図書館で借りてきたCDです。私はだいたいはライナーノーツは読まないか、読んでも聴いてからのことが多いんですが、これも聴いてから何気に読んでみてこれを書くことにしました。このCDのライナーノーツには演奏者自身の不思議な文章とディスコグラフィーだけが載っています。その句読点のない文章は「啓蒙主義」、「植民地主義」、「奴隷労働」、「欲望の文明」、「普遍主義」、「新自由主義市場経済」、「バッハの父権的権威」、「多層空間と多次元の時間の出会う対話の場」、「遍歴の冒険」、「東アジア地域の物語」といった言葉が散りばめられたもので、勘のいい人にはどんな口臭のする文章かわかるでしょう。
高橋悠治なんだからこの程度は書くだろうという気もしますが、大層なことを言うほどの演奏ではありません。確か発売当時(04年11月)、CDショップにはグールドに優るとも劣らないなんてコピーが掲げられていましたが、ご冗談でしょうって感じです。まあ、そういうコピーを見ると買う気をなくす方だから、今まで聴くチャンスがなかったんですが。
下手でどうしようもないとか、全くこの曲がわかっていないとは言いませんが、一体何がしたかったのかよくわからない、それ以前にテクニックとして弾けていない部分が多く、特に第20変奏以降は集中力の衰えがはっきりと見て取れます。驚いたのは40分そこそこの短い演奏時間だけです。「現在では毎年のように この曲の新しい演奏のCDが消費される それぞれが個性的なスタイルや正統性や技術を売っているが 話題になるのは次のCDが出るまでの短い期間にすぎない」全く自分で書いているとおりです。
バッハのこの曲だからこそ大げさなアジ演説(若い人は意味わかるかな?w)みたいことを言っても通用するんで、そういう意味では演奏と二重におんぶにだっこしていると言えるでしょう。考え方はいろいろあるでしょうが、演奏家は作曲家の創造したものの上に乗って演奏しているわけですから、あまりべらべらしゃべるのはみっともないように思いますし、聴く方としては演奏家が何を言おうとそんなに重きをおく必要はないだろうと思います。極端に言えばピアニストが「ここでバッハは自分の人生を振り返っています」と言って演奏しても、それを聴いて「ああ、バッハは新しい職場を探していたんだ」と感じてもなんの問題もないし、それを演奏家にわかってないと言われる筋合いはありません。「だって、楽譜どおりに弾いたんでしょ?」って言えば終わりですからw。
かなり意地の悪いことを書いてるとは思いますが、そう言われたくなければ自分で作曲すればいいんです。高橋悠治も作曲するみたいですが、聴いたことはありません。このCDほどは売れないでしょうけど。図書館にもないですし。
私は演奏家が芸術家ではないとか、一から創造する作曲家や画家よりも下とかは言いませんが(そんな面倒な議論をしたくないだけですがw)、作曲家の肩の上に乗せてもらっているんだという謙虚さは必要だろうと思っています。グールドもいろんなことを言う人であまり謙虚な人ではないかもしれませんが、少なくともこの曲の例えば第14、第15変奏からはバッハの巨大な精神への謙虚さとそれに近づこうとするひたむきさに感じ入ってしまいます。……そう、うるさい聴衆なんか演奏で、音で有無を言わさずねじ伏せればいいんです。私もそれをひたすら待っていますが、残念ながら両手で数えるほどもないようです。
高橋悠治なんだからこの程度は書くだろうという気もしますが、大層なことを言うほどの演奏ではありません。確か発売当時(04年11月)、CDショップにはグールドに優るとも劣らないなんてコピーが掲げられていましたが、ご冗談でしょうって感じです。まあ、そういうコピーを見ると買う気をなくす方だから、今まで聴くチャンスがなかったんですが。
下手でどうしようもないとか、全くこの曲がわかっていないとは言いませんが、一体何がしたかったのかよくわからない、それ以前にテクニックとして弾けていない部分が多く、特に第20変奏以降は集中力の衰えがはっきりと見て取れます。驚いたのは40分そこそこの短い演奏時間だけです。「現在では毎年のように この曲の新しい演奏のCDが消費される それぞれが個性的なスタイルや正統性や技術を売っているが 話題になるのは次のCDが出るまでの短い期間にすぎない」全く自分で書いているとおりです。
バッハのこの曲だからこそ大げさなアジ演説(若い人は意味わかるかな?w)みたいことを言っても通用するんで、そういう意味では演奏と二重におんぶにだっこしていると言えるでしょう。考え方はいろいろあるでしょうが、演奏家は作曲家の創造したものの上に乗って演奏しているわけですから、あまりべらべらしゃべるのはみっともないように思いますし、聴く方としては演奏家が何を言おうとそんなに重きをおく必要はないだろうと思います。極端に言えばピアニストが「ここでバッハは自分の人生を振り返っています」と言って演奏しても、それを聴いて「ああ、バッハは新しい職場を探していたんだ」と感じてもなんの問題もないし、それを演奏家にわかってないと言われる筋合いはありません。「だって、楽譜どおりに弾いたんでしょ?」って言えば終わりですからw。
かなり意地の悪いことを書いてるとは思いますが、そう言われたくなければ自分で作曲すればいいんです。高橋悠治も作曲するみたいですが、聴いたことはありません。このCDほどは売れないでしょうけど。図書館にもないですし。
私は演奏家が芸術家ではないとか、一から創造する作曲家や画家よりも下とかは言いませんが(そんな面倒な議論をしたくないだけですがw)、作曲家の肩の上に乗せてもらっているんだという謙虚さは必要だろうと思っています。グールドもいろんなことを言う人であまり謙虚な人ではないかもしれませんが、少なくともこの曲の例えば第14、第15変奏からはバッハの巨大な精神への謙虚さとそれに近づこうとするひたむきさに感じ入ってしまいます。……そう、うるさい聴衆なんか演奏で、音で有無を言わさずねじ伏せればいいんです。私もそれをひたすら待っていますが、残念ながら両手で数えるほどもないようです。
なのでよくわからないんですが、謙虚って忘れちゃいけない大事なことですね、ていうのは賛成です、我が身への反省も込めて。
こだわりのうどんやさんみたいですね、確かにそんなダシを使ってみりん風調味料なんかで味付けしていたらいけませんね、せめて本みりんは使わないとっ
「やいやい、うちはバッハでダシとってるんだぜ。バッハと言っても本家本元、ヨハンのセバスチャンのだからね。あっちの店のC.P.Eなんて軟弱なのとはわけが違うんでぇ。味のわかんないやつはとっとと帰えんな」なんて言うんでしょうか?w