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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「第二西天」

2010-06-21 12:31:04 | 西天竜

 『西天龍』(北部教員会西天龍調査委員会編/昭和29年)の「開発に関する経済問題」では西天竜開発時における経済的背景を触れるとともに、開田事業完了後の精算状況が記されている。そして将来はどうかという展望においては、「裏作」がなかなか進展しない状況について漏水などによる水不足がいまだ経営に影響しているというのだ。それを解消するためにも
 1.幹線道水路の完全修理による漏水防止
 2.支線土型水路のコンクリート化
 3.途中から電力によって水をあげる(電力は冬期の水を利用して発電する)
 4.第二西天が実現すればそこから水を融通補給を受ける
といった方策が掲げられている。この本は教員が作り上げたものであるが、その指摘は後の歴史を見ればまったく的を得たものということになっただろうか。掲げられた四つの策は、着実に実行されてきた。幹線道水路が全面的に更新改修が始まったのは昭和52年からのこと。支線水路がコンクリート化され始めるのも昭和30年代のことであるからこの本が出てまもなくのこと。電力によって水をあげるという意図が具体的にどういうものであったかこの文面からは察知できないが、やはり昭和30年代に最下流の伊那市小沢において揚水によって新たな開田がなった。そして4番目のこの時代に「第二西天」と言われていたものは、昭和47より始まった国営伊那西部水利事業として結実した。「地区外」「受益」という農水のキーワードを当てはめると融通補給を受けるというわけにはいかなかったが、かつての水利権の既得権益が絡んでか、伊那西部の用水がまったく西天竜のエリアに入ってこないわけではない。もちろん意図するものにはほど遠いかもしれないが、そもそも西天竜に水田を持つ人が、伊那西部に畑を持つ人も多い。西天竜の開発によって畑を失ったものの、伊那西部において畑を得たというのがこの二つの地域をセットにした総合的な観点と言えるだろうか。しかし、現実的には昭和46年に生産調整が始まり、水田であっても米を作れなくなったのは、総合的な目論見が破綻する始まりだったかもしれない。いや、そうではない。そもそも第二西天も水田が欲しいと目論んだもの。たまたま事業は上段(第二西天)畑地帯、下段(西天)水田地帯という分担になったが、やはり「水田が欲しい」人はまだまだたくさんいたのである。

 第二西天の話はこの『西天龍』が編まれていた際にはかなり現実的なものだったのだろうか。そもそも西天竜の取水口が意図通りのものだったら現在の位置にして40メートルは西に上がったという話は「『西天龍』の回顧談から①」でした。多くの開田をしたいのならより高い位置で取水するにこしたことはない。それを補う意味でも西天竜の水をさらに揚水するという話が持ち上がるのだろうが、できてしまった水路を拡幅して水量を増やすということも容易ではなかったのだろう。もちろん時代が流れ、農地解放される以前(西天竜が造られた時代)と以降では権利者意識が大きく異なっていただろう。安定化している区域と、そうでない新たな開発区域をセットで何かをしようという目論見は、なかなかうまくはいかないもの。はたして持ち上がってきた第二西天に対して、西天竜の人々はどう見ていたのだろうか。同章では「第二西天の開発と開拓精神」を最後に取り上げている。そこで「裏作緩和に大きく力を得ることであろう」と述べ、「先輩の成就した偉業の不撓の開拓精神を継承すること」「前計画にしても当時の金にして僅か百萬円を計上すれば現に掘りつつある川岸より辰野に抜ける隧道工事も当時併せて完成されたともいわれている如く眼前の小利に捉われることなく遠大な視野のもとに計画すること」といった指摘をしている。とくに単作化することを危惧しているわけであるが、実は現在の農業はその単作化にみごとにはまってしまったわけである。

続く


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