テルミンとJAZZ
テルミンやマトリョミンの話。私、こちろうこと相田康一郎のプロフィールは左メニューバーのCATEGORYを。
 



 テルミンをやっている方には「どうして始めようと思ったのですか」と聞きたくなるし、よく聞かれる。映画がなんらかのきっかけになっている方は多いが、映画そのものが直接的きっかけかというとそうでもなかったりすることも多い。
 私も映画テルミンは大きなきっかけになったが、どうしてその映画を知ったのか、その後レッスンを受け始めるまで突進していったのか、我が事ながら今一つはっきりしない。
 ただ、楽器は何かやりたいと常々思っていたことは確かである。家に放置されているピアノはどうか、ウクレレは手軽で面白そうだ、など。でも、どれも実行するまでには至らなかった。
 想像だが、テルミン弾き共通の心情的特性として「普通では面白くない」ということがあるのではないだろうか。もっとはっきり言えば、変わり者?(私およびこれをお読みになっているあなただけは違います)。
 今はテルミンが「変わった珍しい楽器」ではなく、「普通の楽器」として広く認識されることを望む気持ちと、「珍しくて弾く人の数も少ない楽器をやっている自慢の心」が同居しているかな。(最後はテーマが変わってしまった)

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 私は小学校のときにトランペット、中学でホルンを少し吹いていた。真剣に楽器と向き合っているのはこのとき以来である。つまり、楽器演奏ブランク25年超。
 金管楽器との共通点につき少し思っているのは、まず頭に次の音が鳴っていないと、その音が出せないということだ。別の観点からいうと、音を出してからでも微妙に唇や口の形をコントロールして音程を合わせている管楽器とテルミンのピッチコントロールに共通点を思うことがあるということである。(ホルンではベルに突っ込んだ右手のひらでも音程と音色をコントロールしている。)
 たぶん、フレットレスのギター類やチェロ弾きなんかも同じかな。そういえば、テルミン博士はチェロの名手だったそうだし。バイオリンはどうなんだろうか。
 もうひとつ思い出したのは、管楽器の練習はロングトーンに始まりロングトーンに終わることである。まっすぐに音程を安定させて大きな音で一つの音を鳴らす。これがキレイにできるようになれば、曲を演奏してもうまくいく。テルミンも上達するごとにロングトーンを安定させられるようになる。
 今日は話しにオチなし。(昔、大阪勤務時、毎日朝礼で話しをしていたが、「○○さんのハナシにはオチがないなー」と所属員から大阪弁でダメ出しされてたことを思い出した。)

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 他の楽器で、完璧な直立不動での演奏を要求するものはない(と思う)。初心者には「まっすぐ立って」と指示される楽器であっても、音楽と自らの表現欲求に合わせて、自然と体が動くものだと思う(たとえば、フルートなどの管楽器やバイオリンを立って演奏しているときを思い浮かべる)。
 テルミンは興が乗ってきて、体を動かそうものなら、音程が狂い、感情表現どころではなくなる。そこで、音量を盛り上げるときなどに、ボリュームコントロールしている右肩を「くーっ」とまさに盛り上げる程度が関の山。後は、ほんのちょっと顔をふるくらいか。
 直立不動というのは緊張の姿勢である。だから、緊張して無くてもそのカタチが緊張を呼び込んでしまう、ということもありそう。その点では、右足も含めて、いくらか大きなポジション異動を行うリディアさんや、腕全体をダイナミックに動かすことも多いやの雪さんの奏法の方が、不用な緊張を防ぐ効果もあるかもしれない。
 あと、緊張すると、もしくは一点に集中すると、人間のカラダは徐々に前のめりになっていく傾向がある。以前よくヘタなゴルフをやっていたが、ボールに集中すればするほど、どんどん前のめりになってミスショットということがよくあった。簡単そうに思える止まっているボールを打つことが、飛んでくるボールを打つこと以上に難しい面があるのは、テルミン演奏に相通じるものを感じる。

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 テルミンでブログ検索してみると、未だに映画テルミンのことが結構書かれている。
 最初に映画館で観た時は、少しとっちらかった印象であった。楽器そのものに対する興味で映画を観たせいもあるだろう。
 その後しばらくしてDVDを購入し、見返してさらに相当期間経過した。今、頭に残っているのは、あの映画がドキュメンタリーであると同時に、いやそれ以上に、ラブストーリーであったということである。
 テルミン博士とクララの愛は時空を超えている。あれだけ長い時間と場所を隔てた2人の間にはご当人にしかわかりようのない、深いものが流れていた。饒舌なクララと静かに佇むテルミン氏、切なくも暖かい。それが作り物でないことに言いようのない深い感動を覚える。
 今の私にも、テルミンに出会わなければなかったであろうヒトとの出会いがあるが、テルミンの導きに感謝である。

興味深い内容紹介を見つけた。「B級映画」とのカテゴリーにちょっと危ないものを感じつつ読んでみたら、内容はきちんとしたものであった。(2005.1.7)


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 先月訪問したロシアでは、師の師であるL大師匠と、旅行に導いてもいただいたT師匠の本番の演奏をかなりたっぷりと聞いた。
 これはレッスン時の師匠の演示の際にも感じることだが、師匠たちの演奏にはピッチの安定や強弱のニュアンスのつけ方、はたまた音色ということ以外に、「音の力」とでも表現すべき何かがあるということをあらためて意識した。
 何か、を表現することは難しいが、それは「自信」の現われ、であろうか。または、「プロとしての演奏への取組みの心がまえの違い」であろうか。誰かから「そうしろ」と、言われてそうしているのではない、体から、あるいはその精神から音楽の力がにじみ出てきてしまうようだ。特に、ホールコンサートなどでは、そのオーラが輝きまくる。
 音の力とは強い音や大きな音を言っているのではない。小さな弱い音にもこめられている何かである。
 この境地はプロだけに与えられるものか、これが出てくればプロになれるのか。どんな世界でも、このあたりが最終的にプロとアマを分ける大きな厚い壁なのであろう。40過ぎのサラリーマンおやじとしては、その足元にでもたどり着くべく、はるかな地平を見ながら精進あるのみ。

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 テルミンを弾き始めた約3年ほど前、1曲弾くごとにひっくり返っていた。体や精神が極度の緊張を強いられるということのほかに、「息が出来ない」ということがあったと思う。不動の姿勢を保つため、また、なんとか正確なピッチを確保しようとするあまり、呼吸を無意識のうちに止めてしまうのである。
 以前ほどではなくなったが、今でも息苦しく感じることはある。家での練習を聞いている家族によると、テルミンを演奏しているときの私の鼻息が激しくて、すごく気になるそうである。確かにレッスン時にマイクでMDに録音している私の演奏を聞くと、ときどき吸う鼻息の音が聞こえている。あるタイミングで、すごい勢いで鼻から息を吸っているようである。師匠にはそんなことはないようだ。今度ブレスについて、何か意識していることがあるかどうか、聞いてみることとしよう。

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 この、ブログも開設後ほぼ3ヶ月がたった。以前に記した内容で続きを書くべきものをそろそろ整理してみようと思った。
 8月14日の記事で、私はテルミンの中央より左に立ち、右足を幾分下げて、体の右側をやや開いているとした。そしてその理由を指の動きがよりピッチ軌道(垂直のピッチアンテナと右胸上を結ぶ線上)に乗りやすいようにと記した。
 なぜ、そのような立ち位置にしているのか、もう少し詳しく書く。それは右脇を少し空けて、正面から体を見たときに腕が体から45度になっていることに関連する。右脇を空ける(=右ひじを体から離す)と、手首から先の動きがどうしてもピッチ軌道からズレてしまうのである。それを少しでもピッチ軌道に合わせようとすると、手首を外側に不自然に曲げなければならなくなる。そこで、そうならないようにやや右足を引いて、体も右側をテルミン本体より離しているのである。
 それでも完全には手首から先の動きはピッチ軌道に乗らない。少し角度がついてしまう。どうもすっきりしないのだが、それでいいのだ。と、バカボンのパパ風になってしまったが、本当にそれでいいのだ。もっと本当のことをいうと、それでいいのかどうか、もうひとつまだしっくりしていない。少し考えていることは、完全にピッチ軌道と手首から先の動きが一致しているより、多少ルーズな方がかえってピッチをとりやすいという利点があるのではないか、ということである、これが本当かどうかは、また後日(後年になる可能性高し)。

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 前回の池袋のレッスンではSさんが私も2~3ヶ月前に練習した曲を練習していた。その曲はロシアの発表会でもやろうかなと思っていた曲だった。レッスンでは皆好きな曲を個人レッスンの形式でやっているが、自分の練習した曲を別の人が弾いてくれるのはとても参考になる。
 Sさんの演奏はとても優しい音で響いており、以前にも関連したことを書いたが、同じ楽器、同じスピーカー、同じ部屋でも、その音色は私のものとは完全に別物であった。
 先生はよく「ビブラート」が音色を生むとおっしゃる。その点が確かに最も音色に影響が大きいのだろう。そのほか、「腕(や手先)の力の入れ具合」もあるようだ。「優しく弾く」というのはポルタメント気味に、ということのほかに、「肩から先の腕の力を抜く」ということでもある。
 カクカクしすぎている(らしい)私の演奏も、これからもっと力を抜くことや、粘りのある音程変化に気をつけてみたい。
 そのような奏法による音色変化のほかに、やはり、体(の成分?というようなモノ)そのものに音色を決定付ける要素があるような気がしてならない。さらにいえば、心(精神)のありようも音色を決めていると思う。リディアさんもロシアで「心で弾く」というようなことをおっしゃっておられたような、、、。音色だけのこととは意味が違うと思うが、、、。
 テルミンの音色については、なるべく素のテルミンでいい音色が出せるように修行を重ねていきたい。

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 ロシアでのコンサートやテルミンさんゆかりの地への訪問は、強く心に残るものであった。特に強く感動したのは、サンクトペテルブルグ工業大学のなんの変哲もない、ある部屋に足を踏み入れたときであった。そこは1920年、テルミンさんが楽器テルミンを発明した部屋であった。彼がそのときその楽器を発明していなければ、私がテルミンを楽しむことはなかった。また、私がロシアの地を訪ねることもなかったことを思うと、何か、テルミンさんやテルミンという楽器に導かれてここに来た、そしてテルミンを楽しむ私が今ここにある、という感慨に包まれたのである。
 思えば、楽器の演奏者がその楽器の発明者のことを強く意識するということ自体、すごく稀なことであろうと思う。世界最古という枕詞がつくものの、たかだか80数年前に発明され、約10年前までは発明者も存命だったのである。少しだけ古いけど新しい楽器。バイオリンなどの歴史に比べれば、まだ楽器テルミンの歴史は始まったばかり。竹内先生がお考えのように「テルミンが普及する環境が今まさに整ってきた」のかもしれない。そういう時代に身をおけて幸せである。早すぎず、遅すぎず、何事にもタイミングは重要である。

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