1/15にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはヒュー・ウルフ指揮で、前半がアンティ・シーララのピアノによるバルトークのピアノ協奏曲第3番、後半がショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」です。ウルフは左足をケガでもしたのか松葉杖をついて登場し、ハイチェアに浅く腰を掛けて指揮しました。イスから転げ落ちたりしないのかなって心配になりましたが、そういうこともなくアンコールに応えて何度も舞台に出て来ました。
まずバルトークですが、冒頭の葉っぱの上を水滴がころがるようなピアノとそれに寄り添うようなオケが印象的でした。 ただなんか優しすぎてバルトークらしくない曲って感じで、それは最後の方まで拭えませんでした。時に金管が「管弦楽のための協奏曲」を思わせるパッセージを奏でます。
第2楽章は「Adagio religioso」となっていて白血病に蝕まれた作曲者が祈りを捧げるといった趣きです。実際、チェロのため息からピアノが美しい音色を奏でますが、聴いていくと単純素朴すぎるメロディじゃないかなと思いました。ここはしばしばベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番第3楽章の影響があると言われます(例えばこのウィキの英語版)が、私にはそう聞こえませんでした。ちょっとマーラーっぽい光背のような弦のコラールや木管、金管、マリンバによる鳥の鳴き交わし(聖フランチェスコってところでしょうか)のようなフレーズなど、宗教的な道具立ては揃っているんですが、深みを感じないというか、感傷的に過ぎるというか。……あっさり言っちゃうとバルトークはこういう曲想を書いて来なかったし、それに向いた資質でもないなと思いました。
第3楽章はかなりバルトークらしい音楽ですが、全盛期のバーバリズムと比べると少しゆるくてキレを欠いた音楽かなって感じです。しかし、結尾の盛り上がりに向けて音を追い込んでいくテクニックは鮮やかなもので、自分の手で完成できなかったのは無念だったでしょう。アンコールはとても短いショパン(曲名は見そびれてしまいました)で、いいか悪いか判断する前に終わってしまいました。
ショスタコーヴィチですが、この曲は1905年の「血の日曜日事件」を題材としたもので、いろんな革命歌の旋律が使われています。当日のプログラムにはその内容や各楽章の副題を元にした解説があって、それを読みながら聴くとわかった気になります。それを孫引きしても仕方ないんで、そうした音画的・交響詩的な性格に収まらないところに焦点を当てて書いていきます。
冒頭の弦とハープによる重い霧のような音楽はこの音量も圧倒的な(このホールで聴いたいちばん大きな音に聞こえました)音色も派手な作品の中で、私にはいちばん印象的な旋律でした。耳の底に執拗に残るこの音楽は作品全体を覆う暗いイメージを形成しています。ホルン以外のすべての金管がミュートを掛けて演奏して第1楽章の「宮殿広場」の広がりを表現したり、ティンパニの連打の繰り返しの最後に大太鼓を重ねたりとオケの鳴らし方を知り尽くしたテクニックはあざといほどですが、そこから浮かび上がってくるのは暴力性ということでしょう。ショスタコーヴィッチが比類のない表現力を発揮するのは暴力性だと「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などを見て思っているんですが、それは彼がそれだけ「暴力」を目の当たりにし、それに怯え続けたからだろうと思いました。
シロフォンがキンキンと鳴ります。彼の作品にはシロフォンがよく出てきますが、臆病な自分が慌てふためく様子をカリカチュアライズしたもののような気がします。……いや、そう言ってしまうとどこかズレますね。例の「ショスタコーヴィッチの証言」以来、彼の音楽を裏読みしたくなるのは私だけではないと思うんですが、裏返せばそれですっきりわかるというものでもないと今は思っています。例えばこの曲を表面的にはロシア革命前夜の悲劇を描いているけれど、実は作曲に取り掛かった1956年に起こったハンガリー動乱を表現しているといった解釈は可能でしょう。長く忌まわしいスターリン時代が終わって、フルシチョフが「雪どけ」を演出しながら、ハンガリーの民主化運動を圧殺したこととニコライ2世の慈悲を信じた民衆の悲劇に重ね合わせているといった絵解きです(ここまで書いたところで、ひょっとしてと思って英語版のウィキを見たらそんな感じのことが書いてあるんでおやおやと思いました)。プログラムを誰が考えたか知りませんが、そう考えると前半のバルトークの意味合いもわかった気になろうというものです。
でも、そう考えてしまってはどこかズレます。だいいち私の耳にハンガリー舞曲らしきものが聞こえたわけではありません。第3楽章は事件の犠牲者へのレクイエムのようなものだとあちこちに書いてありますが(私はレクイエムをそれなり聴いてきたつもりですが)、さっぱりそう聞こえません。すべては耳で聞いたものから出発していない、ものの喩え、言葉の戯れなんでしょう。音楽を音楽として聴くところから出発しないようではソ連の文化当局と変わりません。
では、何が聞こえたのかといえばとても両義的な音楽です。チェレスタとハープによる哀歌においても、ヴィオラの唄う犠牲者を悼む長いフレーズにおいても、各パートが歌をつないでいく泥臭い革命歌においても、それらを否定するような音が置かれていて、どこか違っている、何か別の意味があるという感覚が立ち昇って来ざるをえません。それが何を表わしているかを言葉にするとズレが生じる、ということはそのambiguousな感覚そのものが作曲家が表現したかったことだろうと思います。
おそらくソ連体制の下で作曲し続け、生き延びるためには二重言語、二重思考が必要だったのでしょう。それは他の作曲家、芸術家も同じはずですが、服従でも反抗でもない自分たちの置かれた状況そのものを描くことができたのはショスタコーヴィッチだけでしょう。そうした状況は今なお世界のあちこちにありますし、この生ぬるい国においても我々はその場その場で「自分」を使い分け、両義的な意識を持って生きているように思います。現代社会において社会の中で生きようとすればそうせざるをえないのかもしれません。それが彼の音楽に共感する根本的な理由です。素晴らしく不愉快で不気味な音楽です。最終楽章の「警鐘」はやがてイングリッシュ・ホルンに導かれて冒頭の重い霧が這い回り、打楽器を総動員した悪夢のような音楽を教会の鐘を模したテューブラ・ベルが断ち切ってこの曲は終わりました。
まずバルトークですが、冒頭の葉っぱの上を水滴がころがるようなピアノとそれに寄り添うようなオケが印象的でした。 ただなんか優しすぎてバルトークらしくない曲って感じで、それは最後の方まで拭えませんでした。時に金管が「管弦楽のための協奏曲」を思わせるパッセージを奏でます。
第2楽章は「Adagio religioso」となっていて白血病に蝕まれた作曲者が祈りを捧げるといった趣きです。実際、チェロのため息からピアノが美しい音色を奏でますが、聴いていくと単純素朴すぎるメロディじゃないかなと思いました。ここはしばしばベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番第3楽章の影響があると言われます(例えばこのウィキの英語版)が、私にはそう聞こえませんでした。ちょっとマーラーっぽい光背のような弦のコラールや木管、金管、マリンバによる鳥の鳴き交わし(聖フランチェスコってところでしょうか)のようなフレーズなど、宗教的な道具立ては揃っているんですが、深みを感じないというか、感傷的に過ぎるというか。……あっさり言っちゃうとバルトークはこういう曲想を書いて来なかったし、それに向いた資質でもないなと思いました。
第3楽章はかなりバルトークらしい音楽ですが、全盛期のバーバリズムと比べると少しゆるくてキレを欠いた音楽かなって感じです。しかし、結尾の盛り上がりに向けて音を追い込んでいくテクニックは鮮やかなもので、自分の手で完成できなかったのは無念だったでしょう。アンコールはとても短いショパン(曲名は見そびれてしまいました)で、いいか悪いか判断する前に終わってしまいました。
ショスタコーヴィチですが、この曲は1905年の「血の日曜日事件」を題材としたもので、いろんな革命歌の旋律が使われています。当日のプログラムにはその内容や各楽章の副題を元にした解説があって、それを読みながら聴くとわかった気になります。それを孫引きしても仕方ないんで、そうした音画的・交響詩的な性格に収まらないところに焦点を当てて書いていきます。
冒頭の弦とハープによる重い霧のような音楽はこの音量も圧倒的な(このホールで聴いたいちばん大きな音に聞こえました)音色も派手な作品の中で、私にはいちばん印象的な旋律でした。耳の底に執拗に残るこの音楽は作品全体を覆う暗いイメージを形成しています。ホルン以外のすべての金管がミュートを掛けて演奏して第1楽章の「宮殿広場」の広がりを表現したり、ティンパニの連打の繰り返しの最後に大太鼓を重ねたりとオケの鳴らし方を知り尽くしたテクニックはあざといほどですが、そこから浮かび上がってくるのは暴力性ということでしょう。ショスタコーヴィッチが比類のない表現力を発揮するのは暴力性だと「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などを見て思っているんですが、それは彼がそれだけ「暴力」を目の当たりにし、それに怯え続けたからだろうと思いました。
シロフォンがキンキンと鳴ります。彼の作品にはシロフォンがよく出てきますが、臆病な自分が慌てふためく様子をカリカチュアライズしたもののような気がします。……いや、そう言ってしまうとどこかズレますね。例の「ショスタコーヴィッチの証言」以来、彼の音楽を裏読みしたくなるのは私だけではないと思うんですが、裏返せばそれですっきりわかるというものでもないと今は思っています。例えばこの曲を表面的にはロシア革命前夜の悲劇を描いているけれど、実は作曲に取り掛かった1956年に起こったハンガリー動乱を表現しているといった解釈は可能でしょう。長く忌まわしいスターリン時代が終わって、フルシチョフが「雪どけ」を演出しながら、ハンガリーの民主化運動を圧殺したこととニコライ2世の慈悲を信じた民衆の悲劇に重ね合わせているといった絵解きです(ここまで書いたところで、ひょっとしてと思って英語版のウィキを見たらそんな感じのことが書いてあるんでおやおやと思いました)。プログラムを誰が考えたか知りませんが、そう考えると前半のバルトークの意味合いもわかった気になろうというものです。
でも、そう考えてしまってはどこかズレます。だいいち私の耳にハンガリー舞曲らしきものが聞こえたわけではありません。第3楽章は事件の犠牲者へのレクイエムのようなものだとあちこちに書いてありますが(私はレクイエムをそれなり聴いてきたつもりですが)、さっぱりそう聞こえません。すべては耳で聞いたものから出発していない、ものの喩え、言葉の戯れなんでしょう。音楽を音楽として聴くところから出発しないようではソ連の文化当局と変わりません。
では、何が聞こえたのかといえばとても両義的な音楽です。チェレスタとハープによる哀歌においても、ヴィオラの唄う犠牲者を悼む長いフレーズにおいても、各パートが歌をつないでいく泥臭い革命歌においても、それらを否定するような音が置かれていて、どこか違っている、何か別の意味があるという感覚が立ち昇って来ざるをえません。それが何を表わしているかを言葉にするとズレが生じる、ということはそのambiguousな感覚そのものが作曲家が表現したかったことだろうと思います。
おそらくソ連体制の下で作曲し続け、生き延びるためには二重言語、二重思考が必要だったのでしょう。それは他の作曲家、芸術家も同じはずですが、服従でも反抗でもない自分たちの置かれた状況そのものを描くことができたのはショスタコーヴィッチだけでしょう。そうした状況は今なお世界のあちこちにありますし、この生ぬるい国においても我々はその場その場で「自分」を使い分け、両義的な意識を持って生きているように思います。現代社会において社会の中で生きようとすればそうせざるをえないのかもしれません。それが彼の音楽に共感する根本的な理由です。素晴らしく不愉快で不気味な音楽です。最終楽章の「警鐘」はやがてイングリッシュ・ホルンに導かれて冒頭の重い霧が這い回り、打楽器を総動員した悪夢のような音楽を教会の鐘を模したテューブラ・ベルが断ち切ってこの曲は終わりました。
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なんかいろんなものがあるサイトです。
なんかいろいろしゃべります。
よく言えば両義性とも言える、というような迷っているような表現そういうのもときどきあるけど)ではないってことでしょうから。
ambiguousは曖昧なって訳されるときもありますが、もわっとしてるんじゃなく、明確に両義的で、ambivalentに近いようなものですね。