9 病院の神々~コンムニオ
我々はこれから悲しい話ばかりしなくてはならない。すぐ前にルーカス神父の帰国について触れた。その傷が癒えたかのように見えた頃、翌年の2月から話を再開しようと考えているが、その主な内容は栄子の闘病と死である。これを悲しまずしてどうしようかと我々も思うが、ただそれを悲しみの色だけで語っていいのだろうか。我々の物語の登場人物たちは、悲しみという通奏低音の上に様々な色合いの和声を響かせてくれるのではないか。……
82年2月、レクイエム完成後の宇八は、また前と同じようにのんべんだらりと毎日を過ごしていた。節分の夜は、正月以来会っていなかった欽二と外のすき焼き屋で、飲んでいた。羽部家のアパートでは、栄子が突然豆まきをすると言い出した。10年近くやっていないけれど、お父さんはいないけれど、鬼を追い出し、福を呼び込むのだと言って、渋る輪子の手を引っ張って豆まきを始めた。狭いアパートだから窓を開けて大きな声で、「鬼は外、福は内」と2、3回叫べば終わってしまう。寒いからと輪子が窓を閉めて回り、振り返るとこたつのところで栄子が座り込んでいる。
「どうしたの?」
「ここがぐーっと痛い」と言って、胸の下を押さえる。
「でも我慢していれば直る」
「前からなの?」
「時々、たまに」
顔色に生気がなく、もたっとした感じだ。少し横になっていれば治ると言って、救急車を呼ぶのを嫌がる。それほどじゃないと言う。水をくれと言う。水を飲むのに身体を起こすのもだるそうだ。どうしたらいいのだろう。さっきは元気に声を張り上げていたのに。こたつの上に袋から豆が出て散らばっている。お父さん早く帰ってきてと輪子は思う。まだ8時45分だ。
「お母さん。少し寝たら?」
「うん」と大儀そうに答える。栄子は座布団を枕にして、次第にうつらうつらしていく。輪子は眠ってしまった母親にまた別の不安を覚えていた。お母さん体重が減ったって喜んでいたけど、もし……。どうしてこんな不吉なことばかり考えてしまうのだろう。そういう考えを切り取って捨ててしまいたくなる。17歳の輪子は不安におびえていたのである。……
父親は10時近くなって帰って来た。欽二も一緒だった。おれの家で飲み直そうやという誘いについて来たのである。ドアを開けて娘の泣き顔を見て、その奥に妻が変にぐんにゃりした格好で横たわっているのに気付き、ぎょっとした。後ろから急にしゃきっとした欽二が、
「おい、救急車呼んだ方がいいんじゃないか?」と言ったが、栄子が少し頭をもたげて、
「大丈夫。明日、病院へ行くから」と力のない声で言う。前回と違い、意識がはっきりしていて、話せるのであれば、今晩かつぎ込むこともないのかなと思う。様子を見ることにした。欽二は、
「朝になったらすぐに病院へいけよ。結果を知らせてくれ」と宇八に常にない強い調子で言って、帰って行った。
翌朝、少し調子が良くなったとかぐずぐず言う栄子を叱りつけるようにして、前と同じ病院へ行った。待っている患者が多く、2時間近く待たされた。こんなに待たされるとかえって具合が悪くなると文句を言いながら、空いてきた長いすに横になっていた。
ようやく診察室に二人で入って、医師が聴診器を当てたり、下まぶたを引っ張ったり、ベッドに寝かせて胸の下や反対側の背中を押さえたりすると、背中がいちばん痛むようで顔をしかめている。診察する間に、宇八が経過を説明する。一通り見終わって、カルテを見ながら、
「去年は軽い心筋梗塞だったんですよね。……」と言ったきり、医師は黙っている。
「今回は心臓じゃないんですか?」と宇八が訊いても、
「うーん。……しばらく検査のために入院していただきますので」と答えるだけだった。
また先延ばしにされた、いいカモにしてるんじゃないだろうなと思うが、それならそれでいい、今度もあの時と同じようにうまくいけば。栄子も不安そうである。看護婦がその場で血液を採取し、5階の病棟へ案内された。6人部屋の奥の左である。来たままの格好でベッドに横たわった栄子を置いて、廊下で入院に必要な物とか、注意事項をどこか陰気な看護婦から伝えられた。『入院される方』というタイトルで、ですます調で書いているが、要は命令書を渡し、書いてあることをくどくどと言う。
宇八はいったん家に帰り、何がどこにあるかよく知らないので、うろうろしているうちに、輪子が学校から帰って来た。慣れた様子であれこれ輪子がそろえるのをぼんやり見ているだけだった。
宇八と輪子が病室に行ってみると、点滴を受けていて元気なさそうに横になっている。あ、もう病人になっているなと彼は思った。栄子はあの後、また血や尿を取られた、まだまだ検査するらしい、半年前の結果があるだろうに、カネもうけしか考えていないとんでもない病院だとぶつぶつ言うので、おまえがいやなら病院変わろうかと言うと、それも面倒だと言って、黙り込んでしまう。枕元の名札に目を遣ると、主治医は蝶ヶ島というらしい。
しばらくすると病院の食事はまずい、お粥の炊き方もなっていないと言う。そのくせ輪子がみかんをむいてやっても少ししか食べない。言っていることは威勢がいいが、声に力がない。これは、検査入院くらいじゃすまないなと宇八は思う。……
2、3日して看護婦を通して、家族面談をすると連絡があった。輪子も心配なので一緒に聴きたいと言うので、学校を早退するのを許した。診察室で蝶ヶ島から説明があった。
「まだ確定的なことは言えないんですが、膵臓が肥大しています。……腫瘍ということも考えられますね」とシャーカステンにはさんだ2枚のレントゲン写真の一個所を指差しながら言う。
「腫瘍というとガンということですか?」
一緒に聴いている輪子が目を見開いて父親の顔を見る。
「いや、まだ確定診断はできない」と主治医は言葉を濁す。
しかし、と宇八は思う。医者が腫瘍という言葉を口にする以上、かなり心証を持っているのだろう。そうでなくて、ついうっかり出たのだったら、それこそ転院だ。あといくつか検査結果を重ね合わせれば、確信が持てるといったところか。だが、家族にそれとなくほのめかすといったところで、今日通告しておく意味はなんだろう。そうか、事態は最悪だということか。……
その線で理解すると、蝶ヶ島が説明することも意味がよくわかる。本当に訊きたいことはたくさん(痛みはひどいのか、漢方だとか、様々な療法はどうか、要はあとどれくらいなのか等々)あるが、今日はこれ以上は訊けない。主治医の顔を見つめる。いくつくらいなんだろう。40? 45? やせた細い顔をして、メタルフレームの厚いレンズのメガネをしている。白衣をきちんと着ているが、ネクタイはいつ見てもゆるんでいる。話し方は事務的だが、冷たい響きではない。メガネの向こうの目は、なんと言えばいいのだろう。……二人とも口数少ないまま、「よろしくお願いします」と普段の彼であれば、よろしくなんて、何をどうすることなのかわからないから、みんな使うんだろうと皮肉を言うに違いないあいさつを言って、面談は終わった。
輪子と二人きりになってもどちらも口を開かない。輪子は栄子の病気がはっきりしない不安に、彼はわかってしまったことによる不安にとらわれていた。その沈黙を打ち切るように、
「じゃあ、叔母さんたちに知らせといてくれるか。去年と同じようなものだと言っておけばいいから」と言った。
「お母さんにはなんて言えばいいの?」
「……何も言うことはない。今のところは」と短く言ったが、少し思い直して、
「検査結果がわかったら、また考えよう」と付け足した。