これはどうしたことか、三年前から高血圧症の札付きになって月に一度病院に出向き診察を受ける。そして薬を処方してもらう。一ヶ月分の薬だが三年前に比べて最近一ヶ月の経ち方が何となく速い。ところが一日は長く感じる。どうもよくわからない。
ネット上に沢山ある終末論を見ると終わりに近付くに従って時の流れが速くなると言うがそれだろうか?幸せな一日は長いと言うがそれだろうか?
自分が”幸せだと思う”、と言ったら多くの人から叱られるように思うが十年ばかり考えて、『人はみな本来幸せなんだ・・・人がどういう存在かを分かりさえすれば・・・』と思うようになった。かつてイエスさんは言った、『あなたがたがこれらのものを必要としていることを天の父はご存知なのです』を真に受けて生きればそうなるのだ。だから別のところで彼は『誰もこの子供達のようでなければ天の王国にははいれません』と言っているではないか。
ところが真に受けられない、受けられないからエデンでエバは禁断の木の実を食べた、・・・つまり浅知恵に頼った。そこからドミノのように恐れ、心配、四苦八苦、悪あがき、よくない結果、焦燥、殺し合い、環境汚染、などなどのウゾームゾーがゾロゾロ這い出して来た。
東洋の知恵者はこれを断つために”何事も放てば満つる”と言ったのだ。幸せになりたいとの願いが到底不可能と知ってその思いを放ち、ぼんやりと空を渡る雲を見る、雲の嶺が夕日に輝くをを見て、”美しい”と感動した瞬間、諦めていたものは空間のわずかな隙間を通して垣間見える。
人間は所詮、”宇宙と呼ばれる思念”の無数の”現象”の一つ、アブクのようなものに過ぎない。個々に”個の意識を持っている”との思いや確信は”幻想”に過ぎない、もっと言えばその現象を生ぜしめた宇宙に対する僭越思考、例えればエサをもらう猫が我こそはこの家の主と思い込むのに似ている。
苦痛の人生であればそれは宇宙がそれを体験してさらなる生成の糧にするために仕組んだものである。こう考えれば順風満帆の人生が望ましいものではあっても閻魔大王にさして喜ばれない手土産と言うことになろう。閻魔大王が喜ぶのは”不幸にして私はこういう不如意な人生を歩むことになったが、でも懸命に生き、こういう結論になった”と言う自分自身の姿を以ての報告であろう。・・・なんだかヘンな方向にずれたなあ、
昨年、”地球に近付く巨大宇宙船”と言うのをネットで読んだ、見た。”今、冥王星の近くを航行中”ともあった。今年の12月中旬に地球に接近などとの解説もあったが、それにしては遅い、もう11月中旬だからそろそろ”アレハナンジャ?!”と新聞紙上やテレビ報道で騒ぎ出していいのではないか?