夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

今日聴いた音楽~マーラー“シンフォニー第8番”

2005-08-23 | music

 マーラーのシンフォニー第8番変ホ長調(1907年)は広く知られているように“千人の交響曲”と呼ばれる巨大な作品ですが、そのため象を撫でているような捉えようのなさを私は感じていました。あまりの大編成で、家庭のステレオでうまく再現するのは困難ではないかと思いますが、今回バーンスタイン、ウィーン・フィルらによるDVDで映像とともに聴いて(観て?)、少し中身がわかったような気になりました。

 マーラーは大掛かりな作品の中で神経質と言ってもいいほど、きめ細かな書き込みをしているところがオペラ指揮者らしいわけです。例えば時折現われる辻音楽師ふうのヴァイオリン独奏などに見られるように彼の故郷や出自に対する想いが込められているので、細部がわからないとつまらなく感じます。オペラだけじゃなくて巨大なオーケストラ作品においても視覚の重要性というのはあって、DVDを見ててコンサートにもいかなきゃだめだなって思いましたw。

 指揮台でジャンプしたり、歌ったりするバーンスタインも大変な熱演ですが、独唱者の熱唱ぶりも見事で、エッダ・モーザーを始めとする3人のソプラノ、アグネス・バルツァらの2人のアルト、テノール、ヘルマン・プライのバリトン、ホセ・ファン・ダムのバスがそれぞれはっきり区別して聴くことができます。

 この作品は大きく2部に分かれていますが、第1部は9世紀のフラバヌス・マウルスという大司教が書いたラテン語の賛歌(hymnus)“来たれ、創造主なる精霊よ”によるテクストで、第2部はゲーテの“ファウスト”の最後の個所、つまりドイツ語をテクストにしていて、独唱者がグレートヒェン(贖罪の女)や法悦の教父などの役割を持つことになります。つまりカトリック的な大規模な合唱曲とコンサート形式の楽劇がつなぎあわされているようなもので、この2つのテクストが内容的に密接不可分に関連しているのかどうかは正直わからない気もします。第2部の最初の部分をあえて器楽だけにしたことで、その格差を埋めているのはわかりますし、少年合唱団の使い方など音楽的には3、4番のような声楽付きの作品と共通点が多いようです。

 ただこれがシンフォニーと言えるのか、そう聞えるのかは疑問で、“大地の歌”とともに形式面から素直に言えばカンタータってことになるでしょうね。第9や第10シンフォニーの構想から窺える厳格な様式感とそれに束縛されない奔放な感覚が彼の中では矛盾しながら共存する、アンヴィバレンツを成していたのでしょう。

 そういう矛盾のおもしろさという面では、マーラーと同じユダヤ人のバーンスタインが指揮をしていることも言えると思います。承知のようにバーンスタインは「ウェストサイド・ストーリー」を始めとして作曲も多く手がけていて、彼のシンフォニー第3番“カディッシュ”が典型的ですが、常にユダヤ人としてのアイデンティティにこだわってきた人です。もちろんキリスト教徒でない者(マーラーはアルマと結婚する必要からか1897年にユダヤ教からカトリックに改宗しています)が演奏しても全く問題ないですし、信仰心で演奏の良し悪しが決まったら不思議ですが、この曲の宗教性(の有無も含めて)についてバーンスタインは意識的にならざるを得なかったんじゃないかと思うと興味深いものがあります。

 最後の“Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan”(永遠の女性的なるもの、我らを引きて行かしむ)という神秘の合唱を聴くと、マーラーはこれを作曲したくて全体を構想したようにも感じられます。コンサートホールの後ろの最上階のブラス群が第1部冒頭のテーマを回想するように響かせると、あたかも天上界の聖霊が我々を迎えに来たように感じられ、この作品が自然や人生をただ肯定するような凡庸な音楽とは次元を異にしていることがわかります。


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