ガット乃至ナイロン弦ギターで演奏される音楽について、である。個人的に所謂クラシックギターで演奏されるクラシックと称される音楽に興味はない。昔は必ず禁じられた遊びがコンサートプログラムにあった。最近は必ずと言っていい程アルハンブラの思い出、魔笛の主題がある。また『粉屋の踊り』などについて『火のような』なんて誉め言葉などが掲載されている。あんな曲やトウリーナのマドロニョスの何が面白いのだろうか?ギター愛好家は演奏家に甘い。こうして内輪のなあなあ凭れあいで、懸命にクラシック音楽の仲間入りしたいが出来ない。そこへ楽器店が介入し、ここに濃密な排他的錦鯉愛好の自己愛集団が形成される。セゴビア、イエペスなどの何の演奏が例えばエッシェンバッハのシューベルトから立ち上る郷愁やロマン、ラゴスニックのリュートによるバクファルク、その憂鬱な音の構成に比肩し得るだろうか。
個人的にはギターは和音と旋律の楽器ではないと思っている。初夏の風薫る中庭、その冷たい大理石の床にビー玉をバラバラッとバラまく、そこに光りが屈折反射して・・と言った感じの始めもなく終わりもない構成的な響き、が最もこの楽器に相応しい。でももう一系統、フラメンコギターがある。暗闇にそこだけ明るく花が散るようなラスゲアドと繊細なモノローグ、長調でも短調でもないフリギア旋法の音楽はギターにぴったりだ。ギターはその形、フレットの押え処で音を作ると言う性質上、『曖昧とゆらぎ』が避けられないから。
つまりそうなんだ、リュートやギターは本来弾く人自身の為の楽器だ。モノローグの為の楽器なのだ。
ギター調弦でアルベニス作曲のグラナダを演奏できる人は少ないと思う。EからBのセーハで左指が疲れてしまって続けられない。だから殆どのギターは楽器として失格だと思う。どんなに有名な製作家の作品でも私がこの曲をギター調弦で演奏できなければその楽器は私にとって価値がない。そういうわけで今持っているギターはみな価値がない、或いは編曲が不味い。弾けない編曲を平気で市場に出す無神経厚かましさは我々を小バカにしているのか。
でもこの美しい曲をつまらない楽器や自分で弾けもしない編曲を出版する横着さで埋もれさせるのは勿体無いと私は頭を捻った。そして思い着いたのがリュート調弦。3コースをF#にするとこの難曲が案外あっさりと弾けるようになる。しかしここでまた問題が発生する。フレッティングの不正確な楽器はたちまち馬脚をあらわすのだ。理由は簡単、5F,7F,9F等のセーハで中指、小指が4,3コースを跳ね回って旋律を演奏するようになり、人さし指が和音を支える。音程のなっていない楽器はすぐに分かるが、どう分かるかと言うと演奏に何となく興が乗らない、と言う形で出てくる。和音が微妙にずれるのだ。さらに、殆どの楽器の7F以上、特に3、4コースは歌わない。ギター製作家のコンクールがあるらしいが下らない工芸的出来など云々せずにギター調弦とリュート調弦の両方で演奏して楽器として成立するかどうかを見ればいい。凝ったモザイク、奇をてらう口輪、ヘッドの彫刻造型など幼稚且つ素人騙しの無用の長物。音程はどの調のどの和音でも正確か?
バイオリン族のただ一つの装飾は糸ぐらの巻き毛の彫刻である。ギターから一切の装飾が無くなった時がこの楽器が本当に楽器であっておもちゃでなくなる時である。
人間には肉体と重なるようにしてエーテル体、その周りにアストラル体なるものがあるのだそうだ・・・ものの本によると。そうかもしれないと思う、否定するか、肯定するか、どっちか選べと言われたら肯定する。・・・人にはオーラがある、肌で感じる、とか総毛立つ、とか言う、気配と言う、六感と言う、と言う・・・何か肉体に搭載されたインターフェイス以外の知覚感覚が人間にはあるように思う。
その感覚が『今、世界は何かが終わり、何かが始まろうとしている』と感じている。前頭葉論理思考での結果ではない、言う処の動物的カンである。中近東、欧州、東アジア、アメリカ、至る所で【既成概念、既成秩序】が壊死しつつある、・・ように感じる。一か所だけならそれは事件であるが地球全体で既成概念、既成秩序を足蹴にする、鼻であしらう体の風が吹いているように感じる。
しかし多分その腐敗土壌の下に何か新芽が出ているのではなかろうか。その新芽が伸びた時に人類は自分たちが営々として築いたもの、統治の形態、制度、思想が全く無意味で無価値であったことに驚愕するかもしれない。宗教なるものが騙しのバベルの塔であったととに気が付くかもしれない。
バベルの塔なるものは【塔を建てて天に到り、今度は散らされないようにしよう】・・その意は【今度洪水が来ても死なないぞ】・真意は【神に対する反逆】。ところが言葉を乱されて結局人類は蜘蛛の子を散らすように分裂四散し、相互に争うようになった。且つ、実体の塔に替えて思想の塔を造った、これが宗教。
宗教とは神を天とか言う処に押し込めて人間だけで世界を切りまわそうとする巧妙な前頭葉論理思考と美辞麗句にくるんだ恫喝の一大体系である。その宗教から出て来た人類統治の思想もハルマゲドンで崩壊させられるだろう。・・ハルマゲドンとは神に対する人類の反逆最終戦争だから。
北朝鮮問題とは要するに【核】を持て余している、自分で作って自分で始末できない問題であろう。解決は神さんにお願いするしかなかろう。煎じ詰めれば核拡散防止とか禁止とか言って臭いものに蓋をしようとしていたのが遂に燃え上がったのだ。さあ、どうする?!
しかし神さんは多分人類が万策尽きてもう勘弁して欲しい、見も蓋も恥も外聞もない、と音を上げるまで放置されるだろう。
愛だとか善意だとか男女平等だとか個人だとか人権だとか民主主義だとかの美辞麗句が一切消し飛んだ先に本当の救済があるように感じる。・・危険な考え?そうかな、我々はこの美辞麗句に目くらましされて何かに隷属しているのではないかな?