ところが、思わぬところから救いの手は差し伸べられるものであった。以前にも同じような言い回しをしたのかも知れないが、単なる偶然である。2週間後のミサの後で、宇八が百合の顔を見るのが半分、煮詰まった状態の『オフェルトリウム』について神父と議論したいのが半分で、説教壇の近くで待っていると、欽二が袖を引っ張って、
「おい、探したか?見つかったか?」と訊く。
宇八は(カモノハシならともかく)カモ探しは、もとより欽二の分担と心得ていて、最近していたことと言えばせいぜい『オフェルトリウム』のことだけだった。特に女声3人、男声2人の五重唱にしてはどうかと思いながら、どうもうまくはまらないなどと考えていたので、不意を突かれた格好だったが、
「うん、いろいろ当たってみたが、なかなか大口の資金提供となるとな……」
「そうか。やっぱり金融機関はだめだな。コネがあっても、担保、担保って、そればっかりだ」
ふうん、こいつまじめにやっていたのか、まあ気が小さい方だからなと思いながら、深刻そうな表情で話を合わせていると、時木百合が話にすっと入ってきた。
「どうされたんでしょう?お仕事のお話のようですけど。……いえ、わたしみたいな子どもが口をはさんで申し訳ありません」
二人とも彼女になら、口でもなんでもはさんでほしいのである。われ先にと自分たちの窮状とすばらしいアイディアについて並べ立てる。それを百合は婉然たる微笑みで聞いている。話がおおよそ理解されると、
「わたくしの父は時計とか宝石とか、そういった小さな物の輸入や販売をしておりまして。この時計もそうなんですが」と手首を差し延べながら言う。その優美なしぐさと透きとおるような腕に目が引きつけられて、時計の方に注意が行きにくいが、最近テレビコマーシャルが流れているスイスの高級時計のようだ。宇八は白鳥がネギを背負っている図を思い浮かべた。欽二も同じような顔をしている。
「お父様とお話しがしたいですなあ。ビジネスのパートナーとか、そんな先走ったことではなく、わたしどもの構想についてお時間をいただいて、お聴き願えないかと」
こういうときには、宇八の方がもっともらしい対応ができる。欽二は、こいつは口はうまいんだが、どうも実際の商売はヘタなんだよなと思う。
それでは父親に訊いておくので、良ければ会食でもアレンジしましょうと言って、百合が帰ろうとすると、欽二がふと思いついて、
「あの、茉莉さんは最近いらっしゃらないようですが」と訊くと、カシミアのコートに袖を通しながら、
「ええ、少し元気がなくて、家で臥せっておりまして」と答えた。
冷蔵庫の中のように寒い路上を二人の中年男は、スキップでもしかねないような風情で歩いて行く。宇八はレクイエムのことなんかすっかり忘れている。先ほどの話に聞き耳を立てていた栄子が後ろから欽二に話し掛ける。
「仲林さん、水を差すようで失礼ですが、大丈夫でしょうか? 時木さんのお父さんに会って、話をしてしまって……」
欽二は内心では浮き立っているところにと、ちょっと鬱陶しく感じているが、それは表に出さないで、
「いや、まあいつもと違って、我々もかなり慎重にことを進めてますよ。ご心配かけて申し訳ありませんが」とかわす。宇八はそのやり取りを横目でちらっとだけ見て、無視している。
彼女は二人に百合などと関わりを持ってほしくないのである。若くて美人だからだという嫉妬の感情だけではない。虫が好かないのである。姉の百合は茉莉以上に蛇のようだ。その父親とトカゲの話をするなんて、爬虫類に囲まれているようで気色が悪くて仕方がない。……
ところが、百合の父親は蛇やトカゲではなく、ライオンだった。時木獅子男という名ばかりでなく、そのいかつい顔、たてがみのようなオールバックの髪、いや何より焼肉でもユッケでもがつがつと食いまくる様は、まさにライオンだった。3月上旬の水曜日の夕刻、二人は時木父娘に焼肉屋に招待されたのだ。会うなりいきなり獅子男は店の外まで聞こえそうなよく響く低い声で、
「まあ、あいさつは後で気の済むまですればいいってことにして、肉を食いましょう。肉を」と言うと、カルビ、骨付きカルビ、ハツ、ロース、タン塩、レバー、シマチョウ、ミノ、ユッケ、生レバー等々の肉に加え、チヂミ、キムチの盛り合わせ、サンチュ、韓国海苔と店員が書き留められないような速さで注文する。まだメニューを見ているので、百合が慣れたふうに、「クッパや冷麺は後にしましょうね」とたしなめる。
「お客さんが食い足りんようじゃダメだろうが。……羽部さん、3人前ずつで足りますか?娘はあまり食わんタチなんで」
あきれた宇八と欽二がこくこくと頷くのを見て、
「ま、冷麺食いながらまた頼みましょう」とさらに度肝を抜くようなことを言う。
熾きた炭火が運ばれ、黒く焦げてゆがんだ網が載せられる。生ビールとキムチが来る。
「冬でもビール、冬こそビールですな」と宇八が言うと、
「おう、良いことを言われる。どんどん飲みなされ。おい、肉はまだか」と応じ、その声に、「すぐにお持ちいたします、時木様」と飼いならされたような答えが返ってくる。あの、まだですか。ちょっと確認してみます……今やっておりますので、もう少々。いえ、いいんです。そんな雑炊をぐちゃぐちゃかき回すようなやり取りを最も嫌うのだろうと、宇八は思い、気に入ったが、欽二は口をぽかんと開けていた。
先に来たユッケと生レバーを獅子男は、ご飯を掻き込むように片付けていく。宇八は生玉子をかき混ぜたユッケは好きだが、生レバーはあまり進まない。欽二はどちらもおそるおそるという感じである。大きなステンレスの皿二つに盛られて出てきた肉を獅子男と宇八で所狭しと網の上に並べる。煙が上がる。炭火にしたたり落ちる脂が炎が上がったりもする。裏返したかと思う間もなく、二人はピンク色のまま、タン塩やロースをどんどん食べていく。カルビやハツはサンチュを巻いて食べ、シマチョウやミノはさすがによく焼いてから食べ、骨付きカルビも骨から肉が離れやすいようによく焼かないといけないが、まだ凍ったような状態で出て来たので、焼けるのに時間がかかる。百合はゴブレットの小ビールを静かに飲みながら、紫のワンピースから色気だか香気だかを立ち昇らせている。そこだけが焼肉の焼ける匂い、にんにくの匂い、煙とは無縁のようである。……
宇八が骨付きカルビの骨の周りをガシガシ齧っていると、
「そのなんとかトカゲを何匹輸入するつもりなんですかな?」と獅子男が訊く。
「まずは、2、3匹。これをマスコミに売り込んで評判になるようにするんですわ」
宇八がその場の思い付きを言うと、チヂミを口に運ぼうとしていた欽二はびっくりしたのをごまかすため、もう一度タレを付ける。
「なるほど、それはうまい手かもしれませんな。とすると輸入する費用よりも、テレビや雑誌の工作費用の方がかかりますな。いい広告代理店と組まないと」
「さすがは時木さん、話が早い。……どうもそっちの方は我々暗いんです」
暗いのはそっちの方ばかりではないのだが、あくまで自信を秘めつつという態度を変えない。
「いや、わたしもそうくわしいわけでもないが、最近大手の広告代理店に変えてみて、あの世界が見えてきました。いやあの業界も大きな声では言えんが……」
そう言いながら大声で、大層な口上のわりに陳腐な広告コピー案だとか、クライアントの重役のぼんくら息子だらけで使えるやつはほんの握りだといった悪口雑言の限りを尽くす。しかし、他人の悪口は酒がすすむ何よりのつまみである。ビールだ、韓国焼酎だと杯を重ねる。最初に注文した肉や料理の(欽二が見るところ)4分の3くらいは獅子男と宇八が平らげ、カルビ・クッパと冷麺をそれぞれ追加注文し、おでこがてらてら、顔中真っ赤にして、しきりに握手して、資金提供もOKだということで、すっかり意気投合してしまった。
ただ、資金の支援が叶い、胸を撫で下ろした欽二が慎ましくタン塩をレモン汁に漬けながら、
「茉莉さんの具合はどうですか?お家で寝ておられるとか」と訊くと、獅子男はおやという顔をして、カルビクッパの中にスプーンを置いてから答えた。
「茉莉にも会われているんですか、お二人は。……まあ、大事はないんですが、外に出るのはもう少しかかるんじゃないかな。なあ、百合」
百合がまつ毛の影を作りながらかすかに頷いた。
ご機嫌で外に出て、しばらく行った交差点で時木父娘と別れた。欽二は胃もたれと飲み過ぎで顔色が良くなかったが、うまくいきそうなのはうれしい。獅子男の様子や今後の見通しを交々喋っていたが、宇八が突然立ち止まって、後ろを振り返って妙な顔をしている。
「どうした? 忘れ物か?」
「いや、あの獅子男ってやつはどこか会ったことがあるような気にさせるな」
「どこで会ったんだ?」
「いや。会ってはいない。……しかし、俺たちみたいに人生をそれなり生きてくると、時々似たようなやつに前にも会ったなって思うことがあるだろ?」
また、歩き出しながら言う。
「そりゃ、たくさんの人間に出会っているから、どこか似たところがあるやつはいるんだろうが。……しかし、時木さんみたいなのは滅多にいないぜ」
「そう、滅多にいない。だからこそ、そんな記憶の混濁みたいなことが起こるのか。……いや、振り返って自分を見たからそう思うのか」と酔っているらしいことを言った。
妖艶な百合、肉食野獣獅子男…はたして宇八と欽二はトカゲで金もうけできるのか。。展開が楽しみです。