい言っていたのを哀れんで、こっそり小遣いを上げたのは、一体誰だったか? 達子も言っている、光子は末娘で自分だけかわいがられたとでも思っているかもしれないが、お父さんは子どもたちを平等に愛していたと。自分はお父さんの晩酌の相手もしていたから、本音がぽろっと出てくるのを聴いたことがあるが、それはかわいそうだから言わないでおこう(実は亡父は娘たちに対する愛情の濃淡など口にするような人間ではなかったので、これは栄子のトリックである)。……
いやもうこうした激しい戦闘が昼夜問わず、ほとんど毎日、電話口で30分、1時間、どちらも泣くわ、わめくわの大騒ぎ。光子の後ろでは薫が自分まで興奮して応援演説をぶって、そのくせ万年筆がほしいとは一言も言わない。栄子もどれがいいとは自分でも決めていないのだから、何を争っているのかもわからなくなるという、ヴェトナム戦争のような泥沼の事態と成り果てた。
この妻の混乱、困惑ぶりを見て千載一遇の機会と思わないのはどうかしているのであり、一緒になって騒いでいるに至っては正気の沙汰とは思えない。いや我々ではなく、主人公の意見である。妻の心労を自分の苦難としてじっと耐え忍ぶぼくの心情、ああ苦しい、茉莉さん聴いてはくれぬか、欽二も抜きで。……そうした図々しい演技と口からでまかせで、まんまと30近く年の離れた美女を元男爵の別邸とかいう瀟洒なレストランに連れ出し、挙句の果てに昼食後のコーヒーの時には、おっといけない茉莉さんの悩みについても年長者として懇ろにアドバイスしてさしあげなくては、夜に。
そう言うと、口に運びかけたカップをソーサーにきちんと戻して、茉莉が答えることには、姉が一緒でそちらも仲林さんがご一緒ならと伏目がちに言う。かえって育ちの良さを感じる慎重な判断、それはそれでなかなかおつなご提案。では、いついつに場所はぼくの方で手配しておきましょう。よく手入れされた日本庭園に向かって煙を吐きながら、そうのたまわった。
その帰り道、小学生のようにぶんぶん手を振って別れた後、ただでさえこういうことにはよく回る頭を一層回転させ、旧盆直後のべとつく暑さの中で、かっか、かっかと策略をめぐらせた。とは言え、色恋事の手筈にそうそういろんなものがあるわけもなく、自分は茉莉、欽二は百合ときっちり分担を決めて、洋食ではどのナイフから、どのフォークからとまごつくこと必定、しっぽり和室で和食、費用は欽二持ち、食後は各自奮闘努力し、恨みっこなしということにした。
この話に、翌日直接面談した際の欽二の反応と言えば、持つべきものはよき友人、若干の見解の食い違いと感情の揺れはあれど、腹を割って話せばちゃんと状況を理解した上で現実的な判断を下し、大人として話もまとめられる。それに引き換え女どもは、いつまでやるのか、いやずっとでもありがたい……と一服点けながら清々しい歓談と相成った。
今はケイタイがあるから、話が早いんだろうなぁ。うまくいくのも、ダメなときも。